白兎を追いかけて


それは夜。とある街。人もまばらげの中、一人の女性が歩いていた。足取りは危なっかしく、道の敷き詰められた石と石の間の溝、マンホールのくぼみにヒールの底を引っかけてはそれだけではないかのように体を傾ける。背中はだらしなく丸く、腕は振り子のように力なく、生気のないその顔は若干赤らんでいた。ぼんやりした瞳は足元を見ているようでなにも見ていない。身につけているスーツもコートもなんでそこが?といった場所のボタンが外れている。外を出歩くにしてはなんとも杜撰な身なりの若い女性。襟を直す余裕すらなかった。そんな余裕もない日々に今日もまた疲弊する。割りに合わない労働に心と体を貪られ、そこに自らの幸福で満たそうにもそれが出来るほどの金もなく、回復する時間が足りない。なんのために生きているのか?生きるために生きているのに、なんで私は今生きているといえないのか。唐突に沸いては蓄積されるばかりの不安、孤独、絶望を酒の力で払拭しようと試みた。


結果はどうだ?全てがやるせないばかりの虚無になり、ひたすらしんどいだけであった。いつから自分は息抜きの仕方さえわからなくなってしまったのだろう。遅い秋の冷たい風が吹く。今はその澄んだ風も寒くて不快なだけ。もっと他に何かあればいいのに。

なにかって、なんだ?

今の彼女を救い出してくれるほどの何か?

それは一体、なんだ?


「・・・だ。大変だ・・・。」

どこからか、いきなり声がする。

「大変だ!遅刻してしまう!」

間の抜けた高い男の声で、ひどく慌てている。正直、声のする方向がわからない。が、女にとってはどうでもよかった。遅刻ぐらいで慌てるなんて珍しくともなんともない・・・。

「女王様に怒られる!」

そこで一瞬、思考がひどくさえた。

「女王・・・様・・・?」

流石に聴き慣れない単語だ。職場に居座るお局様を嫌み全開で呼んでいるのだとおかしくなって表情が緩んだ。

「女王様って呼び方やばすぎ、相当威張り散らしてるヤバい奴なのね。」

「首をはねられるぞ!」

とてもやばいどころの話ではない。この慌てている男の方が色々な意味でやばいのでは?人は追い詰められると訳のわからない事を言うもんだ、今度は心配してしまった。

「クビかあ。大変だな。」

首は首でもそっちのクビかと憐みながら、せっかく酔って気持ちが良かった分も冷めて落胆に項垂れて道を進むと。

「遅刻だ遅刻だー!」

目の前、路地から白い影が横切った。確かに、声の主は近付いてきたような感覚はあり、明らかに目の前のそれから声がした。目で追うとそれは、白いウサギだった。赤い服を着ていて、声の方向から察するに・・・。

「おかしいぞ。これだとあのウサギが喋っていたってことになるよね?」

果たしてこんな流暢に人の言葉を話す動物がいるのか。信じられない、だからこそ実際に確かめたくて、いや、ただの好奇心だ。深い理由はない、奇妙奇天烈な物体に興味津々だ。まるで世界のあらゆるものを知りたい無邪気な子供みたいに!

白いウサギはあまりにも足が速いためあっという間に向かいの路地、壁みたいな闇に吸い込まれていった。女性は追いかけた。酔いと疲れでまともに歩けすらしない足で。

「待って・・・!」

というか、ヒールが走るのに圧倒的に向いていないのだ。加えて今の状態、落ちた体力。既に彼女の中では諦めに近い感情がストンと降りてきていた。


人の言葉を話すウサギを見つけてどうするかは考えていない。まあ、おそらく散々話せる言葉を吐かせて満足したら話のネタへ消化して終わり。しかし誰に話したところで信じてくれそうにはないので、虚しいだけというか。ああ、なんでこんなくだらない思考になったのか。この瞬間こそが自分の心に残るならそれだけで意味のあるものなのに。

「もう無理・・・。」

先に女がギブアップ。声は聞こえるために途方にもない距離は空いてないかと思われるが、ウサギの背中が見えない。次の曲がり角を抜けてもそうなら、諦めるつもりで足を大きく前に出す。

