第3話
「もう懲りただろ。孝也はやめとけ」
ちょっと冷たく見える真矢先輩だけど、本当は優しい人だ。眼鏡が冷たく見せているのかもしれないと思うと少しもったいない。そういえば高校のとき、クールビューティー副会長と呼ばれているのを知って「眼鏡かけてるってだけで言ってんだろ、馬鹿らしい」と鼻で笑っていたのを思い出した。
たまに辛辣なことも言うけど、困っている後輩を助けたり生徒会長をさり気なくサポートしたりしていたのを知っている。孝也のことだって普段は悪く言うけど、いつも側にいたのは心配していたからだ。
そんな優しい先輩は、ボロボロ泣き出した僕の左手首を握って、ゆっくりと、でもちゃんと帰るぞという感じで部屋まで連れ帰ってくれた。迎えに来る前にコンビニに寄っていたらしく、散々泣いたあとで「甘いの飲んだら落ち着くだろ」なんて言いながら僕が好きなミルクティーのペットボトルを差し出してくれた。
「孝也の行動は、おそらく一生直らない。あいつは浮気だと思ってやってるわけじゃないからな」
「……わかってます」
あれだけモテるんだし、すり寄ってくる人たちを拒まないだけだということには気づいた。
「自分を傷つけてまで側にいるほどの価値はあいつにはない」
「それは……わからないけど」
「おまえが頑張る必要はないんだ。今度は自分を大事にすることを頑張ればいい」
また「自分を大事にしろ」と言わせてしまった。それだけ僕を心配してくれているということだ。それなのに僕は先輩の言葉を何度も無視してきた。
「笑いながら泣いてるような
いつもと違う雰囲気の声に「どうしたんだろう?」と思った。視線を上げると、僕よりも先輩のほうが悲しそうな顔をしている。
「いくら孝也を好きになっても、あいつが彩人をちゃんと見ることはない。あいつは……孝也は自分しか見ることができないんだ」
「……何となくですけど、気づいてました」
付き合い始めて割とすぐに違和感には気づいていた。
孝也はコーヒーが好きで、僕は紅茶が好きだ。でも、一緒にいるとき僕は必ずコーヒーを飲む。僕が紅茶のほうが好きだということに孝也は気づいていないようで、いらないと言っても僕の分のコーヒーを買ってくれるからだ。
辛いものが苦手なことや寒がりなことにも気づいていなかった。そういう人なんだろうと思っていたけど、本当は僕のことをもう少し見てほしかった。僕にもう少し興味を持ってほしいと思うこともあった。
「おまえ、本当に孝也のことが好きなのか?」
急に何を言い出すんだろう。意味がわからなくて先輩を見つめる。僕は孝也に一目惚れして好きになった。だから「付き合ってもいいよ」と言われて舞い上がったし、好きだから僕の全部をあげた。
「好きに決まってます」
「本当は好きになってくれたから好きなんじゃないのか?」
「そ、れは……」
違うとは言えなかった。だって孝也は、両親でさえいらないと言った僕に手を差し伸べてくれた唯一の人だ。「好きだよ」と言ってくれて、僕の痩せっぽっちの体を抱きしめてくれた。隣にいていいと言ってくれた。
だから、僕は孝也を好きじゃないといけない。好きであり続けないといけない。
「……わかってます」
みんなの好きと僕の好きが少しだけ違うことには気づいていた。でも、僕だって誰かの側にいたかったんだ。誰かに手を掴んでほしかったんだ。
「でも、一目惚れだったのは本当です」
「あいつ、顔だけは最高に出来がいいからな」
「孝也に付き合ってもいいって言われて、本当に嬉しかったんです」
「一目惚れの相手に言われたらそうなるさ」
「それに……気持ち悪がられたりしなかったし」
「孝也は元々性別を気にしないんだよ」
「……それ、初めて知りました」
「男に告白されても『へぇ、そうなんだ』で済ます奴だ。向けられる好意に疑問や不快感を抱くこともない。ま、実際に手を出したのは彩人が初めてだったみたいだけどな」
(僕が初めて……)
ということは、孝也にとって初めての男が僕ということだ。そう思うと仄暗い愉悦のような気持ちがわき上がってくる。
あぁ、そうだ。僕は本当の意味で孝也のことが好きだったんじゃない。一目惚れは本当だけど、恋に恋して、恋に憧れて、恋に縋っていただけだ。わかっていたのに気づかない振りをしてきたのは、孝也を失ったら僕にはもう何も残らないと思ったからだ。
両親を好きでいるのがつらくて、誰かを好きになったらいけないことがずっとつらかった。どんなに駄目だと思っていても好きになるのは同性ばかりで、このままじゃ僕は一生一人きりなんじゃないかと思った。
だからといって最初から全部諦めるなんて、求めたら駄目だなんて、そんなの泣きたくなるじゃないか。僕なんていなくなればいいんだと痛感させられるのが怖くて、だからいろんなことに気づかない振りをしてきた。ようやく手にした小さな光を自分から手放すことなんでできるはずがない。
「本当は僕だって、わかってたんです」
「彩人」
