獣と災難
「はぁ・・・帰りたい。」
アリスが歩いていたのは森・・・とはいえ、そこまで鬱蒼とした森ではない。木々はみんな適切な距離を保っているため、野生動物どころかここをかくれんぼの場所に選んだ趣味の悪い子供がいたとしたらすぐに詰むだろう。木漏れ日が神秘的でもあり、天気は運良く快晴。わざわざ危険が身に降りかからなければ、案外悪くない場所だった。ただ—問題は—ここが—どこで—なんのために—訪れたか—。なにひとつアリスはわからない。どのような危険が待ち構えているかも。森の危険といったらやはり野生の獣。森で危険な野生動物といったら、そう、熊。
いや、野生の熊がいたと<知っていても>危険なことには変わりないし。そもそも熊が出るようなところ出向かないし。なんていろいろ考えながら、なるべく足音を立てずに歩いていた。
するといきなり視界が暗くなった。大きな影だ。やっちまった、なんて思った。が、影は動かない。見たところ影の主は大きな岩だ一安心。岩にしてはなんかちくちくしてるというか、変なものがいっぱい生えているけど、まあ岩じゃないとして恐れる必要はなにもない。まさか生えているこれが毛で、岩みたいなものが生き物だなんて到底思えないし・・・。
岩が動いて形を変えた。間違いない、こいつは岩でもなんでもない。いや、アリスはこれを知っているがこんな大きなそれは見たことない。「これ」とか「それ」とか一体なにを指しているのだろうって?だってまだなにもいっていない。正体は・・・。ネズミだ。しかし想像してご覧、身の丈以上—おそらく五メートルはある—とてつもなく大きなネズミをあなたは見たことあるだろうか。
驚き、恐怖で体が強張って動かないアリスを振り向く。びっくりしたのはネズミもだった。
「わぁ!」
しかも喋るし。
「ぎゃあああ!!」
いろんな意味でアリスは更にびっくりした。彼女の悲鳴にネズミはもっとびっくりした(小さい割に声量のある悲鳴だったので)。
「ひゃああああ!!!お前、人間そっくりだな!」
驚いたついでにちょこっと飛び跳ね動物らしく四つの足、地面にへしゃげた格好で睨む。ネズミがそう言いたい気持ちもとてもわかる。だって。
「だって私、人間だもの!」
と、アリスが主張しても。
「こ、こんなノミみたいな人間、見たことないや!」
と、答えるんだもの。アリスの本心としては、せめて小さな人間って言ってほしかった。
「私もあなたみたいな大きなネズミ、見たことない!」
それはそうである。アリスが小さいおかげで!しかも喋るし、とは言わなかった。なんだかここの動物はしゃべる長さも当たり前みたいに思えてきたから。
「そうかい?オイラは生まれてこのかた大きなネズミと言われたことないし、オイラより小さなネズミは子ネズミ以外見たことない。」
二足で立ち上がり、髭を揺らしながら話すネズミの声は自慢げにも聞こえたし慈悲深くも聞こえた。後者はおそらくアリスを哀れいるんだと。
「小さなネズミはいると思うけど」
ネズミが小さな前足を伸ばした。動きから足なのに手に見えた。
「悪いなマジレスは受け付けてねえんだ。」
「マジレス?」
「ともかく!っていうかネズミのくだりで尺使いすぎだし!・・・いや、今のは聞かなかったことにしてくれ。下手すりゃ消される。」
ネズミがなにを話しているかさっぱりで、流石のアリスも屁理屈で追及するのはやめてさしあげた。
「そんだけ小さいなら気をつけなよ、オイラだから気付いてあげられたけど・・・そう。賢くて優しいネズミだからお前さんはなんともないんだ。」
「よかった・・・。」
「だろ?」
