第8話 ロクスタ

 ネロ様の治世において、食糧パン娯楽サーカスのうち、綻びが生じたのは食糧だった。

相次ぐ反乱をなんとか鎮圧したものの、その影響が穀物価格の高騰となってローマ市民を襲ったのだ。

属州からの穀物輸送船を待つために港に殺到したローマ市民は、輸送船に乗せられていたのがネロ様が取り寄せた闘技場用の砂だと知った時に、遂にその怒りを爆発させた。

暴徒たちが市街を練り歩く中、元老院は反乱鎮圧で活躍したヒスパニア・タラコネンシス総督ガルバを皇帝として選出。


ネロ様は母親アグリッピーナと同様に“国家の敵"とされた。


 「ロクスタ、きみもしばらく姿を隠すべきだな」


ネロ様は疲れ切った顔をして言った。

長年の不摂生で皮膚は弛み、腹は出て、無精髭が生えている。

髪は薄くなり、赤ちゃけて不気味でさえあった。

私もずいぶんとトウが立って、周囲の人間から見たら、不健康そうな魔女めいた女だったろう。

しかし、あの時は互いに出会った頃のような気持ちで相対していた、そのように思う。


「陛下は、ネロ様はどうされるのです」


「私か……あれだ、私が解放した奴隷で商売に成功したものがおっただろう。しばらくは、あいつの、ファオンのところに隠れて……わからない。その先のことは」


「ネロ様、私も連れていってください」


「ばらばらに逃げれば、いずれかは助かるやもしれん。聞き分けろ。生きておれば再び逢うこともあろう」


ネロ様は私をじっと見つめた。

私は懐から小瓶を取り出した。


「もしもの時はこれを……私の作った最新の毒薬です。ほとんど苦しまずに死ねます」


ネロ様は小瓶を受け取るとしげしげと眺めた。


「結局、きみとは毒を通じてしか関われなかった。あの時、弟を殺すときに、きみを毒の世界に連れ戻さなかったら、あるいは違ったのかもしれないが」


「でも、そうはならなかった。しかし、その事を、私は悲しいとは思いません」


ネロ様は私を抱きしめた。

それは一瞬のことに過ぎなかったが、陳腐な言い方になるが、永遠のことのように思われた。


ネロ様は、ファオンの屋敷で追手に捕まる直前に自ら命を絶った。

私の毒を使わなかったのは、恐怖によるものか、何か他の理由によるものかはわからない。


「なんと素晴らしい芸術家が、この世から失われることだろう」


それがネロ様の最期の言葉だったそうだ。


 私もまた潜伏先でガルバの手勢に捕まった。


そして、今こうして、裸にむかれて変な模様の首の長い獣に襲われ、犯されて殺されようとしている。


奥歯を噛み締めると、私が生涯をかけ、ネロ様に尽くしてきた事の結晶が、口内に広がった。

私が痙攣するのを見て、麒麟カメロパルダリスはその歩を止めた。

野生の獣は、毒に敏感だ。

手足の感覚がなくなり、かつて感じたことのない眩しさを覚えた。


瞳が広がると


人は日光をこのようにかんじるのか


このことはけんきゅうきろくにのこしておかないと



これはネロの時代の物語。

美しい者も、醜い者も、今は同じ。

全てあの世。

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ロクスタ〜ネロの愛した毒使い〜 称好軒梅庵 @chitakko2

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