第弐章 特別な目を持つ普通の少女
第9話 新しい世界
りんごがコペラをターゲットに定めてしばらく。
コペラ側の影の動きと言えば、初手で行われた2人に対する物理攻撃以外は特筆すべきものはなく。彼女らは淡々と日常業務を行っていた。
日常業務と言えば、江崎の助手として事務所で住み込みで働いているいちごだが、彼女は時間を持て余していた。
「なるほど~。はい! はい! 分かりました! 僕はそっちから行ってみます!」
「……江崎さん。またお出かけですか?」
「ん? ああ悪いねいちごちゃん。ちょっと出かけてくる!」
江崎はそう言うと、素早く資料を取りまとめ足早に事務所を後にした。
「……はぁ」
ひとり事務所に取り残されたいちごはぽつりとため息を吐く。
コペラに身柄を追われている身としては、ここに潜んでいるのが正解だ。
だが、手持ち無沙汰なのはどうしようもない事実。
「なんか、やることないかなぁ……」
事務所の掃除や整理整頓はやり尽くした。
小汚かった事務所は今では塵一つ落ちてないピカピカの状態だ。
だが、出来ることと言えばそれだけだ。
学も経験もない自分に出来ることなど何もない、少女は無力感に押しつぶされそうになっていた。
ちらりと本棚を見る。
そこには江崎が過去に取り扱った資料のファイルや専門書などが並んでいた。
その一冊を取り出してペラペラとめくる。
瞬間記憶能力を持つ彼女にしてみれば、もはや見慣れてしまった文章が並ぶ。
「……はぁ」
再度ため息を吐き、それを戻す。
そして、ちらりと江崎の机の下に目が行った、その時だ。
「……あれ?」
それは彼女に覚えのない一冊の本だった。
彼女に覚えがないという事は、それは昨日までこの事務所に存在していなかったという事である。
「なんだろ、これ?」
ほんの少しの罪悪感を抱きつつ、裏返しになっていたそれを持ち上げる。
「中古本……パソコンの?」
表紙にぺたりと値札が張られた一冊の小汚い本。それはパソコンの入門書だった。
「もしかして……わたしのため?」
誰かへのプレゼント? それならばこんなに雑に扱うとは考えにくい。
江崎本人が使用? 彼にとってパソコンは仕事道具だ、今更こんな本が必要とは考えにくい。
「やっぱり……そうなのかな?」
自問自答の末にページをめくる。
――ぺらぺら、ぺらぺら
自分が時間を持て余しているのは江崎だって十分承知の筈。
――ぺらぺら、ぺらぺら
だから、少しでも自分が出来ることを増やしてくれるように。
――ぺらぺら、ぺらぺら
「終わっちゃった」
あっという間に読み終わり、ぺたりと本を閉じ机の上に。
「ふぅ」
とため息ひとつ。
だが、これはさっきまでの行き場のない息ではなかった。
新たな一歩を踏み出す前の、気持ちを落ち着けるための呼吸だった。
「ちょっとなら……いいよね?」
自分がここに常駐しているため、江崎がパソコンの電源を落としていかないことは知っている。
「あ……」
小さな歓喜、そして罪悪感。
江崎が使用しているノートパソコンはスリープモードに入る前で、パスワードを撃ち込むことなく小さくファンの音が鳴った。
授業でタブレットPCに触ったことはあるが、こう言ったパソコンに触れたことはなかった。当然キーボードは始めてだ。
ぽちりと、恐る恐る人差し指でキーボードに触る。
「確か……こう」
ギシリと音を立てるくたびれた椅子に座り、本に書いてあったホームポジションに指を置く。
「それで……」
こうして、小さな世界に閉じ込められていた少女は、新たな世界へ一歩踏み出した。
★
「ただいまー、いちごちゃん……いちごちゃん?」
いつもなら、(手持ち無沙汰の裏返しだが)まるでメイドの如く甲斐甲斐しく出迎えのしてくれる少女の返事がない。
(ここには申女の姉さん謹製の結界とやらが張っているはず)
正直な所、原理は全く理解できなかったが、この事務所には松山が人除けの結界を張っているらしい。
あの怪物の仕事に手抜きはないだろうが、何事も絶対はあり得ない。
江崎は焦る気持ちを押しだまし、急いで室内を確認――
「って、居るじゃん」
だが、お目当ての少女は、ちょこんといつも自分が使っている机に座っていた。
その事にほっと胸をなでおろしつつも、新たなる疑問が湧いて出る。
「何して……」
そして耳に流れるとある音に気が付いた。
「タイプ音?」
タタタタと、一瞬たりとも途絶えることなき軽快なリズム。
机、否そこに置かれたノートパソコンに向かう少女は、驚異的な集中力で電子の世界の旅を続けていた。
★
「そこらへんにしておきな、あまり根詰めすぎるとドライアイになっちゃうよ?」
「ひゃっ⁉」
机にかじりつく様にタイピングしていた少女は、頬に当たる冷たい感覚に悲鳴を上げる。
「あっ! あ、ああ……」
混乱する頭を何とか立ちなおし現状把握。
電子の世界から強引にシャットアウトされた少女は、己のしていたことを顧みて顔色を青ざめさせる。
「すっ! すみません!」
がばりと、転げ落ちそうな勢いで椅子から立ち上がると、少女は深々と頭を下げた。
「いや? 良いって、良いって」
江崎はへらへらとした笑みを浮かべながら、少女とおそろいのペットボトルに口をつけた。
「いやー、それにしても凄いね? パソコン、触ったこと無いんだよね?」
一応助手として働いてもらうにあたり、その辺りのことは聞いている。
ゆくゆくはそっち方面も手伝ってもらおうと、古本屋で入門書を買っておいた事をすっかり忘れていたのは自分の方だ。
江崎の指摘に、いちごはビクビクと小さく頷く。
今まで人と違うという理由で理不尽な目に遭い続けた人生だ。特別な事すなわち怒られることと言う方程式が彼女の中では確立していた。
「だーいじょうぶだって、怒りゃしない」
江崎はそう言ってへらへら笑う。
正直な所、彼も彼女を持て余していた。
自分が28歳に対して少女は15歳、一回り以上も年の離れた異性の子、しかも心に傷を負った見ず知らずの他人だ、そんな子とどうやって付き合っていけばいいのか?
しかし、これからは話が別。
年齢も性別も関係ない。
スキルを中心に、ひとりの人間として付き合っていけばいい。
江崎はへらへらとした顔の裏でそう結論つけた。
「……所で、いちごちゃん? 勝手に買い物とかしてないよね?」
そして、まず第一にそこをチェックしたのだった。
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