「食べられちゃうかと思った。」
「ネズミは人間なんざ食わねえよ!」
思わずネズミが後退り。想像してギョッとした。そんなネズミがいたらアリスのいた世界でも大騒ぎなはず。
「そりゃあ人間の方がおお・・・。」
またも屁理屈をゴネ始めたけど、めんどくさい気持ちの方が優ったのでやめ、かわりに突然我にかえる。そう、なぜ自分はネズミより大きくないのか。そしてなぜ、このタイミングで思い出したのか知らないが、ワンピースとエプロンの間に潜り込んでいた先ほどの食べたら縮むケーキのかけらを取り出した。ネズミの前に差し出すと、興味深そうに前のめりでふんふんと小さな息を鳴らす。
「なんだい、これ。」
「これ食べると小さくなるんだって。」
「へえ。」
賢いネズミはこの時点で察した。「ああこいつ、これを食べて縮んだんだな、バカか。」、と。
「あなたが私を食べないとしても、人様より大きいと私が落ち着かないの。本当は私が元に戻るべきだしそうしたいのだけど、生憎大きくなる食べ物がないの。食べてくださらない?」
突き出した鼻を大急ぎで引っ込めた。
「やだよ!これ以上小さくなったら虫けらみたいになっちまう!小さいのはあんたの勝手だろ!」
つい最近虫けらとバカにされたアリスにとって聞き捨てならない言葉だがそこはさておき、確かに、状況的に困っていたとはいえほとんどアリスの自業自得である。まあ今のはアリスの冗談だったわけだが。
「虫は嫌いか?」
急すぎるネズミの問いかけ。
「嫌いも嫌い、大嫌い。」
なぜこんな問いを?と疑問に感じつつ、嫌いという感情が冷静さを取り戻した。
「あんたがどれだけの大きさか知らないが、元の大きさに戻る方法ならこの先に住むい・・・老人が知ってるかもしれないぜ。」
優しいネズミはアリスの求めているだろう行為を返した。小さな前足で指した先を見つめる。草しかない。
「オイラは今から川を泳がなきゃなんねえ。ついでに濡れた体を乾かすためのコーカスレースにも出なきゃだしお忙しいんだよ!」
木々の間を全て知っていましたかのごとく器用にすり抜け、掃除機に吸い込まれていくみたいに速く走っていった。今の小さいアリスにはネズミの走った際に生じた風ですら吹っ飛んでしまいそう。
「なんで虫が嫌いか聞いたのだろう。老人が虫を好きなのかしら。機嫌を損ねないよう話だけ合わせとかないと。」
ネズミを信じて彼が指し示した先を目指す。そうそう、あのネズミ。もう少ししたらまた出てきますのでご安心を。
歩き疲れたアリス。ああ、元の大きさならとっくについている距離をこの足では一体どれほど進めばいいのか、道も遠けりゃ気も遠くなるというもんだ。木(よくよく考えるとアリスが小さくなったから木に見えただけで実際には木ではないかもしれない)に背をもたれて引きずり、力なくへたり込んだ。撫でる風がとても心地よい、でも気分は全然晴れない。とまだない不安が押し寄せるばかり。
「私、なにやってるんだろ。」
空を眺めて譫言みたいに呟く。
「私・・・元の世界に帰りたいのよね?・・・そう、でもこの大きさでかえるわけにはいかないから、今はまず元の大きさに戻るのが最優先・・・て、だけ。」
アリスは考える。今は小さくなりすぎた体を元に戻さないと・・・おそらく元の世界に戻ったら体そのものに戻るのかもしれない。だとしても、体が小さいまま戻ったら?それだとなんの意味もない。・・・もしも、元の世界に戻ってもこの体のままだったら?ありえない。ありえない、けど—大きくなり小さくなりを繰り返して尚更この体が自分の体のようにしっくり馴染んでいるのだ。だったら、「私は誰」?