「孝也が僕と付き合ったのだって、男同士に興味があったからだろうなってわかってたし、気づかない振りをしてただけなんです」
自分で自分をごまかしていただけだとわかっている。
「それに僕、先輩が思っているほどいい子なんかじゃないですよ」
大好きな孝也の側にいたいだけの、そんな健気な男じゃない。
「孝也に付き合ってもいいよって言われたときは、本当に純粋に嬉しかったんです。孝也の側にいることができて、好きだって言ってもらえて、笑いかけてもらえるのが嬉しかった。でも、そのうち誰もがほしがってる孝也をその瞬間は僕が独占してるんだって、心の底ではそんなふうに喜んだりしてたんです」
誰もほしがってくれない僕が、みんながほしがる孝也を独り占めしている。みんながほしがっている孝也に求められている。それが嬉しかった。
「誰かが孝也と別れたとか、誰かが孝也にフラれたとか、そんな話を聞くたびにつらいだろうなって顔をしながら、口元は笑っていたんじゃないかな」
孝也の周りから誰かがいなくなるたびに、僕はまだ側にいられるんだと喜んだ。孝也に選ばれたような気がして、ほかの人のことなんてどうでもよかった。
「孝也に『この子かわいいでしょ』って木嶋瑠衣を紹介されたときも、口では『かわいいね』って言いながら、心の中では本当は」
「彩人、もういい」
「僕、先輩が思っているようないい子じゃないし、すごく、嘘つきなんです」
僕は周りにも自分にも嘘をついていた。思えば初めて母親に同性が好きだと告白したときから嘘をつく生き方を選んでいたような気がする。こんな僕を本当に好きになってくれる人なんているはずがない。
「はは、僕って最低だな」
そう言って笑ったら、ぎゅうっと抱きしめられた。
「嘘つきでもいい。それが彩人ならそれでいい」
「先輩?」
「自分で自分を傷つけたりするな。もっと大事に……自分を大切にしてほしい」
抱きしめられて、初めて先輩が香水をつけていることに気がついた。
そういえば、孝也は甘ったるい香水をちょっと多いんじゃないかと思うくらいつけていた。抱きしめられたらしばらく服に残るくらいの匂いで、そんなふうに残るのが嬉しくて、同時に胸が痛くてたまならかった。
そんな些細なことを思い出すだけで、まだ胸がチクチク痛む。
「おまえが嘘つきなら、俺も嘘つきだな」
「先輩?」
「そう、ずっと嘘をついていた」
どういう意味だろう。尋ねたいけど抱きしめられたままじゃ顔を上げることもできない。そういえば、どうして僕は先輩に抱きしめられているんだろうか。
「孝也はやめとけって言い続けたのは、おまえのためじゃない。俺のためなんだ」
「それって、どういう」
「懺悔するから少し黙ってろ」
乱暴な口調なのに、声は驚くくらい優しい。僕は小さく頷き口を閉じた。
「正直、最初のうちは“また孝也の被害者が増えるんだな”くらいにしか思ってなかった。しかも今度は男だ。呆れて孝也に何か言う気にもならなかった」
先輩が驚き呆れたのはよくわかる。だって相手は僕だ。木嶋瑠衣みたいにかわいくなければ秀でたところもない男と付き合うなんて、誰だって驚く。
「でも、いつだったかな。いつも周囲を気にしてオドオドしてた彩人が、嬉しそうに笑っているのを見たときドキッとしたんだ。いつも長い前髪に隠れてどこを見てるのかわからない目が、孝也を真っ直ぐに見ながら笑っている様子に目を引かれた」
そんなことがあっただろうか。思い出そうとしたけど、いつも孝也のことしか見ていなかったからわからない。
中学に入ってから、僕は同性を目で追ってしまう自分の癖に気がついた。それを隠すために前髪を伸ばすようになった。高校ではさらに伸びていたから、鬱陶しい前髪でオドオドする姿は挙動不審に見えただろう。孝也の側にいるだけで目立つから、できるだけ目立たないように気配を消すようにもなった。
だからか、孝也と僕が付き合っていることに気づいた人はいなかった。そもそも男同士で正反対の孝也と僕が付き合っているなんて誰も想像しなかったに違いない。おかげで嫌がらせされることはなかったけど、孝也の特別なんだと言えないのが残念だった。そのせいで歪んだ喜びを感じるようになってしまったのかもしれない。
「あのとき“こいつもこんな顔ができるんだ”と思ったら、目が離せなくなった。気になって目で追うようにもなった。そのうち、おまえも孝也に滅茶苦茶にされるのかと思うと腹が立つようになった。だから自分を大事にしろなんてお節介を言うようにもなったんだ」
高校のときは、それこそ毎日のように言われていた気がする。いつから言われるようになったのか覚えていないけど、それで「真矢先輩って優しいんだな」ということに気がついた。
「どうしておまえのことが気になるのか、高校を卒業した後もわからなかった。でも大学に入って一年間、彩人の顔を見なくなってようやく気づいたんだ」
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