「わっ!」

つまずいたか?足は地面から離れ体がぐるりとまわりる。いや、違う。地面が足からなくなったのだ。だっておかしい。転んだだけなら今頃どこかを強く打ち付けている。彼女の周りにはなにもない。あるのはただの暗い闇。勢いよく女は真っ逆さまに吸い込まれていく。

「いやあああああーっ!!!!!」

そう。穴に落ちてしまった。運悪く足元にあったのはマンホールだったのかも。向かい風が下から襲いかかってくる。随分と長い時間落下を続けている、これは絶対、底に落ちたら最期今度は天に昇ることとなる。つまりは死ぬ訳だ。

「いや!死ぬ!死にたくない!!絶対痛いに決まってる!!高いとこから落ちたら即死できる!?死にたくないけどどうせ死ぬなら一瞬で死なせて!!」

我ながら驚いた。ああ、まだ死にたくない。本当に死にたくないから死に際にここまで腹と心の底から声が出るんだ、と。

「・・・にしても、随分とまぁ長いマンホールね。

これだけ物凄い速さで落ちているにもかかわらず、浮遊感は相変わらずで。ここまで落ちればもう即死は免れないほどの高度だろう。恐怖を全く振り払えたわけではないが、「ああどうせ死ぬ。」、どうにもならぬ状況だと冷静・・・違う。悟りを開いたに近い気持ちだ。冷静な判断はそのおまけ。そういえば、なんだか体が少し軽いような?気のせいか。それはそうと女は怖いあまりずっと目を閉じていた。刺す光も感じられない死に場所で開く必要もなかったわけだが、絞るが如く力を入れ疲れていた目蓋の筋肉を緩めて目を開く。

「・・・。」

あいもかわらず暗い穴だ。だが、女の目は、筆につけた余分なインクが紙に滴り落ちてできた点みたいに丸く小さく見開かれた。驚きによって。

「なに、これ・・・。」

黒いヒールがなぜか紺色の真新しいローファーに。風にたなびくほどの広がる裾のあるスカートなど履いていないし、今着ている服がおかしい。黒いスーツとコート、働く女性の一般武装(自称)が、青系統のワンピースにひらひらの真っ白なエプロンドレス。そういえば、落ちた時からばたばたと音が煩かったような・・・。衣装ばかりに気を取られたが、よく見ると、なんと体が小さくなっているではないか!元より華奢ではあったが、そうじゃなくて縮んでいる。誰から見ても明らかなほど幼い少女と言える程の体に。加えて、髪だって。肩につくぐらいの黒こげの色をした髪は、金髪の糸でできたみたいな長い髪。ここで女はある判断に至る。

「夢かぁ・・・。」

だって、こんなにもずっと穴に落ちる事がまずないし、体が別人になるなんて更にあり得ない。それを思えば喋るウサギだってありえない・・・現実では起こり得ない不可解な現象が矢継ぎ早に降りかかっても夢と言うなら納得できる。しかも、夢を夢と認識しているのなら女が見ているのは「明晰夢」。つまりは夢でも希少な体験をしているのだ。ああ、夢なら穴に落ちても怖くない。痛くないし、死ぬこともない。安堵を取り戻した途端にあれだけ騒ぎ散らかした・・・その前の自分も入れて情けなく思えてきた。いつ寝たのか記憶はないが、起きた時の自分に全てを押し付けておこう。

「そういえば、落ちる夢って確か死ぬ前兆なんだって聞いたことあるな。この高さから落ちたら死ぬけど、ま、夢だしね。あー・・・でも夢から覚めたら

また現実、嫌だな・・・。もういっそこのまま死にたいな。」

女は深いため息をついたあと。

「それかずっと夢のままならいいのに。」

ようやく地面に辿り着いた。ドスン、と重い音と共に体を真下に叩きつける。

「ぎゃああ!!」

ぶつかった刹那に喉頭に水分が絡まった、喉にも痛い悲鳴を吐き出した。しかし、あの高さから落ちた痛みではない。痛いが、せいぜい自分が体験した中で二階建てのベッドから落ちた時の痛みに近かった。いや、十分痛いが。

