第7話 判子
ローグさまの部屋を後にして、私はその足で当主様の書斎へと向かった。
理由は今月の定例報告があるからである。
特別なことなどなにもない。ただただ、今月も当主様のおかげで領民たちが健やかな生活を送っていると報告するだけだ。
が、私はこの時間があまり好きではない。
領民の実態を顧みず、当主様の統治を褒め称え、無理難題をあの手この手でかわす時間。
きっと当主様のお言葉に胸の調子が悪くなるのはわかっているので、前もって丸薬も飲んでおいた。
「フリードです」
私は書斎の大きなドアをノックすると、当主様の返事を待つ。
しばらくしたところで「入れっ」と声が聞こえたのでドアを開けた。
ドアを開けると見慣れた書斎の光景と、ロッキンチェアに腰掛ける当主様の姿が見えた。
そして、チェアの肘おきには見覚えのあるドレス姿の女性が腰をかけて微笑んでいた。
彼女は確か昨日の宴で呼び寄せた踊り子の一人である。
きっと当主様がお気に召されて、昨晩はお屋敷にお泊まりになられたのだろう。
昨日は非番だったため詳しくは知らないが、まあ、詳しく知る必要もない。
「当主様、定例報告のお時間にございます」
そう申し上げると当主様は不機嫌そうに「ちっ」と舌打ちをして女へと視線を向ける。
すると女は何かを察したように当主様に微笑みかけると立ち上がって書斎を後にした。
すれ違う際にキツい香水の匂いがして、思わず表情を歪めそうになるのを我慢する。
ということで、毎月恒例の定例報告が始まった。
と言ってもさっきも言ったとおり、報告することは決まっている。
今月も領地は平和であったこと、最近レミアの街を荒らしていた盗賊団が捕縛されたこと、などなど当たり障りのない報告を淡々と続けていく。
そんな私の言葉を当主様は退屈そうにあくびをしながら聞いていた。
きっと当主様にとっては興味のないことなのだろう。
さっきまでローグさまのお話を聞いていただけに、より当主様の統治への興味のなさが私の目には顕著に映ってしまう。
まあ、ローグ様もついこの間までは当主様と同様だったのだけど……。
しかし、そんな態度を窘めるわけにもいかず、私は報告を続ける。
「おい、フリード」
と、そこで当主様は私の言葉を遮って唐突に私を呼んだ。
「いかがなさいましたか?」
「そろそろ暑くなってきたと思わないか?」
「暑くなった?」
「ああ、春も終わり夏が近づいていて暑くなってきたとフリードは思わないか?」
「え、えぇ……まぁ……」
確かに最近は日も長くなり、かなり暑い日も増えてきた。
最近では時折寝苦しくなるような熱帯夜の日もある。
と、そこで私はピンときた。
「バカンスでしょうか。ですが例年ですとあと一ヶ月ほど先のはずですが……」
「ああ? なんだ? 私の意見が気に食わないのか?」
「いえ、そのようなことはございません……」
我がクロイデン王国の貴族にはバカンスという習慣がある。
バカンスとはいわゆる長期休暇のことで、この時期、貴族たちは王国内の避暑地へと移動してそこで羽を休めるのが通例となっている。
アルデア領の北東にはスラガ島という小さな島があり、バカンスの時期になると当主様は島に立つ別邸でお過ごしになられる。
今年は気温が高いため、当主様は早々に島へと移動したいのだろう。
「来週までに島に移動できるよう手配しろ」
と、無理難題を押しつけてくる当主様に私は待ったをかける。
「なりません。次の四半期の予算がまだ確定しておりません。予算を通すためには当主様の許可が必要になります。ですので、バカンスは予算が通ってから――」
「はあ? お前は私に口答えをするのか?」
「いえ、そうではありませんが」
「フリードよ。お前は私に口答えとは中々良い身分だな。お前はこの私にあと一ヶ月も寝苦しい夜を過ごせと申すのか?」
「そのようなことは――」
「だったら、今すぐに移動の準備を整えろ」
そう言うと、当主様は机の引き出しを引いた。そして、中から何かを取り出すと机の上にそれを置く。
「当主様、これは?」
「あとは……わかるな?」
机の上に置かれていたのは当主様の印鑑だった。
この判子は当主様が書類に目を通して許可を下ろしたことを証明する印鑑。
これは私にバカンス中の政務を一任することを意味する。
四半期の予算も適当に仕上げて判子を押しておけということらしい。
が、別に驚くようなことは何もない。
今までにこのようなことは何度もあった。
もっとも政務を一任されたからと言って好き勝手にできるというわけではない。
無茶な予算を通そうものなら、当主様がお戻りになった際に私にそれ相応の制裁が加えられる。
だから、いつもは当主様のお望み通りの予算を作成して判子を押すのが常である。
が、その判子を見た瞬間、私に魔が差した。
これはもしかしたらこの上ないチャンスなのではないかと。
この判子を手にした瞬間、私はこのアルデア領のいかなる予算も通すことができる。
ローグさまのおっしゃられた計画にも許可を下ろすことができる。
が、当然ながら当主様はバカンスが終わるとここに戻ってくる。その際に、予算を目にされれば、私は確実に屋敷を追われることになる。
もしかしたらそれだけでは済まないかもしれない。
だけど……私はローグ様の望みを叶えることができる。
私の心はとっくに当主様からローグ様へと傾いていた。
当然だ。領民の窮状を顧みずに毎日豪遊を続ける当主様と、貧しい領民の声にまで耳を傾けるローグ様。
どちらの方がアルデア領を統治するのにふさわしい人間かは一目瞭然だ。
だから、私は迷わなかった。
「かしこまりました当主様。全てはこのフリードにお任せください」
そう言って笑みを浮かべると、当主様は満足したようにロッキンチェアに深く腰かけた。
私は自分が思っていた以上に危険を顧みない人間だということを再認識させられた。
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