第4話 ペトロニウス

 またしても死刑執行を待つ日々が始まった。

牢獄の中で、せめて毒人参などの毒物で処刑されたいな、と思う。

本当は、こういう事になるのも心の片隅ではわかっていたのではないか。

それでいて私は、立派な施設を与えられて毒の研究をし、毒殺に携わることの魅力に飛びついたのだ。

それほどに、私にとって毒とは甘美であり、人生に欠くべからざる要素なのである。

しかし、それももうすぐ終わる。

ふと、暗闇の中に、気配を感じた。

暗闇の中からにゅっと出てきたのは、波のような髪型の頭である。


「ネロ様!?」


「馬鹿、声を立てるな。気付かれる」


ネロ様は青銅の工具で錠をがちゃがちゃしていたが、一向に開く気配がなかった。


「替わろう、ネロ。私は、指先の器用さと美しさには自信がある」


それはネロ様の親友ペトロニウスの声だった。


「器用さはわかるが、美しさは関係なくないか?」


ネロ様はぶつぶつ言いながら、ペトロニウスと替わった。

錠はあっさり開いた。


「ネロ様、ペトロニウス様、助けていただきありがとうございます。でも、なぜ……?私がクラウディウス帝に毒を盛ったのは事実です。もし、それをお知りでないのなら」


ネロはなんだか狼狽えた様子で押し黙ってしまった。

ペトロニウスはにやにやと笑う。


「ネロは、君がクラウディウス帝を毒殺したことはおろか、そもそも毒殺のために御母堂アグリッピーナに雇われたことも知っていた。それでいて、助けに来たのさ。情熱的じゃあないか」


「ペトロニウス、余計な事を」


ペトロニウスは役者のように大仰な身振りをつけて、歌う様に喋る。


「情熱は素朴な感情の発露でありながら、偉大な様式スタイルを持っている。そう、偉大な様式は言わば謙譲な様式であって、斑点だらけのものでもなければ、誇張に満ちたものでもない。それはそれ自身の自然の美しさにより天翔けるのだ」


「いいから行くぞ、ペトロニウス、ロクスタ」


私は二人と牢を出た。

夜空には満月が輝いていた。

ネロ様に手を引かれて瀝青の街路を走りながら、私はずっとこの時間が続いてほしいと感じていた。

私が生涯の中で毒のことをまったく忘れていたのは、あの時だけだったと思う。


月明かりに照らされた夜道に、長い影が伸びていた。

それはまるで忌まわしい悪霊レムレースのようだったが、正体も大差なかった。


「駄目じゃないの、ネロ。お母さまに黙って勝手なことをしては」


ねっとりした声はアグリッピーナのものだった。


「それは暗殺を生業にする卑しい女魔術師よ。もどしてきなさい。処刑するんだから」


ペトロニウスがけらけらと笑った。


「この娘が卑しい女魔術師なら、彼女を操っていたアグリッピーナ様は“あらゆる女魔術師の保護者"“死の女神ヘカテーといったところでしょうかな?」


「黙りなさい、ペトロニウス。私は、私の可愛いネロと喋っているの。さあ、ネロや、その娘を渡しなさい」


ネロ様は私をアグリッピーナから隠すように立った。

そして、震える声で言った。


「嫌だ」


アグリッピーナのこめかみに血管が浮いた。


「聞き分けのない子ね。渡しなさい」


ネロ様は今度は、怒鳴るように言った。


「ロクスタは私が保護する。これは……これは、ローマ市民の第一人者プリンケプス総大将インペラトル尊厳者アウグストゥスたるネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスの決定である。母上といえど、覆せないぞ」


アグリッピーナはしばらく黙っていたが、またねっとりとした口調でこう言った。


「ネロが立派になって、お母さまは嬉しいわ。今日のところはあなたの成長に免じて、その願いを受け入れましょう」


こうして、私はネロ様によって命を救われた。


しかし、幸福な日々は長くは続かなかった。

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