第51話 世界

「う……ぐ……」


 勢い任せで事務所を飛び出したいちごだが、いざ、道路に出ようとするとピタリとその足は止まる。

 体の奥底までしみ込んだ過去の記憶。

 自分の迂闊な行動の結果出来てしまったあの血の海。

 いちごの視点では、目の前の道路が全て血の海と化し、そこから伸びる無数の腕が少女をそこへと引きずり込もうとゆらゆらと揺れていた。


「わた……私は!」


 ギリと血がにじむほど口を噛みしめ、少女は一歩を踏み出した。

 冷や汗が止めどなく流れ落ちる。

 全身は異常なほどに震えだす。

 呼吸は荒く、今にも意識を失いそう。


「私は!」


 だが、一歩。また一歩と少女は踏み出していく。


「今度は私が!」


 流れ落ちる涙を拭おうともせず、少女は必至にそう叫ぶ。

 だが、ここは無人の荒野ではない。

 その声にひかれ、九尾の狐の毒により理性を失った人間が呼び寄せられてくる。


「いちごちゃん! 危ない!」


 遅れてやって来た江崎は、暴徒の群れから少女を守るように覆いかぶさった。



 ★



「う……ぐ……」


 パラパラと崩れ落ちる瓦礫の音で目が覚める。

 どうやら自分は気を失ってしまったようだと、りんごは思う。


「……アンタ」


 その自分の前には、二つに分かれた茨城童子の姿。

 自分をかばって敵の手にかかってしまった事は明白だった。


 怒り、絶望、それらを通り越して感情が真っ白になってくる。


「うっ」


 立ち上がろうと力を籠めたが、力を籠めるはずの右手はとうになく。

 バランスを崩して、倒れこむ。


「あらあら。もうおしまいなのりんご」

「……貴様」


 ギリと折れんばかりに歯を食いしばる。

 白に染められかけていた意識は、花の少女の言葉により真っ赤に燃え上がる。

 たかが腕一本取れただけ、憎き仇が目の前にいるのにどうしてうずくまって居られようか。


「しかたがないわね――じゃあやり直しましょうか」


 朗らかに笑う花の少女。

 目の前の少女はただそう言っただけ。

 だが、たったそれだけで――


「……え」


 限界を超え、何処が痛むのか分からなかくなっていたほど傷だらけだった自分の体は、瞬きをする間すらなく、傷一つない体へと戻っていた。


「……ん?」

「え? あれ? ボク?」


 自分だけではない、目の前で上下二分されていた筈の茨城童子。四肢をもがれ、首を捻じ曲げられていたなつめすら、五体満足な体になりピクリと起き上がる。


「あら? 間違ってそっちも戻しちゃったかしら? 

 まぁどうでもいいわ。

 さありんご、お姉ちゃんと遊びましょう」


 そう朗らかに笑う花の少女。

 そこに一切の邪気はなく、そこに一切の悪意なく。

 そこには、ただひたすらに、妹との遊行を楽しみにする少女の姿があった。


「ばけ……もの……」


 それはまさしく、神の仕業であった。

 りんごは改めて、目の前に存在するものが人知を超えた存在であることを理解する。

 傷だけではなく衣服すら完全に戻っていることを考えれば、死者蘇生ではなく時間を巻き戻したと考えられるが、どちらにしろ神の御業に変わりない。


 全ては無駄。

 まるで釈迦の手のひらの上に気が付いた孫悟空のように、りんごは一切の戦意を消失した。

 

