過去編

ものがたりのはじまり

 私は、外の世界を知らない。


 たまに会いに来てくれる両親。お世話をしてくれる看護師の人たち。パソコンの文字で話すインターネットの向こう側の人。


 それ以外の人たちを、私は知らない。


 友達。その言葉が理解できなかった。


 私にとって、同年代の子たちというのはこことは違う、どこか遠い世界のものに思えたから。


 物心ついた時から、私はずっとここでひとり。それを不幸せだと思ったことも、一回もない。


 とある病院の、一人部屋の病室。ここが、私のいる世界の全部だった。






 どこからともなく消毒液の匂いがする、殺風景な病室。そこに置かれたベッドの上に、リクライニングでもたれながら一人の女の子が座っていました。


「光里さん、今日のお昼ご飯は卵のお粥ですよ。よく噛んで食べてくださいね」

「ありがとうございます」


 女の子、光里は看護師の女の人に見守られながら。手の力を強くするパワーアシストグローブを身に着けてスプーンを握り、少しのネギが乗った卵入りのお粥をゆっくりと一口一口よく噛んで食べます。


「ごちそうさまでした」


 お粥を全部食べ終えると看護師の人はお皿を下げてテーブルを拭き、そこにノートパソコンを開いて置いてくれました。


「また何か困ったことがあれば遠慮なくナースコールを押してくださいね」


 そしてそう言って看護師の人が病室を出ていくと、光里はアシストグローブをつけた指でパソコンを起動して、【ブレイブアークオンライン】というオンラインゲームのアプリを起動しました。


 光里が動かしているキャラクターはフリフリの衣装を着た魔法少女のような女の子で、武器として背中に大きな魔法の杖を背負っています。


 そんな彼女をゲームの中の街で待っていたのは、ボロボロの黒い衣装と半ズボンを身に着けて二本のナイフを持った幼げな美少年。頭の上には【ナイト】と彼の名前が書かれています。


【お、来たかシャイン。また狩りに行くか?】

【今日はちょっと戦いはやめておこうかな】

【雑談だけか。わかった】


 シャインというのは、光里のこのゲームでの名前。ナイトはゲームの中での光里の仲間で、よく一緒に遊んでいるのです。けれど今日は調子が良くないので戦いはしないで、拠点の街でおしゃべりすることにしました。


 光里はそこまでゲームそのものが特別好きというわけではありません。ですがアバターという姿を持って仮想の街を歩き、外の世界の人たちとお話できるオンラインゲームは、光里にとってはお出かけ気分を楽しめる貴重な遊びなのです。






 オンラインゲームで病室の外を歩く気分を少し楽しんで、他にもパソコンを使って動画を見たりお勉強したり。パソコンの画面越しに外の世界を眺めるのが光里の毎日です。


 病室でそんな日常を今日も過ごしていた光里でしたが、転機は突然訪れました。


「失礼します」

「あれ、先生? どうしたんですか」


 診察の時間ではないのに、何やら神妙な面持ちで光里の主治医の先生が病室へとやってきました。一体どうしたというのでしょうか。


「今日は君に大切な話があるんだ」

「大切な話、ですか?」

「突然で済まないが、君には別の病院に転院してもらうことになった。本当に突然だが、明日の朝にはお別れになってしまう」


 先生のお話というのは、急に転院が決まったというもの。しかも出発は明日だといいます。


 この病院は、光里にとって幼い頃から過ごしてきた思い入れのある場所。あまりに急なお話に戸惑いを隠せません。


「転院? どうして……」

「詳しくは彼女から聞いてほしい」

「私は厚生労働省の綾峰沙織あやみねさおりと申します。よろしくね、茅瀬光里ちゃん」


 その理由は主治医の先生と一緒にやってきた、綾峰沙織を名乗るスーツ姿の女性から語られることになります。


「早速転院についてお話させていただきますが、あなたはご自分の病気については何かご存知ですか?」

「いえ、何もわからないって。ただ身体のあちこちが弱くて……」


 光里が何年も病室で過ごしているこの病気の原因ですが、実は光里自身も、主治医の先生ですら何もわかっていません。それらしい原因も見つからず、ただただ身体がどんどん弱っていくというのが光里の病気なのです。


「研究の結果あなたのそれが、新種の病気だとわかったんです。そしてその病気にかかっているのは今は全人類であなた一人ですが、今後他にも発症者が出る可能性が高いのです」

