第4話 それぞれの目的

「厚生労働事務次官……玉汐前?」


 もちろんいちごにそんな名前は聞き覚えなど無い。日々の生活をどうやって平穏に生き抜くかに必至だった彼女にとって、そんな役人のお偉いさんの名前など神様よりも遥かに遠い。


「ああ、それが僕らの敵の名だ」


 江崎は決意を込めてそう言った。

 そして、それに反応したのは今まで黙って聞いていたりんごだった。


「ちょっと江崎。その『僕たち』とやらの中に私も含めてるんじゃないでしょうね」


 りんごのギロリと射貫くような視線に、関係のないいちごの背筋がブルリと震える。

 だが、当の江崎は全く意に介すことなく、へらへらと笑いながらこう返す。


「嫌だなぁりんごちゃん。そんなの当り前じゃないか~。独りぼっちは寂しいよ?」


 その言葉に、りんごは深く長いため息を吐いた後、先ほどより圧を込めた視線と共にこう言った。


「いい加減、その空っぽの頭に刻み込みなさい。

 わ・た・し・は、この国がどうなろうが知ったこっちゃないしその女にも興味はない。

 私の目的はただ一つ――」


 そこまで言うと、りんごは一度目を閉じ――


「あの女。

 両親の仇。

 ――青山かりん。

 奴をこの手で殺すことよ」


 そう、冷たく言い切った。

 その言葉に、江崎は複雑な笑みを浮かべ。松山は不敵な笑みを浮かべる。


「私はそのためにあなた達を利用しているだけ。

 いい江崎? 何度も言わせないで。

 私に仲間なんていらない。

 奴の息の根を止めるのは――私よ」


 その溢れんばかりの憎悪と怒り。

 視覚化されんばかりの殺意の余波にあてられてたりんごは、青ざめるを通り越して気を失いそうになる。


「これこれ、りんごよ。そんな剣呑な色をまき散らすでない。不味い珈琲がさらに不味くなるわ」


 不機嫌そうに眉根を寄せる松山の声に、りんごは不承不承に腕組みをして目をつぶる。

 その様子を見ていた江崎は肩をすくめて話を再開する。


「まぁ、そう言う事。

 僕たちはそれぞれが、それぞれの目的のために集まっている。

 りんごちゃんは仇討ちのため。

 申女の姉さんは玉汐前を討つため。

 そして僕は生活困難者支援法を潰すため。

 人はそれを仲間と言うか、同盟と言うか、協力者と言うか、まぁそれは見た人が好きに判断すればいい」


 そう言って江崎はにこりといちごにほほ笑んだ。


「……それって、わたしに仲間になれ……って事ですか?」


 いちごはおずおずとそう問いかける。


「いや別に? 僕が欲しいのは君が知ってるコペラの内情だ。

 支援施設には分厚いベールがかかっている。その内側で何が起きているのか、それを知りたいだけだよ。

 もちろん情報提供の謝礼は払う、まぁ僕の懐具合はお察しのところだ、十分な、という訳にはいかないかもしれないけどね」


 江崎はニコニコと笑いながらそう言った。

 その笑みに、いちごは見覚えはあった。

 今まで幾度となく見て来た笑み。

 それは、大切なこと――つまりはこちらにとって有害な事を隠したうわべだけの笑みだった。


「……」


 その笑みに危険信号を感じたいちごは言葉を詰まらせる。

 沈黙が狭い事務所を包み込んだ。

 それを打ち破ったのはりんごの声だった。


「はっ。アンタに選択肢なんて在りはしないのよ」

「ど……どういう事……ですか」


 その冷たく打ち捨てられた言葉に、いちごは弱々しく声を上げた。


「一度言ったわよね。アンタはヤツラに狙われている。

 アンタの選ぶ道は――戦わずに死ぬか、戦って死ぬかよ」

「死……ぬ……」


 路地裏での問答が脳裏に浮かぶ。

 死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ。

 いいことなんて一つもない人生だった。

 坂道を転がり落ちるが如き人生だった。

 その結果がこのありさま。

 誰に顧みられることもなく、人知れず消えていく。

 どこまでも黒く、どこまでも深い闇に吸い込まれていくイメージ。


 それを中断させたのは、またしても彼女の声だった。


「アンタもよ江崎。こんなガキいじめて遊んでんじゃないわよ」


 そのとげとげしい言葉に、江崎は苦笑いを浮かべる。


「取るものとったら後は用済みでポイ捨てする。それはアンタが嫌うヤツラのやり口その物じゃないの」


 りんごの冷え切った視線に、江崎は両手を上げて降参のポーズを取る。


「嫌だなぁりんごちゃん、そんなに簡単にネタ晴らししちゃあ」


 おろおろと周囲を見回すいちごをよそに、意地悪な笑みを浮かべた江崎はいけしゃあしゃあとそんなことを言う。

 そして改めて、いちごを見つめると、彼はこう語り掛ける。


「さて、詳しいことは後で聞くとして、今君が置かれているのが絶望的な状態だという事は理解できると思う」


 その問いかけに、りんごは悲痛な表情で頷いた。


「本来ならばアメリカの証人保護プログラム張りの警備態勢で君の身の安全を保障したいところではあるが、生憎と僕にそんなお金も権力もない」


 江崎はそう言って肩をすくめ周囲を見渡す。

 その視線に対して、松山はニヤニヤとした笑みを浮かべるだけで、りんごに関しては最初から目を開けてもいなかった。

 ふたりの様子を見て、江崎はため息交じりにこう提案した。


「僕にできるのは……精々が、三食と寝床を提供する事ぐらい」


 江崎はそう言って力ない笑みを浮かべる。

 それはとても情けなく頼りないものだったが、先ほどの仮面の笑みよりよほど安心できるものだった。


「……分かりました、わたしの見て来たものでよければお話します」


 りんごはそう言って、キュっと胸に手を当てたのだった。

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