「いったぁ・・・でも・・・よく生きてるわね、私。」

全身を襲う鈍痛に耐えながらも、膝をついて起き上がれるほどの事態で済んだ。物理的な違和感はひとまず命に別状はなかった奇跡へと上書きされた。だが、残念なことに痛みは「これは夢ではなく現実だ。」という残酷な現実をつきつける。さっきだって無意識に「痛い」といったくせに。

「夢じゃないんだ・・・。」

だとすれば、起こった不条理を全て現実として受け入れなくてはいけない。


人の言葉を話す白いウサギも。

とてつもなく深い穴も。

そんな穴から落ちて起き上がれるほどの痛みで済んで、まるで姿が別の誰かになってしまった自分も。


受け入れるにしては、現実から全て遠ざかりすぎている。自分がこの世の全てを知っているわけではないが、いよいよ現実と非現実がわからなくなってきた。

「ボーッとしてる場合じゃない、どうにかしないと。」

女は頬をパシパシ叩く。別に、もうこれが夢じゃないことはわかっている。気を引き締めるための一連の行為だ。落ち込んでいて誰かが救いの手を差し伸べてくれるわけでもない。女以外、誰もいる気配ないし。この状況で出来る事はないかの模索を始めたのはいいが、場所が全く意味不明でなんとも形容に悩んだ。


ふと見上げる。天井はない。底無しの穴みたいに上に向かって闇が佇んでいる。天井もなけりゃ空間を照らす明かりもないのに空間は昼間の明るさで、はっきりと目で視認できた。見渡してみると、床は白黒の市松模様になっていた。まるで自分が巨大なチェス盤に駒としてたっている気分。場所はそこまで広くない、円形に囲む壁には。扉がある。

「扉、よね・・・。」

目を疑ったのは、扉は女の爪先ぐらいの大きさしかなかったから。四つん這いで扉の前にしかめっ面を寄せてみてはしっかりとドアノブまである。指先でつまんで動かしてみても開かない。開いたところでこんなの、ネズミ一匹も通れないだろうに。

「入れるわけないじゃん。誰が、なんのためにこんなものを?」

この扉は今のところ無視して、次に気になったのは綺麗に磨かれたガラスのテーブルの上のアンティークな鍵と、透明の液体に満たされた小瓶。

落っことすと平坦な場所でさえ探すのに苦労しそうな小さい鍵は間違いなくあの扉を開くためのものだ。問題は小瓶。札がさげてあり、「drinkme」と書かれてあった。

「絶対飲まない。」

まだ飲んでもいないのに苦虫を噛んだ顔で睨みつけた。見た目は子供だが、気にはなるけど興味だけで何かわからないものに簡単に手を出す年ではない。液体は飲まないとして、さあどうしたものか。時は経つばかりで事態は進まない。次第に苛立ちが募る。「液体を飲む」簡単な選択を選べない自分に対しても。

「もう!どうすりゃいいのよ!」

何かを手に取り壁にぶつけたい衝動をぐっとこらえるかわりに喚き声をぶち当てる。はたからみれば少女が駄々こねているみたい。気分を落ち着かせようと、テーブルに頬杖ついて呼吸を繰り返すだけの行為をとった。空っぽになった頭に次々と行動のパターンを入れていく。

「鍵、扉、謎の液体・・・。なんか探索ゲームっぽいわね。」

考えが思わず口から漏れる。

「だとするとここにあるアイテムをどうにかしないと次の物語に進めないってことね。なんか本当にゲームっぽく考えてるけど、じっとしてても何にも変わらないし・・・。」

自分の思考がおかしいかと疑うも。

「そう!行動を起こさないと!」

何もしないよりはマシだ。自身がゲームの主人公ならどうするか考えよう。

「この扉に私が入らないと意味ないわ。鍵は、何にも出来なさそう。」

鍵はやはり、ただの鍵でしかない。

「この液体が妙に引っかかるわね、なんなのかしら・・・。」

ドアにぶっかけるか、鍵にかけるか

どうにもおかしな行動ばかりが頭に浮かぶ。普通ならまず、「飲む」選択肢が浮かぶはずだ。それほどまでに得体の知れない液体を口にしたくなかった。案の定、ドアにも鍵にかけてもどうにもならなかった。ドアにはシミができて、鍵の周りに小さな水たまりができた。

