第10話 冒険の代償
「じゃあ出かけてくるからカギ閉めよろしくねー」
江崎はそう言い残し、バタバタと慌てふためきながら駆け出していった。
「はい! お気をつけて!」
いちごはそう言いぺこりとお辞儀をしてからしっかりとドアを施錠した。
あれから1週間、いちごの仕事はネット上に上がっているオープンソースの収集及び分析を行っていた。
瞬間記憶能力に加え持ち前のセンスを遺憾なく発揮した結果、彼女のインターネットスキルは当の昔に江崎を凌駕していた。
新しい仕事、新しい世界。
少女には目の前の世界が輝いて見えた。
江崎を見送ったいちごは、自分のパソコンに向かおうとして――
「あれ?」
その途中、チラリと目が行った江崎の机、その上に彼のスマートフォンが置きっぱなしになっているのを発見した。
「どう……しよう」
いちごはオロオロと周囲を見渡した。耳を澄ましても持ち主が忘れ物に気付いて階段を駆け上がる音は聞こえない。
「困る……よね」
スマートフォンは彼の武器の一つだ。
それなしで戦場に赴くのは、耳と目を封じられるに等しい。
決意を固めた少女は、小さく頷くと準備を開始する。
ニットキャップに大きめのマスク。
表に出てるのが目元だけなら、ばれることはあり得ない。
新たな世界を知りリラックスしている少女は、それで安全だと判断した。
★
「あっ……れ?」
いちごはキョロキョロと周囲を見渡す。
急ぎ準備を整えて江崎の後をおったが、彼の姿は影も形も見えなかった。
「どっちに行ったのか……な?」
ウロウロフラフラと頼りない足取りで道を進む。
「こっちが、こうだから……あれ?」
場所は新宿外れの入り組んだ街角だ、あの日事務所に訳も分からず連れ込まれ、その日から監視の目を気にして一歩たりとも表に出たことはない。
彼女は瞬間記憶能力者だ、web上で周囲の地図は記憶してある。
「あ……あれ? あれ?」
だが、瞬間記憶能力者は、万能の天才という訳ではない。
一つの能力を突出させた結果、何か別のものが欠落するケースが大抵だ。
少女の場合、方向感覚が著しく劣っていたのだ。
「地図は……覚えてるのに」
焦る少女はブツブツと呟きながら速足で新宿の街を駆け抜ける。いくら正確な地図を持とうとも、コンパスが狂っていてはそれも宝の持ち腐れだ。
荒くなる息がマスクにこもる。
「どこ……ここ」
周囲を見渡しながら速足で歩く。
焦る気持ちは、積み重なっていく映像を処理しきれず、ノイズとなって溜まっていく。
そんな風に注意を散漫にさせていた少女は――
「「きゃっ⁉」」
ドンという衝撃が走り、いちごは尻餅を突く。
「すっすみません!」
前を歩く人にぶつかってしまった。
それを理解した少女はぺこぺこと頭を下げた。
人に害を与えたら、その数倍になって帰ってくる。それが体に刻み込まれている少女はカタカタと小さく体を震わせる。
だが、帰ってきたのは少女が想像もしていない、否、最も恐れていた事だった。
「……いちご……ちゃん?」
ぞくり、と全身に悪寒が走る。
(見つかっ――誰――連れ戻――死――)
一瞬にしてパニックになった少女は、脱兎のごとく駆け出した。
「いちごちゃん⁉ 待って! いちごちゃん!」
背後から声とともに足音が響いてくる。
あの声には聞き覚えがあった。
間違いない、コペラの職員――パートとしてやって来ていた清水だ。
「はっ、はっ、はっ……」
息苦しいマスクは直ぐに投げ捨てた。
駆ける、駆ける。
ずっと室内にこもりっきりだったので運動不足で体が重い。
だが、このゴミゴミした新宿の街では、小柄な自分の方にアドバンテージがある。
人込みを縫うように右へ左へ。
頭の中の地図は完全に使い物にならなくなった。
でも今は、一分一秒でも生き残ることが重要だ。
彼女はパート職員だ。コペラの深部、例の化け物の存在など知らされてはいないだろう。
(だけどそんなこと関係ない)
連れ戻されたら待つのは死。
それがどういう形によるものかは分からないが、無罪放免で何事もなく生活できるなんてことはあり得ない。
いつの間にか薄暗い路地裏を走っていた。
足音は少しは引き離せたが、自分ももう限界が近い。
「くっ……」
路を駆け抜け――
「!」
あるものが目に留まる。
(一か八か!)
いちごは出来るだけ音を立てずに、道端に置かれていた業務用のゴミ箱に滑り込んだ。
★
「……」
静かに、息を殺す。
不快な匂い、生ごみの匂い。
(だけど……懐かしい匂いだ)
学校で、家で、良く嗅いだ覚えのある匂い。
自分がへまをするたびに、何か人とは違った事をするたびに。
今と似たような状況はいくらでもあった事だ。
清水――彼女について知っていることはそう多くない。
下の名前も知らないし、何歳かも知りやしない。
(だけど……)
コペラには十数人の職員がいた、その大部分はパートやアルバイトで、正社員はごく少数。
立場の違いは色々あれど、共通していることがあった。
それは、利用者を粗雑に扱うという事だ。
直接的な暴力こそは少ないが、暴言を浴びせられるのは日常茶飯事。
清潔とは言い難い、ベニヤ板で仕切られただけの大部屋でまるで家畜のように扱われた。
だが、その中で――
(……あの人だけは違った)
大勢の飼育員じみた大人たち。
その中で、清水と言う女だけは、自分たちを良くしてくれた。
こっそりと内緒でお菓子をくれた。
それは大袋入りのお菓子の中の一個だけだったけど、その味は忘れられない味だった。
利用者同士のトラブルに巻き込まれて怪我をした事があった。
その時に優しく手当をしてくれた。
一つ一つは小さな事。
だけど、他の大人が自分たちを家畜やモノとして扱う中、その違いは生きる希望となってくれた。
(だけど、今はだめだ)
かつての希望は、今では死神の手先として迫りくる。
例え本人にそのつもりがなくとも、結果は同じことだ。
「⁉」
バタバタと言う足音で考え事が中断される。
その音は、ゴミ箱の前で止まることなく、右から左へと通り過ぎていった。
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