第6話 プロスクリプティオ

 ブリタンニクスを殺しても、アグリッピーナから息子であるネロ様への態度は冷え込んでいくばかりだった。

セネカやブルッスといった側近は、この親子の関係悪化を機にネロ様へ肩入れするようになったが、そのことも亀裂を深くする結果となった。

アグリッピーナとネロ様の最終的な決裂は、ネロ様の結婚問題に端を発するものだった。

端的に言えば、親の決めた結婚相手と離婚して好きな女性と結婚しようと画策した、ということである。

ポッパエア・サビーナは、別にアグリッピーナでなくとも、この女はちょっと……という感じの女性ではあった。

美しく、愛嬌と話術に長けた人だったが、派手好みの可愛こぶりっ子とも言えた。

男には好かれ、女には蛇蝎の如く嫌われる女だった。

ともかく、このポッパエアの問題を機にネロ様はアグリッピーナと激しい口論となり、アグリッピーナは宮中から追い出されてしまった。


 ある日、ネロ様はアグリッピーナを呼び出して、仲直りのためにネアポリスへ旅行に行こうと提案した。

私もこの旅行に隠れて同行するよう、ネロ様からお召しがあった。

ネアポリスは風光明媚な土地だった。

青い宝石のように煌めくティレニア海、遥かに臨むヴェスヴィオス火山の威容。

ここを訪れた旅人は皆こう言う。

ネアポリスを見てから死ね!

しかし、その美しい景色の裏では母と子の対決が始まっていたのだ。

ネアポリス近郊のバイアエにはネロ様の見事な別荘がある。

対岸のパウリにはアグリッピーナの別荘もあるのだが、それを凌駕する白亜の宮殿のような華麗な別荘だった。

バイアエの別荘での夕食。

アグリッピーナは何口か料理に口をつける。

葡萄酒も飲む。

また何口か食べる。

酒を飲む。

アグリッピーナの様子は変わらず、ネロ様のほうが蒼白となり、震え出した。


「あら、私がなんともないのが、そんなにおかしいかしら」


「なんのことですかな、母上」


「あの毒盛り女を、最初に連れてきたのは私よ。どこかに隠れているのなら、お聞きなさい、ロクスタ。いつかあなたに毒をもらったわよねぇ。興味があるからって」


私は帷の裏で、その時のことを思い出していた。

そんなことも、確かにあった。


「あれからずっと、毎日、色んな毒を薄めて飲んでたの。本当に少量よ。私、毒が効かない体質になったみたい。人間、努力をすれば克服できないものはないのね」


アグリッピーナは立ち上がる。


「私はパウリの別荘に行くことにするわ。……いずれ、この借りは返させてもらうつもりよ。たとえ、息子が相手でもね」


しかし、ネロ様は狼狽しつつも、こう言った。


「パウリに行くのであれば、私の船をお使いください」


アグリッピーナは岸に停泊する豪華な船に案内されると、渋々それに乗った。


 私はネロ様の前に伏して謝った。


「毒が効かないとは、この不覚は一命をもって……」


私が隠していた毒の小瓶を口につけようとすると、ネロ様はその手を打ち払った。


「ふん、自害するには及ばん。こういうこともあろうかと、前後策は講じてあるのだ。今頃、母上は海の藻屑となっているだろう」


しかし、数時間の後、アグリッピーナからの急使が現れた。


「アグリッピーナ様からの言伝です。“素敵な船をありがとう。なんだか細工がされていたみたいに急に浸水してきて沈んでしまったけれど、母はこんなこともあろうかと水泳も練習していたのでなんともありません。お返しに今度はネロをびっくりさせるような贈り物をするつもりだから、待っててね"とのことです」


「そ、そんなぁ」


ネロ様はへなへなと座り込んでしまった。

私は逆に立ち上がって、言った。


「諦めてはいけません、ネロ様!」


私はつかつかと使者に詰め寄った。


「アグリッピーナからの使者と言ったな。皇帝陛下の御前に、武器を携行するとは何事か」


ネロ様は私の下手な芝居を前に、目を白黒させていた。

最初に反応したのは近衛長官ブルッスであった。


「陛下!アグリッピーナが刺客を送り込んできたのです」


ネロ様はようやく我に帰った。


「アグリッピーナは、尊厳者、ローマの第一人者、総大将たるこの私に、刺客を送った。アグリッピーナは国家のプロスクリプティオである。ブルッスよ、ただちに兵を送り、叛逆者を討てッ!」


近衛兵に囲まれたアグリッピーナは、自らの腹を指差してこう言ったという。


「刺すならここを刺しなさい。ネロはここから生まれてきたのだから」


こうして、ネロ様は実の母、最大の敵、アグリッピーナを滅ぼした。

しかし、それはネロ様自身の、そして、私の破滅のはじまりでもあった。

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