「あら? どうしたのりんご?」


 だが、天上の存在は、地を這う虫の気持ちなど分からない。

 花の少女は不思議そうにうなだれるりんごへと声をかけ――


『けけけけけ! どうしたどうした! 何時もの威勢はどこ行った!』


 りんごの腕に巻かれたスマートウォッチから機会音声が鳴り響く。

 それと同時に、空よりヘリのローター音が響いてきた。


『りんごさん! まだです! まだ諦めないで!』


 同時に聞こえて来たのは少女の声。

 それは、事務所から一歩も出れない筈の少女の声だった。


「いち……ご……?」


 りんごはふらふらと視線を上げる、空に浮かぶヘリには、窓から身を乗り出したいちごの姿があった。


『けけけ。行くぜ? りんご。この俺様のとっておきだ』


 スプーキーは静かにそう言って瞑目する。


『きゃッ⁉』


 と、小さないちごの悲鳴が聞こえた。

 いちごの手の中にあるノートパソコンは燃え上がらんばかりに熱くなった。

 それと同時に、りんごへと力が注がれていく。


「なに……を?」


 左腕に巻かれたスマートウォッチから注がれていく力。

 それは止めどなく、加速度的に増加していく。


『けけ……け……。いい……か? りん……ご……俺……様……が、AIなんて……おもちゃ……じゃ……なく……最新……最強……の……

 ――妖怪ってことを教えてやるよッ‼』


 加速度的に増加していく、力は指数関数的に増加する。

 電子蜘蛛スプーキー隠神刑部まつやまが作り上げたノートパソコンの付喪神である。

 妖怪には物理的な栄養摂取により力を蓄えるものと、それ以外の栄養摂取により力を蓄えるものが存在するが。ディスプレイより出ることのできないスプーキーは勿論後者の存在である。

 では、スプーキーは何を力に変えるか?


「くっ」


 いちごは、火傷しそうなほどに熱を持つノートパソコンをその胸に抱える。

 そんなことをしても何の意味のないことは分かっているが、少しでも自分の相棒の痛みを知るために。


 スプーキーが力に変えるもの。

 それは、人間の感情だ。

 人が発する喜怒哀楽をエネルギーへと変換して自分の栄養として取り込む。

 それがスプーキーの生態であった。


『けけケけ! お前ェの戦イは! 全ブねっとデらいぶ中ケいだ! おレさマが! それニむけらレる感じョうをちゅーニんグして! オ前にぶチこんデやルぜッ!』


 つまるところ、イイネやRTを力に変える能力。

 もちろん、感情をエネルギーへと変換するとはいえ、その一つ一つは微々たるものだ。

 だが――

 

「PV数の増加が止まらない! 凄いぞ!」


 いちごの隣に座る江崎はそう叫ぶ。

 一つ一つの力は微々たるもの。だがそれが数万、数十万、数百万集まればどうなるか?

 いちごの手の中にあるノートパソコンからは黒煙が吹き上がってくる。

 数千万の力の流れをコントロールすることは至難を超えた無理難題。

 だがそれを――


『けけケケケけ! オれさマをだレだと思ッテやガる! うけトれ! りンご! これガおマえノ背ヲオすちかラだッッ‼』


 莫大な力がりんごへと注がれる。

 だが、それはとてもではないが、一人の人間に収まるようなものではなかった。


「くっ……! 少しは……加減し……ろ!」


 有無を言わさず注ぎ込まれる力の奔流。それは暴風となりりんごの体を内側から爆発させようとしていた。


『かかか。しょうがないのう。どれ、儂らが少し肩代わりしてやろう』


 懐かしい――声が聞こえた。


(……え)


 ふいに、力の流れが変わる。

 りんごの内から溢れそうだった力は、りんごが手に持つ刀へと、その大部分が吸い込まれていく。

 100万と1の妖により作られた妖刀蒼月、その深淵なる器へと。


『かかか。これでおさらばじゃの』

『ふん。礼なんか言わないわ』

『そうじゃの。我らは元より、そう言った関係じゃ』

『そうよ。お互いの敵を討つため、お互いに利用しあった――』


「仲間よ」


 パキリと澄んだ音がして蒼月は砕け散った。

 だが、刀身があった場所には、蒼く澄み切った力が循環していた。

 りんごは正眼に構え、無言で敵を見据える。


 集中。

 大半が刀へと注がれたとはいえ、その余りの力だけでも体が破裂しそうだ。

 敵が世界と繋がっているのなら、こちらもそうするだけの力任せの単純極まりない作戦。


 集中。

 時間の流れが遅れて見える。空気の粒子ひとつひとつさえ鮮明に見える。

 自分の背を押す無数の声。

 だが、顔の見えない声だけじゃない。

 この道を作った誰よりもか弱く誰よりも頑固な少女。

 この道を共に歩んだ頼もしい相棒たち。

 そして、先に散った大切な仲間たち。


『りんご……貴様』


 内にある名もなき妖がポツリと口を開く。


 集中。

 再会される攻撃。

 蟻の一穴すらない面攻撃。


『……形あるものを切り捨て歓喜するなどガキの領分』


 集中。

 実際にはコンマの世界だろう、じわりじわりと迫りくる敵の刃。


『剣理の果てとは無形のものを断ってこそ! 我が生前挑み届かなかった領域に! 届くというのか貴様は!』

「知らない。それしかないなら、そうするだけよ」


 呟きと共に振られた一刀は、音もなくただ空間をひと薙ぎした。

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