第3話

 どんなに幼い子供にだって、酷いことは起こる。私だって、そうだった。家族みんなして、どうしようもない日々を送った。それで、生まれ故郷を離れるはめになったのだった。私だって、できることならば、ずっとここに居たかった。そうすれば、今、こうして神社の名前が解らないで嫌な気持ちになることもなかったはずだ。痛いな、痛い。大きくなったって、いつまでも変わらない。

 しばらくして、鳥居のサイズが小さくなる。学校の廊下のよう。ここから先は、その廊下が二手に別れている。青年と神主は、左を行った。続こうとすると、女の子は右を指差す。

「どちらから行っても、着く先は同じだよ」

 それなら、いいか。私には、行きたい学校がある。大好きなあの子も行くはずのところ。同じところに着くのなら、九州の学校から進んだって同じ。だって、同じ試験をパスしなければならないのだから。大丈夫。自分に言い聞かせる。

「私が九州で生きていた時、あの子は京都で生きていたのか」

 そして、私は京都に舞い戻る。感嘆の溜め息が漏れ出す。

「私だって、生きていたよ」

「そうね」

 目に見えない範囲の人間のことなんてどうだっていい。だって、そんなことをしていたら、自分のために生きていけないもの。だからと言って、自分の人生に関与しない人間を否定してもいいことにはならない。こちらの回廊が続くように、隣でも回廊は続いている。女の子と私が歩くように、隣では青年と神主が歩いている。


 *


「あれ」

 唐突に気付く。足音が足りない。歩みを止めると、神主は億劫そうに振り返った。口を開くのも、面倒なようであった。どうしたと目で語る。

「白いワンピースを着た女の子が」「今日は七夕だから」

 鈴の音が、頭の中でした。子供の頃、折り紙で天の川を切り出すのが好きだった。

 すぐ隣に居る母は、色とりどりの紙テープを転がす。五角形の星だ。僕らは凝り性だから、他の飾りには目もくれず、同じものばかり作った。そうして、地味な七夕の笹が出来上がった。

 数日経って、ようやく父は行動に出た。図書館から季節の工作の本を借りてきたのだ。父は医学者で、家にもそういう本が溢れかえっていた。だから、母と子の目には珍しく映ったのだろう。父は最初、折り紙でちょうちんを作った。母と僕があれも作ってこれも作ってと催促する。おもしろがって、七夕飾りどころか、本に載っているものをまるごと再現してもらった。

「七夕だけじゃあ、もったいない。ずっと飾っていよう」

 母と僕、どちらからともなく口走る。そんなの本当はおかしい。けれど、父は笑って「いいよ」と言った。いつまで経っても、子供さのものの母。いつかは大人になってしまう僕。あのとき、父が願ったのは、家族の幸せそのものだったに違いない。

「家で七夕なんか祝ったことがあったのだろうか。そんなことも知らない」

 目の前にある背中。シャツの白に、やりきれなさが深く沈んでいった。この人は、自分と似たような境遇なのだろうか。そうだとしたら、出逢ってほしい。哀しみを癒す人に。

「そう心配してくれるな。今の僕は、探し物をするのが仕事なんだ」

 神主は笑った。音がする。今度は、鈴のような愛らしいものではない。騒々しさに、耳をふさいでいた。それでも、耳に入ってくる。これは、笑い声だろうか。かたかた。けたけた。朱の回廊が途切れ、光の中に出る。件の絵馬が、それこそ生きた馬のように駆けまわっている。小さな社から抜け出そうと、互いに板を打ち合わせているのだ。

静保しずほだ」

 声は届かない。それでも、僕の表情を確認した神主は理解した。腰に下げていた狐面をつけ、自らの体を盾にする。獣が襲いかかる。顔ばかりの絵馬が体を得た。

「そりゃあ、そうだよなあ。僕だってお前らの立場なら、嬉しくって舞い上がりたくもなるよ」

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