—あなたはアリス—。
自分の脳内で知らない声が勝手に話している。誰?どこにいるの?と、問うより先に聞き入っていた。
—だから、元の自分なんてものはいない。あなたはここでアリスになったのよ—だからお願い、帰らないで・・・—。
最後の方はよく聞こえなかった。その時。
「わぷっ!!」
なんと、上からそこそこな量の水が降ってきたではないか!まるで滝修業にきたみたいな量の冷たい水がアリスの頭を容赦なく叩きつけた。
「全く、腐ってる水なんか飲めるか!」
そしてこの声は、白ウサギ。小さくなったアリスからしてみれば今の白ウサギはとてつもなく大きくて、それはもう本当に驚きで真っ白な頭のアリスでは例えようのないぐらい。ちなみに、白ウサギはガラスのコップを抱えている。中にはなにも入っていない。
「ここはどこだぁ?迷っちまった、急がねば!」
そう言って慌ただしく何処かへ行ってしまった。アリスは新たな決意を胸に抱いた。いつかあのウサギ、シメてやる。
全くこの世界ではおちおち一休みもできやしない!ここまで体が縮まなければあんな目に。考え出したらどこから考え始めたらいいかキリのないことを考えながら歩いていたら、なにやら地響きが。やがて立っていられなくなるほど、ドシンドシンと地面が揺れる。幸いにもアリスの周りには倒れても怪我しそうなものはない。草むらが生い茂っていて視界の方は最悪だが。
「わっ、わっ、地震!?」
地面が揺れたらまず自信を疑うアリス。けど、なんだか妙だ。地震にしては揺れの間隔が遅く、規則正しく、段々強くなり続ける。これは地震なんかではない。縮んだ故に察しがつく、きっと大きな何かが近づいてきているのだ。
突然、草むらがへしゃげた。その間から見えたのは、毛むくじゃらの足。子犬だった。よく見るゴールデンレトリバーの子犬に似ていた。子犬にせよ今のアリスにとってはネズミでさえ大きいのにデカい犬の子供なんて、動く要塞だ。
「やば。」
クリーム色の滑らかな毛がふわふわと揺れる、そんな魅力を打ち消すかのごとくとてつもない威圧感。犬の方は、効きすぎる嗅覚の矛先を真っ先にアリスに向けて、煉瓦色の鼻を小刻みに動かして匂いを嗅いでいる。アリスは固まっている。足がすくんで動けなくない。
「わ、わた、私・・・食べても美味しくないですよー・・・。」
口端がいびつにひきつった、追い詰められた心理状態で無理やり作った笑顔と全く生気のない小刻みに震えた声で話しかけた。この世界の動物はなぜかしゃべるので、さて、アリスはわずかな希望を懸けた。
「・・・ん?」
犬の興味の矛先が別に向けられる。見ると小さな棒切れが。そこで閃いたアリス。木を拾ってはすぐに遠くへ放り投げた。そう、木で気をそらしている間にここから離れる作戦だ。
「ていっ!」
投げた。力一杯投げ、た・・・。可哀想なアリス、子供では投げる力もしれていて、更に更に小さくなった体では、飛ばす距離もたかだかしれていた。
「バウッ!!」
「ひぎゃあああ!」
犬は急にスイッチが入ったおもちゃのような勢いでじゃれあいはじめた。前足で突いたり、挙句には木の棒に背中を擦り付け体をくねらせた。時折巻き起こる砂埃にむせ、アリスはすぐさま岩の後ろに避難する。まったく、無邪気に棒切れと戯れているだけでこっちは命を落としかねない。
「・・・。」
はからずともある意味、作戦は成功。逃げるならまさに今。
「・・・。」
なのに、安全地帯から見ている前提で子犬が可愛く見えてきたのでその場に止まっていた。やがて犬は舌をだらんと出して伏せてしまった。岩陰から出て、おそるおそる犬の横腹あたりを撫でてみた。忙しない呼吸で腹を揺らすだけ。アリスをチラ見してはすぐそっぽを向く。もうすっかりヘトヘトの様子。
「ふわふわだぁ〜。」
木の屑や砂はまとわりついているものの、肌触りは質の良い絨毯そのもの。柔らかくて指と指の間にはみ出る細かい毛はまさに新しい、子犬の毛である。
「私ったらどうしたのかしら。」
あまりにも無抵抗なので、アリスったら思わず子犬の背中に乗ってみた。足を大きく上げるなどかなりお行儀悪いが、ここでお咎めする者は誰もいない。大きな背中に手と足を広げ、全身で毛の感触を堪能する。まさかこんな体験が生きているうちにできるなんて・・・この世界に来てから初めて思い出に残したい出来事だ。元いた世界でもこんな体験は難しいだろうに。誰に話そうかな、いや、やっぱ誰に話しても信じてもらえないし馬鹿にされる。—馬鹿にされるぐらいなら<誰にも話さず自分だけが体験した素晴らしい思い出のまま閉じ込めておこう。>—
「ああ〜・・・幸せ・・・。ん?」
ゆっくり。それはもうゆっくりと動き出した。上になっている物なんてお構いなし。犬は早くも元気を取り戻し駆け出した。
「わーっ!待って待って待って待って!!!」
必死にしがみつく。何に?背中に!滑り落ちないよう手は毛の束を掴んでいる。意地でも離すものか!離したら死ぬ!犬が真っ先に向かったのは、動物達が集まる場所。先ほどのネズミは早くも全身びしょびしょで体毛がお利口にしている。他にも鳥、カニなどがいたがみんな濡れてるし、みんな喋る(まあカニは濡れていて当然だろうが)。ここがどういう場所で、なんの集まりかはわからない。その集まりには白ウサギもいた。
「私のあれ・・・なんだっけか、あれを知らないかい。」
「あれってどれだよ!一番難解で腹の立つ質問だなぁ!」
案の定ウサギとネズミはもめている。
「どいてええええ!」
アリスを乗せた大きな子犬は小さな動物よりもやはり大きく、獣の群れに突進!
