第5話 ブリタンニクス

 あの御方が、ネロ様が皇帝になってから数年の間は、それでも平穏だったと思う。

その頃のネロ様は、まったくあの母親の息子だと言うのが信じがたいほどに、お優しい方だった。

私も、その頃は宮廷の一室で解毒剤の研究をしていた。

ネロ様は、人を毒殺することを良しとする人ではなかった。

その頃は。

ネロ様は側近に取り立てられた家庭教師のセネカや軍人のブルッス、そして母后アグリッピーナの言うがままに帝国各地からの上奏文に決裁をしていったが、わずかに抵抗を示すことがあった。


「私に、字が書けなければいいのに」


それは死刑執行の書類であった。

アグリッピーナは冷然と言い放った。


「冗談を言っていないで、早く署名をなさい」


母子の間柄は段々と冷えていった。


 ある日、私はネロ様から呼び出された。

ネロ様は私を助けたものの、どこか腫れ物を扱うように、宮廷におきつつも、微妙な距離を取って接していたから、お召しに驚いた。

ネロ様は私を性愛の相手として寵愛するようなことはなかったが、万が一があるかもしれない。

私は精一杯めかし込んで行った。

居室のネロ様は、しかし、そんな私の期待とは裏腹に憔悴しきっていた。


「母と言い争いをしたとき、母が呆れたような顔で言ったのだ。“そう言えば、ブリタンニクスはもうすぐ成人だったわね"と。この意味がわかるか、ロクスタ」


ブリタンニクスとは、先帝クラウディウスの実子で、ネロ様との皇位継承争いに敗れた異母弟だった。

私が返答に詰まっていると、ネロ様は顔を覆って泣いた。


「母は、このネロを廃位して、ブリタンニクスを皇帝にしようとしているのだ。私はよくて幽閉、いや、母は私を殺す。きっと殺す。殺す」


「そ、そんなことは流石に……」


ないと言い切れるだろうか。

あのねっとりとした声の女が、何を考えているか私にはわかりかねた。


「ロクスタ、助けてくれ。私を助けろ!ブリタンニクスを毒で殺せ!さあ早く!」


人の毒殺を懇願するような方ではなかったのに。

恐怖もまた心を蝕む毒の一種かもしれない。


「よろしいのですか。そちらで」


ネロ様は固まった。


「どういう意味だ」


「冥界に送るのは、御母堂ではなく、弟君でよろしいのですか」


ネロ様は立てかけてあった馬用の鞭を引っ掴むと、私の身体を激しく打った。


「私に、母を、殺せと、言うのか!」


めかし込んできた私のチュニカが破け、血が吹き出した。

血を見るとネロ様は途端に震え出し、私を抱きしめた。


「あ、あ、こんな事をするつもりはなかった。許してくれ。許してくれ。助けてくれ、ぼくを助けてロクスタ」


痛みなど感じなかった。

ネロ様の助けになれること、再び毒の世界に舞い戻れる悦びが私の身を蕩かしていたからだ。


 事件はブリタンニクスの成人を祝う晩餐会で起きた。

というか、私とネロ様が起こした。


「明日でお前も14歳だ。成人らしく、一杯だけ、どうだ」


ネロ様が葡萄酒を勧めると、ブリタンニクスは曖昧に笑った。

弟の警戒心を見て取ったネロ様は、注いだ葡萄酒を自分で飲んだ。


「ほら、慣れればそれほど飲みにくいものでもないぞ」


ネロ様が飲んだ様を見て、毒は入っていないと見たブリタンニクスは、ネロ様が再び注いだ葡萄酒を受け取り、飲んだ。

しかし、その葡萄酒は大甕クラテルの中で水と混ぜられているはずなのに、かなり渋めの味をしていた。


「ははは、そんな酸っぱい顔をするなよ。水で割ったらいいさ」


ネロ様が水の入った小壺アラバストロンを弟に渡す。

ブリタンニクスは水を葡萄酒に注ぎ、再び口をつけた。


数分後、ブリタンニクスは意識を失い、数日間生死の境を彷徨った後に、神々の下へ行った。


私が毒を入れたのは、葡萄酒ではなく、割り剤として置かれていた水であった。

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