「でもさ、私が飲んだから、どうなるの・・・?」

女が飲んだからこの扉と鍵がどうなるのか知らないが、自分の中で試せる方法は一通りやったので、半ばやけで残りの液体を一気に飲み干した。相当な覚悟を要した。どうか毒ではありませんように。やっぱり飲むんじゃなかった、と後悔と苦痛に苛まれるあっけない人生のゲームオーバーを迎えませんように。

「まっっっず!!!」

まずかった。五つの味が全て混じってそこに辛味が加わった、頭がおかしくなる味だった。これが毒ではなかったら逆に何なのだろうと皮肉にも似た興味が湧いてくる不味さだった。それでも少女は吐き出さずに飲み切った。今のとこ悔いはない・・・。

「・・・!?」

最悪だ。やはり、ただの液体ではなかった。

強烈な目眩、視界がいくつも重なって、揺れて。たっているのもやっとだった。

「えっ、な、なにこれ、嘘でしょ!?」

初めての感覚・・・指先、爪先、肘や膝、肩や首が体の中心に寄っていくのを何度も繰り返している。あくまで体感的にそうであり、実際にそのような現象が起こっているのではない。そして、繰り返す度に体が縮む。今の彼女はそのままの意味で縮んでいる。しまいに小人もびっくりの小ささに。

「ど、どう、どう、なって・・・。」

床の模様の中に収まるほどのサイズの少女の頭の中はまっしろけ。思考が追いつかず、立ち尽くす少女。場所は変わってないのにまるで異世界となった部屋を見回す。そこで彼女は気づいた。

「小さすぎて入らなかったあの扉・・・今の私なら入れるんじゃないかしら。」

縮んだ分、距離も遠のいてなかなか大変だったけど、少女の読み通り扉を抜けるには十分だった。

「飲んだら小さくなった・・・あの液体にはちゃんと意味があったのね。」

味はどうにかならなかったものかと胸の内でぼやきながら少女は鍵をさした。なんと、鍵はちゃっかりポケットの中に入れていたのだ!え?なんでわざわざそんなこと、大袈裟に言うのかって?

「やった!開いた!」

扉の先がどんなところかさておき、打開できた喜びで弾んだ足で扉の先へ進んだ。





そこは開け放たれた空間だった。雲ひとつない青い空、踏んだら軽やかな音が鳴る気持ちいい芝生、日の光を浴びて輝く茂みの壁、遠方には白い円柱状の屋根が見える。洋館?もしくはお城?不思議と気分が高揚する。下品な雑踏、動き回り邪魔なだけの「障害物」もない、絵本の挿絵を切り抜いたような美しく気持ちの風景に目を奪われていた。知らない地で、誰もいないのは不安を煽る状況ではあるが、今しばらくはここで一人でいたかった。


しかし、物語の展開はそうはいかない。

後ろを振り向くと、扉も壁もなにもなく見晴らしの良い空間が続いていた。ここで新たな不安を抱く。「戻れない」、と・・・。


「本当に咲くんですか?」

「まあ信じてろって。毎年必ずは咲くんだ。」

茂みの向こう側から声がする。できれば隠れたい気分だった。だって、自分をどう説明していいか思い浮かばないから。でも残念。茂みに潜ろうとしてもその物音で気付かれてしまうだろう。ほかに身を隠す場所もなし。いや、そもそも向こうもこの茂みをわざわざ突き進んで来ないだろう。

「ここ一面に白いバラがな・・・。」

なんとびっくり。茂みが扉みたいに開いたではないか。それは反則です。少女が驚いた理由はほかにあった。赤い軍服を着こなすスラリとした痩身の男性二人、きっちり締めた襟から・・・そう、顔がトランプだ。人の言葉を喋るウサギなんて、まだ「ウサギ」だからかわいいものである。こちらは人の体に生き物ではないものができない真似をしている。まさに、化け物。