「ぎゃあああ!」
散り散りになる動物達。幸いにも踏まれた者はいないが、やはりその衝撃で転んだり吹っ飛んだりする者、無事なら逃げる判断もできないほど混乱してあちこち動き回っている者などもはやそこは地獄絵図。一方の子犬は興味ある対象を見つけては追いかけ回す。あたりは大混乱。
「どいてどいて!!」
アリスでは止めようもできない。せめて被害が最小限にとどまるようみんなに叫ぶのみ。
「あっ!そこのウサギ以外!」
「なんでだよ!!」
指差した白ウサギを、頭がいいのかどうなのか、子犬は目をギラつかせて追いかけた。白ウサギも頭の中にいっぱいの「?」と危機を感じて「!」を並べてとにかく逃げる、逃げまくる。しかし白ウサギも突然名指しされてパニック。地面に描いてある白い縁の内側をグルグル走る。なぜこの上に沿って走っているのか、実のところ白ウサギもよくわかっちゃいない。そしてウサギと子犬(と、アリス)が猫とネズミみたいに追いかけっこする様子になにやら触発された動物達。
「オイラ達も負けちゃいねえ!!」
自分らも各々に、しかも同じ方向へと走り出した。さっきまでただのおしゃべり会場がまさにレース会場に早変わり。
「なんでこんな事に!なんで!!」
白ウサギはアリスの怒りを買ったことで哀れにも望んじゃいない展開に巻き込まれてしまったのであった。
何周かして、白ウサギは隙を見て逃走。走りたいだけに目的が変わった子犬はコースからまっすぐまっすぐ外れた。満足した子犬は草むらの中、今までで一番長い舌を垂らして伏せている。
「あんだけ走ったらそら疲れるわね。」
よいしょっ、と。時間をかけてなんとか地面に足を下ろした。
「おかげさまで少し乾いたかも。」
せいぜい半乾き程度には。水分を吸った布は乾きは遅いものの髪は元の状態に戻りかけていた。さて、これからどうしようか。ネズミが教えてくれた方向からだいぶ違って遠のいた。途方に暮れていると。
「ワンワン!!」
突然犬が耳障りな声で吠え出した。自分より遥かに大きい犬の鳴き声だもの、うるさいどころの話ではない。心臓が止まりそうな大声で、口からまろび出るぐらい驚いた。・・・あれ?
「なによもう!!」
アリスは重ね重ね驚くこととなる。なぜなら、犬の前には犬も人も恐れる得体の知れない物が立ち塞がっていたのだから。形は猫だが、毛の色があまりにもおかしいというか・・・ピンクなのだ。ピンクと濃い紫の縞模様なのだ。みていて頭がおかしくなりそうな色の猫が、口を耳まで広げているのだから。むしろこれを猫だなんて思いたくない。獣は獣でも、化物といった感じか。本能的に犬は立ち去った。アリスもに逃げたいのは山々なんだが、肝心な時に足がすくむ仕様なのか一歩も動けない。
「おやおや、びっくりかい。」
猫はしゃべった。それだけ不気味な笑みを浮かべた猫は犬でなくともびびる。人間であっても。
「・・・ううん、やっぱダメだ・・・。」
なにが不満だったのか、中から笑顔が消えた。口を戻せば多少アリスの知る猫に近いが、やはり奇妙だ、色が。猫はアリスに構わず、くるりと回って引き返そうとする。
「ま、待って!」
アリスは止めた。
「あの、ここら辺で体の大きさを元に戻すのに詳しい人がいるって聞いたんだけど・・・!」
ここら辺からは遠い気もするが、誰であろうとぶっちゃけ良かった。猫は振り向いた。またあの笑顔で。
「あぁ、ここからだと近いね。あそこをまっすぐ歩いてごらん。」
尻尾を優雅に動かした先に視線を持っていった。いつのまにか猫は姿を消していた。
「わっ、消えた・・・?なんだったんだアレ。」
なにはともかく、案外近くまで来ていてラッキーと喜んで歩みを始める足取りはとても軽やかなものだった。
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