第11話 瞳
「……ふぅ」
無音になってしばらく、握りしめた江崎のスマートフォンによればたっぷり10分待ってから深呼吸する。
「もう……大丈夫か……な?」
そして、今になってやっと気づく。
「あっそうだ、これがあったんだ」
手にしたスマートフォン。その中にはもちろん地図アプリがインストールされている。
「バカだなぁ……わたし」
しょんぼりと自分の間抜けさを噛みしめつつ、ゆっくりと蓋を押し上げ――
「そこに居たんだ、いちごちゃん」
「――」
その声に、心臓が一度止まりかける。
「なん……で……」
カラカラになった喉から漏れたのはその言葉だった。
足音は通り過ぎたはず。
外には誰もいないはず。
そんな考えが頭を巡る。
「足音? ああ、誰か先にここを通ったのね」
その一言で理解した。
当たり前だ、相手は一人じゃない。
それこそ清水だってスマートフォン程度持っている。
茹った頭では、その程度のことすら考えつかなかった、ただそれだけの話。
「ふふ。いちごちゃんは昔から思い切りだけはよかったものね」
清水はそう言って近寄ってきて――
「大丈夫よいちごちゃん。私がきっと守って見せる」
そう言い、優しく抱きしめて来た。
「⁉」
突然の行動に硬直する体。
だが、彼女は構わず話を続ける。
「もう大丈夫、もう大丈夫よ。ああ、可愛そうにこんなに震えてしま――」
「はっ放して!」
いちごはそう叫び、自分を絡めとる善意を振りほどく。
「……いちごちゃん? どうしたの? 大丈夫よ」
突然の抵抗に一瞬キョトンとした顔をする清水だったが、ゆっくりと両手を広げて語り掛けてくる。
「大丈夫。怖くないわ。私に任せて」
優しく、優しく、何度でも。
柔らかな瞳、穏やかな口調。
それは目の前の少女を心から思ってものであり――
「大丈夫。私がついてるわ」
ぞくりと、いちごの背筋を気味が悪いものが這い上がる。
(違う……これは違う)
それは違和感と言うべきか。
(施設の大人たちがわたし達を見る目は物を見る目だった)
それは冷たい目。無機質な目。
目の前の道具を使えばどれだけの利益が出来るかを測る観測者の目。
(だけど、この目は……)
清水はゆっくりと、優しい口調で語り掛ける。それは――
(これは……この目は……)
どこまでも甘く優しい瞳。それは我が子に向けるものよりなお甘い。
それは――
(これは……ペットを見つめる瞳だ)
ある日のことを思い出す。
公園で遊んでいたとある家族、そしてその足元にじゃれつく、一匹の小型犬。
清水が自分に向ける瞳は、その時の瞳と同じものだった。
援助職が陥りかねない悪癖の一つに「共依存」と言うものがある。
自分自身が抱える隙間を埋めるため、「他人に必要とされる自分」と言う状況を求めることだ。
援助対象者と援助職、お互いがお互いを必要としあい、やがて訪れる破綻の日までいつまでたっても離れなれない、底なし沼の様な状況である。
江崎の元で一人の人間として仕事を始めたいちごは、清水が抱いている病にようやく気が付いたのだった。
「大丈夫。さあ私についてきて」
甘く、甘く、酩酊したような瞳で清水は迫ってくる。
思いやりの言葉を重ねることにより、自分に酔いが廻っていることに彼女自身は気が付けない。
「さ・あ」
「こっ来ないでッ!」
甘く、粘つく瞳で迫るナニカに恐怖したいちごはポケットに入っていた小さな筒を取り出した。
それは、いざと言う時の護身用にと持たされた催涙スプレー。
いちごはそれを素早く構え、恐怖の源であるその眼に向かって吹きつけた。
「ーーーーーー⁉」
声にならない悲鳴を背後に、いちごは一心不乱に駆け出した。
「うっ……うぅ……」
感情がごちゃごちゃになり、とめどなく涙がこぼれる。
囚人の様な、或いは家畜の様な暮らしの中で、唯一輝いていた小さな温もり。
だがそれは一歩離れてみれば、とても歪で気味が悪い物だったのだ。
「うっ……うぅ……」
涙を流し、歯を食いしばって走る。
穢された過去を振りほどく様に。
だが、その歩みは直ぐに終わりを迎えた。
「あー! もっくひょうはっけーーーーん!」
「⁉」
狭い路地裏に響く素っ頓狂な叫び声。
それは若い女性の物だった。
「にゃっはっはー! あっけびちゃん大手柄ー!」
けたけたと大口を開けてそう笑うのは年若い小柄な少女だった。
年の頃は、恐らく同年代。
背丈も同じく150㎝前半。
髪は派手に染めた金髪をベースにしたベリーショートだが、様々な色のメッシュを入れて整髪剤でウニのように尖らせている。
着ているものは、紫のチェックのミニスカートに、黒のクラッシュトレーナー。それにジャラジャラとアクセサリーをぶら下げたパンクスタイル。
危険人物と言うのが一目見てわかる存在だった。
「あ……あなた……は」
「うー? わたしちゃんはあけび!
そう言うあなたちゃんは、いちごちゃんでいーんだよね⁉」
来栖と名乗った少女は、手にしたスマートフォンをちらちらと確認しながらそう言っていちごを指さした。
「……」
返答に窮したいちごは、じりじりと後退りを始める。
危険人物。
自分の知る少女――青山いちごが手負いの獣のそれだとしたら、目の前の少女の醸し出すそれは派手な色で警告を促す有毒生物のものだ。
「くっふふー! にっげようとしてるー? やってみるー? あたしちゃん、ちょーっと足には自信あるよー?」
そう言ってあけびはけたけた笑う。
あからさまな躁状態。
どう見ても常人とはかけ離れた精神状態であることは、素人のいちごにも見て取れた。
「んー、でもめんどい!
えーっと任務はなんだっけ?
ん! まあいいや! 忘れた! 片目と口さえ残ってりゃ何とかなるっしょ!」
そう言って、満面の笑みで死刑宣告をする目の前の存在。
それと同時に、彼女のネイルがカッターナイフのようにジャキリと伸びる
「ひっ!」
砕けそうになる腰を必死に立たせ、何とか逃げ出そうとするも――
「にゃっはっはー!」
甲高い笑い声を響かせながら、およそ人類の範囲に収まらない驚異的な速度で襲い来るナニカ。
それは、得物をいたぶるように壁面をピンボールのように跳ね回り――
「とっりあえず腕一本ね!」
極彩色のネイルで彩られた華奢な少女の腕が弾丸のように突き出され――
「きゃッ!」
肉を引き裂く鈍い音ともに、薄暗い路地裏に真っ赤な大輪の花が咲き乱れた。
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