「誰だ、この子供は・・・どうやって城に入った?」

異形を前に少女は血の気の引いた顔で金魚みたく口をぱくぱくさせて、ゆっくり、ゆっくり後退り。悲しいかな、扉もない。彼らから逃げる術がない。

「ふうむ、弱った。」

男二人が向き合ってため息を重ねた。

「城への侵入者は女王様の元は連れていくのが仕事・・・だが。」

「子供ですし、何かの拍子でうっかり迷い込んだんでしょう。」

「だとしたら女王様のもとへ連れて行くべきは仕事をさぼった門番係。で、君は城の外へ連れて行こう。」

子供に話しかけるゆったりと優しさを含む声。ああ、初めて会った人がいい人で良かった。見た目で判断してはいけない、と反省・・・いや、性格はどうあれその姿はさすがにどうかと思うが。

「じゃあお嬢ちゃん、私達が案内するのでついてきてね。」

一人が手を差すと。


何かが勢いよく風を切った。その何かは見えなかった。特に気にするようなことではない。でも、なにかがおかしくなった。

男の首がズルリと嫌な音を立てて横に滑り、ぼとりと落ちて転がった。

「え・・・?」

少女は今起こったことを理解できない。理解したくないのではない、本当にできていないのだ。体を操る部分が切り離された男の首から下は膝から崩れ落ちた。彼の周りを赤黒く艶やかな物が流れていく。

「ひい・・・ッ!」

事態を飲み込んだ、否、理解していたもう一人が慌ててその場から離れようとするも、首が後ろに飛んでいき、体は走った勢いで大袈裟に倒れ込んだ。鼻をつく濃い臭い。血の臭いなど、人生で一度だって嗅いだことなんかないのに不快だってわかる。


これは現実?

突然出来た目の前の死体が、本当に現実?

これが否<現実であっていいものか>定。


「ここにサボっている兵士が二名・・・っと。」

芝生でできた開けっ放しの扉からやってきたのは、今の少女と同じぐらいの少女。リボン、レース、薔薇などをあしらった真っ赤なドレスに頭には自ずと輝きを放って見えるほど神々しい王冠を戴く。

「あなたは?」

先ほどの男達より無機質なしんとした眼差しと声に自然と息が上がる。今の自分が自分でもわからないから説明のしようもないし、こんなものを見てすぐに名乗れるほど人間終わってない。

「・・・ああ、あなたはきっとアリスね。」

喋れないのをいいことに全く意味不明な方向へ話が進んだ。

「わ、私は・・・。」

穴に落ちる前に遡って話すつもりだった。でも、何故だか今は正しくない気がした。

「いいのよ、ここに来る金髪碧眼の女の子はみーんなアリスってことにしてるから。なんでかわかる?」

聞かれても・・・とは言えなかった。

「・・・面倒だからよ!」

「理不尽・・・。」

勿論、口には出さなかったが。

「にしたってねえ、早すぎるわ。なんで最後の方で会うはずの私が最初の方で会う展開になってるのよ。まだなーんにも準備できてない。バラも咲いてない。」

この女性、最初は魂を感じられない人形といった雰囲気を帯びていたのに意外にも砕けている。死体を前に全く動じないのは異様に感じるが。

「展開・・・?」

やはり死体が、どうにも平静さを取り戻すのを邪魔してくれる。声は小刻みに震えていた。

「貴方と私はいずれまた会う運命なの。素晴らしいイベントのさなかにね・・・今は準備中なの、だから・・・。」

呆れ顔の少女が指を鳴らす。アリスの足元には大きな穴が現れた。

「穴に落ちる所からやり直しなさい。」

時すでに遅し。アリスはとっくに穴に落ちていた。

「いやああああああーっ!!!」

悲鳴と共に吸い込まれ、何事もなかったかのように穴は閉じて一面の芝生に早変わり。アリスは再び元の場所へと戻されてしまった。





「・・・。」

再びアリスは先ほどの閉ざされた空間に落とされた。いくら高度とダメージが不釣り合いとは言え、痛いものは痛い。それも二度も食らえば精神的にもこたえるものがいくらかある。

