第3話 5年前

 いちごが案内されたのは、新宿のはずれにある古びたペンシルビルだった。エレベーターなどと言う上等なものはないので、薄汚れた階段を上がって3階、そこに江崎の事務所は存在した。


「まったく面倒な所に居を構えおって。小僧、貴様もう少し開けたところに引っ越すがよい」


 動きづらい和装にもかかわらず息一つ乱れることなく易々と階段を上がった松山は、ソファーの一番上等な所へ悠々と腰かけると、誰に憚られることなく遠慮なくキセルを吹かせながらそう言った。


「いやー、勘弁してくださいよ申女の姉さん。僕の稼ぎじゃここが精一杯ですよ」


 江崎はそう言ってへらへらと胡散臭い笑みを浮かべつつ、インスタントコーヒーを準備する。


「ふん。甲斐性なし」


 りんごはそう言いつつ窓から周囲を一望したあと、席に着くことなく壁に背を預けた。


「あっ……。どうもありがとうございます」


 いちごは湯気の立つカップを受け取りつつそう頭を下げる。

 その様子をニコニコと眺めた江崎は、一度軽く目を閉じてから語り始めた。


「令和××年3月20日、今からちょうど5年前の話だ、とある法令が施行された。

 その法令の名は生活困難者支援法。

 弱者救済のお題目で出されたそれは、実のところ多大なる毒が仕込まれたものだった」


 江崎はキリリと顔を引き締めてそう言った。


「生活困難者……支援……法?」


 初めて聞くその名前に、りんごは小首をかしげる。


「まぁ、君が知らないのも無理はない、5年前と言う事は君はまだ小学生って所だろ? そんな年で施行された法律の名前を全部知ってたら異常だし――」


 江崎はそこまで言って、また一端目を伏せた。

 そして、わずかに口の端をゆがませつつ、話を続ける。


「そもそもが、この法律については、徹底的な隠ぺいが施されたうえで施行までこぎつけられたものだった」


 その言葉には、後悔と無念と己の無力さが込められたていた。


「生活困難者支援法。

 官民一体となって社会的弱者の保護をする、その大義名分の皮をかぶったそれは、一皮むけば貧困ビジネスをはびこらせ、そこに合法的に公金を注ぎ込むためのツールだった。

 このことに気が付いたのはもちろん僕だけじゃない。学者や業界人、そして僕みたいなジャーナリスト仲間にもこれの危険性に気づいた人たちはいた」


 江崎は過去を振り返るように視線を宙に浮かせる。

 そして、静かな怒りを込めてこう言った。


「だが、その声は徹底的に封じられた。

 この法案を通したヤツラの手は、既存メディアはもちろん大手SNSにまで及んでたんだ」


 目の前の大人の異性が発する静かな怒り。

 いちごはそれに圧力を感じつつも、何故こんな話を自分にするのかを考えていた。

 だが、その疑問はすぐに晴れることになる。


「ヤツラは不正の受け皿となる施設を次々と作っている、その一つが君のいた施設。若年女性保護施設コペルだよ」

「⁉」


 突然告げられたその名前に、りんごは体をすくませた。

 だが、それに構わずに江崎は話を続ける。


「全国各地に存在する支援施設。今も絶え間なく増殖するその施設の中でコペルは特別な存在の内の一つだ。

 困窮市民支援法は公布された後、即座に施行されたわけじゃない。施行に至る前の準備期間としてここ東京でモデル事業を使ったデータ採取が行われた。

 コペルはそれに参加した内の一つ。始まりの4団体だ。

 ヤツラはそこで得られた成績を錦の御旗にして、大手を振ってこの法律を施行したという訳だ」


 江崎はそう言って肩をすくめる。

 いまいち理解が追い付かないが、自分が居た場所が不正の中枢と言える場所だった、その話に居心地が悪くなったいちごはこう問いかけた。


「でっ、でも。結果が良かったから、その法律が施行されたんですよね?」