「新種の、病気……」

「なのでその病気の研究と治療法の模索の為、あなたには是非政府直轄の特別な医療機関に転院していただきたいとお願いに参りました」


 沙織さん曰く、どうやらこの光里の病気のことがわかったみたい。その病気を調べて治すために、光里を転院させるのだといいます。


「お父さんと、お母さんは……?」

「勿論了承は得ています。今は先にあちらで待っていただいていますよ」

「それなら、よろしくお願いします」

「これからよろしくね、光里ちゃん」


 こうして状況を上手く呑み込めないまま、光里の突然の転院が決まりました。





 そして翌朝。


 病院のロビーにて光里は車椅子に座って、お世話になった病院の人たちとのお別れをしていました。


「これまで、本当にありがとうございました」

「転院先でもお元気で」

「いつでもまた会いにおいでね!」


 主治医の先生や看護師さんも、何年も診てきた光里が行ってしまうことには寂しさもあるようで、涙ぐんだ様子で彼女を見送ります。


「では、光里ちゃんは責任を持ってお預かりいたします」

「どうか彼女を、よろしくお願いします」


 そして沙織さんと先生、大人同士で一礼すると沙織さんは光里の車椅子を押して病院の外へと向かいました。


「行きましょう、光里ちゃん」

「はい」


 そして病院の前に停まっているワゴン車に車椅子のまま乗せてもらい、沙織さんは運転席へ。彼女の運転で、新しい病院へ向けて車が出発します。


「ところで私、どこの病院に向かっているんですか」

「凄いところよ」


 病院で「凄いところ」というのはどういうことなのでしょうか。


 しばらく道を走った後、車はとても病院には見えないビルの地下駐車場へ。その一番奥にある車も入れる大きなエレベーターの中へと入っていきました。


「外に出たことがないのでわからないんですが……ここ、病院じゃないですよね……?」

「大丈夫よ。安心して」


 本当についてきてよかったのかなと不安に思う光里に安心するように言いながら、沙織さんは車を降りてエレベーターのボタンをいくつも押します。何階に行くのか、ではなくそのボタンでパスワードを入れているのです。


 パスワードを入れ終わって扉を閉じるボタンを押すと、ガタンと音を立ててエレベーターが上へと昇っていきました。


「え、えっ……?」

「ゆっくりしていてね。あと10分もしたら上に着くわ」

「はい……」


 エレベーターで10分はかなり長くないかなと、光里は思いました。病院のエレベーターも何秒かで着くのです。一体どれだけ高いところに行こうとしているのか、想像もつきません。


「沙織さんって、本当に政府の人なんですか……?」

「そうとも言えるし、そうでないとも言えるわね」


 そして沙織さんに対して、少し不信感も抱いていました。どう見ても病院じゃないビルの地下に連れて行かれて、今度は長過ぎるエレベーター。質問への曖昧な答えもあり、信じきることはできません。


「着いたわね。行くわよ」


 そんなもやもやを抱えている中、エレベーターがついに到着したみたい。扉が開くと沙織さんはアクセルを踏み、車を外へと発進させました。


「あれ、さっきはお昼だったのに……」


 光里がふと外を見つめると、そこにはおかしな光景が広がっていました。


 さっきまで真昼だったはずなのに、空は真っ暗な夜に。街並みもさっきまでのにぎやかな普通の街とは違い、飾り気がない真っ白なビルがたくさん並んでいるだけ。


「病院まではもうすぐよ」


 こんなよくわからない場所に、新しい病院があるのだと沙織さんは言います。一体、どういう病院に着くことになるのでしょうか。


「着いたわ。降りましょう」


 そうして考えているうちに、車は病院に着いたみたい。沙織さんは車を駐車場に停めると、後ろのドアを開けて車椅子に座った光里を降ろしました。


「大丈夫? 酔ったりしてない?」

「はい、ありがとうございます」


 沙織さんに車椅子を押してもらいながら、光里は病院の建物へと向かいます。心配して声もかけてくれますし、やっぱりちょっと大丈夫かなと光里は少し安心しました。


 この病院は他のビルと同じように真っ白で飾り気のない建物ですが、大きさはこれまで入院していた病院よりもずっと巨大。その大きさに圧倒されながら、自動ドアの開いた先に入っていくと……。


「光里ーっ!」

「いつも通りで何よりだよ、光里」

「お母さん、お父さん……」


 そこには、光里のお母さんとお父さんが待っていました。お母さんは光里の姿を見るとすぐに駆け寄り、その身体をぎゅっと抱きしめます。


「ごめんね、急にこんな所に来させちゃって」


 抱きしめながらそう言うお母さんは、どうやらここが何なのか知っているみたい。ちょっと訊いてみようと思った矢先、この病院の人らしい白衣のおじさんが病院の奥からやってきました。


「ようこそ、茅瀬光里ちゃん。NOAHノア特別医学研究所へ。私は所長の不動だ。よろしく」

「よ、よろしくお願いしますっ」


 ここの一番偉い人らしいおじさん、不動所長に握手を求められて、光里は緊張しながらも応じます。


 彼はここを研究所だと言いました。病院ではないのでしょうか。


 でも自分の病気が新種でその研究の為に転院するのなら、こういう場所でもおかしくないのかなと光里は自分で考えて納得しました。


「次に君につきっきりでいてくれる専属ヘルパーを紹介しよう」


 そしてどうやらここでは、常にヘルパーさんが一人ついていてくれるみたい。一体どんな人なんだろう。優しい人ならいいなと思う光里の目の前に現れたのは……。


「どうも……」

「女の、子?」


 どう見ても歳下の、小さな可愛らしい女の子でした。


「フラン。来栖・フランソワーズです。どうか私と、お友達になってください。光里さん」


 これが後に世界の行く末すら左右する、運命の最初の出会い。光里たちの物語は、この出会いから始まったのです。

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