「・・・・・・。」

無言で、顔はひどくやつれて、ど真ん中で膝を抱えて蹲る。へんてこな世界に来る前から心身共に疲れていたというのに、めまぐるしく降りかかる異常についていくための気力もすっかりなくなった。ましてやそれが愉快で楽しいものならよかったのだが。

思い出したくもないのに嫌でも思い出す。記憶に過ぎるたび、脳みそが揺さぶられる。強く拒絶するたび首を否定の横振りを繰り返すが、余程の衝撃だったのか記憶にこびりついて離れない。

くわえて、またやり直し。何がいかなかったのか、というか、なんでこんな目にあわなければならないのか?彼女がイベントの準備ができるまでここで待てというのか?いつになったらその準備とやらは終わるのか?疑問が次々と浮かんでくる。

「君さ。」

誰もいないはずのうしろから声が。飛び跳ねるほど驚いて慌てて振り向いたら、そこには白ウサギ。

どこからきたの?いつからそこに?些細なはてなは全て吹っ飛んだ。

「「不思議な国のアリス」って知らない?」

見れば見るほど、本当にただのおめかしをしただけのウサギなんだけど、たしかに小さな口が動くたびに言葉が発せられている。アリスがなにも言葉を返さないので、もう一度尋ねた。

「ねえ、不思議。」

しかし今度はアリスが彼の方へ迫っていった。

「ここから出して!元の世界に帰りたいの!」

その勢いで後退りするも白ウサギは至って冷静・・・押し通しが強かった。

「不思議な国のアリスって知らない?」

まるで埒があかないので、彼の質問に答えてから色々問い詰めてやろう。

「ええまあ、キャラの名前ぐらいは・・・。」

「ハートの女王様は知ってる?」

アリスは心の中で「黙っていれば次々と・・・。」なんで苛立ちが湧いた。

「うーん、なんかすぐに首をはねよー!とかいう人でしょ?」

「そうそう。で、女王様がアリスに会いにいくように言った人物は?」

「は・・・?」

自分でもわかるぐらいにドスのきいた、重く低い声。半開きの目蓋から覗く目は大きく迫る。しかし悲しいかな、白ウサギはアリスを「なんて難しい問題だ、わかるはずがない」と怒っているのかと勘違い。間違ってはいないが、彼女の怒りの八割強はそうではない・・・。

「まあ、今のは僕が悪かった。って、なんでこんな事を言わなくちゃいけないんだ!?」

「知らんし!!」

急に怒られると反射的に、アリスの方がもっと溜まっていた分倍以上の声を張り上げた。

「知らないと言われたら返す言葉がない。」

「で、それがなに?」

白ウサギは一歩引いて、今更だが小さな手(?)を前に恭しくお辞儀をした後。

「僕を見て何か思わない?」

そう聞いてきた。彼が言いたい事はなんとなくだが理解した。

「あなたが不思議の国に出てくる白いウサギとでも言いたいの?」

「そうとは言わないけど、状況とか似てるじゃないか。君も、僕を追いかけて穴に落ちたなら立派なアリスだよ。」

だから何、と冷たく言い捨てたい気持ちだ。この問答にはたして意味はあるのか。それに。

「私はアリスじゃないわ。」

さっきだって強引に誰かの名前で呼ばれて今だってそういう風に勝手に流されている。仮に、今の少女をアリスと呼ぶとして、姿が変わっただけの「私」は違う。

「穴に落ちた時からこんな姿になって勝手にアリスって呼ばれてるけど、落ちる前はアリスじゃなくて・・・。」

「ああもういい!うんざりだ!」

小さい体躯のどこから出てるんだといわんばかりの大声がウサギから出てきた。びっくりした。でも、冷静になっていけばなぜこのよう自分が聞き分けのない大人みたいな言われ方をされるのか、誠に理不尽でならない。

「なにはともあれ君はウサギを追いかけ穴に落ちてここに来た時点でアリスなんだ!いい!?とりあえず君はここでアリスと同じような行動をとればいい!そしたら元の世界にも帰れるから!」