 その質問に、江崎は苦笑いをして席を立つと、棚から一冊の分厚いファイルを取り出してきた。

 そしてそれを無造作に机に広げる。


「なんですかこれ?」


 りんごが目にしたそれは印刷ミスをしたのかと思えるような黒塗りの紙だった。

 ぺらりぺらりとページをめくる。

 だが、程度の違いはあれ、ページの大部分が黒く塗りつぶされているのは同じことだった。


「試行錯誤の末、ようやく公文書開示請求を潜り抜けた結果がそれだ」

「公文書……開示請求?」


 疲れを滲ませる江崎の言葉に、りんごは疑問の声を上げる。


「ああ。要するに、それがモデル事業とやらの優秀な成績って事だ」

「⁉」


 その言葉に、りんごは目を見開く。


「え? え、え? 結果って言われても……」


 ペラペラとページをめくる。

 だが、それはどこまで行っても黒に染まっている。

 それはまるで、この世の深淵を映し出しているように見えた。


「こんなの……良いも悪いも判断できないじゃないですか……」


 極々当たり前の疑問を口にしたりんごに対して、江崎は苦笑いを浮かべつつこう言った。


「『彼らは様々な害悪が原因で施設を利用することになった人達です。プライバシー保護のため公表は控えさせていただきます』

 何度言っても判を押したように同じセリフを返される。

 『こっちは個人情報を明かせと言ってるわけじゃない、公金が適正に使用されたか、その流れを見せてくれ』

 何度言ってもなしのつぶてだ。ヤツラは芸術的ともいえる着眼点と手法で法の抜け穴を掻い潜り、極めて合法的にこの書類を差し出してきたという訳だ」

「…………」


 もはや清々しい笑みを浮かべてそう語る江崎に対し、りんごは言葉を失った。


「こうして5年前の僕らは、敵について知る術を奪われ、ぶきを奪われた上で戦うより他はなかった。

 結果は……もちろん惨敗だ。

 法律は全くの訂正なしで、完全な形で施行された。ヤツラの思惑通りにね」


 江崎はそう言って諦めきった笑みを浮かべる。


「だが、僕もやられっぱなしってのは趣味じゃない。細々と……そう細々とヤツラの裏を取るために活動を続けた。

 目立つ動きをすると消されちゃうからね、いろんな意味で」


 江崎はウインク交じりにそう言った。

 そして、悠々とキセルを吹かせながら話を聞いている松山の方をチラリと見てこう続ける。


「申女の姉さんとはその折に出会った。

 彼女から聞いた話は……それはまぁ衝撃的なものだった。

 ある意味では法律が施行された時よりもショックだったさ」


 そう言い、苦笑いをする江崎に対し、松山はからからとした笑みを浮かべる。


「そう、僕らが調べていたのはヤツラの裏側。

 だが、ヤツラにはさらに闇があった」


 江崎はそう言っていちごを見つめた。

 その視線の意味を理解したいちごは、ブルリと背筋を震わせた。


「そう、その闇こそが、ついさっき君が目にしたものだ」


 その言葉の先にあるもの、それはすなわち路地裏で体験した怪異であろうことが確信できた。

 

「あれ……が……」

「そう、ヤツラの大部分は利権に群がっただけのごく普通の薄汚い人間だ。

 だが、その奥、その闇の中はまさしく人外魔境、魑魅魍魎がうごめく魔界に他ならない。

 ヤツラは表と裏、光と闇、その両方からこの国をむしばんでるのさ」


 江崎は口惜しそうに、そう吐き捨てる。

 その様子を黙ってみていた松山が愉快そうに笑ってこう口を挟んだ。


「かかか。いやはやまったく大したものじゃよあの女は」

「あの……女?」


 そう疑問の声を上げたりんごに、江崎は諦めと呆れと、そして密かな決意を込めてこう言った。


「厚生労働事務次官玉汐前たましお さき、彼女がヤツラの大ボスだ」

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