「元の・・・世界?ほんとに!?」

当然、アリスは食らいついた。驚愕と喜びの混じった顔は口と目を大きく開き、前のめりで距離をつめるぐらいに。そんなアリスを置いて、白ウサギは小さな歩幅で時間をかけつつ急いでテーブルの側へたどり着いた。黙ってりゃかわいいウサギなのに、とは言いたくても言わないアリス。

「まず、僕なら絶対飲まない得体の知れない液体を飲む。鍵はテーブルの上に置いたままだ。」

アリスは彼のいうことに従った。鍵はポケットから出してテーブルの上に置き、白ウサギですら自ら飲まないといいのけ、一度飲んだからわかる二度と飲みたく無いクソ不味い液体を一気飲みした。感覚には未だに慣れないものの、またもやアリスの体はみるみるみるうちに小さくなっていった。

「お見事、虫ケラみたいな小ささだ!」

いつか痛い目を見せてやろうと現在倍以上の大きさはある小動物へ対して決意を抱いた。次に白ウサギが背中を向けてテーブルの上でごそごそしているから覗こうとしたら、どこにもそんなもの入れておく場所なんかないのに彼はケーキを皿に乗せてやってきた。白いつやつやのお皿の上、ピンクのクリームにカラフルチョコがまぶせられた可愛らしいまんまるのケーキに「Eatme」と書いてある。

「この世界の飲食物は随分自己主張が激しいのね。」

「これを食べて大きくなる。」

アリスの感想を流し、彼女の前に差し出した。彼からしてみてもさほど大きく無いそれは今の虫からほどの身丈しかないアリスにとってたちはだかる壁のようだった。大人なアリスは考える。「一回縮んでまた大きくなる必要ってなくない?」と、無駄な過程なのではないか、と。でも、目と鼻の先にはそんな屁理屈さえ消え去る夢みたいな光景が。巨大なケーキ、こういうのを望んでいた。甘酸っぱい香りが食欲を誘い出す。

「まずくない?」

白ウサギは首を傾げた。小さい彼女の声は羽虫が落ちる音ぐらい小さく聞こえるのだろう。

「・・・はぁ、いただきます。」

スプーンなど親切なものはないから仕方なく手でちぎって一口頬張る。

「おお、これは・・・。」

ケーキばかりは裏切らなかった。ピンクのチョコはイチゴ味。中には砕いたクッキーみたいなものも入っていて食感も楽しい。落ちる前も含め久々に贅沢をした気分さえ味わった。おのずと手が伸びる。

「めちゃくちゃ美味しい!なにこれ!こんなの売ってあるお店近くにあったら毎日通う・・・むっ?」

異変ははわずか遅れてやってきた。目眩など、不快に思う現象はなかったが、何度も何度も体の端が外へ向かって伸びて、元の大きさをこえたアリスの体は巨大化していった。食べるのをやめた時が伸びる限界だったのだろう、ぴたりとやんだ。空間にみっちり挟まり、膝を折り曲げないとおさまらなくなるまで大きくなってしまった。

「あいたっ!狭い狭い!」

身動きの取れないアリス。元々そこまで大きくもない白ウサギが足元でこっちを見ながら飛び跳ねている。

「ははは!クマみたいにデカくなったぞ!で、困った君は泣き出して・・・。」

残念、今度はそちらの言葉が聞こえない。ただ。

「よく聞こえないけど、なんか悪口言われてる気がする。どうしてくれんのよ、これ。」

そうだ。次にどうすればいいか教えてくれても聞こえないからわからないのだ。

「って、おい!そこで泣いてくれないと、これを拾って元に戻ったところでなにも起きないぞ!」

なにかポケットから取り出して見せびらかしている。彼が持っているものは扇子だ。ウサギの持ち物なんてどれだけ小さいものか。

「ねえ、どうしてくれるの!?」

そして巨大化した彼女の声がどれだけ大きいか。

「うるさいうるさい!ウサギの耳は大きくて敏感なんだぞ!普通、泣きたくもなるような状況だろ!?」

お互いの意思疎通が完全にできなくなってしまった。アリスは呆れて力なく見上げる。どれだけ大きくなっても頭上は真っ暗闇だ。

「・・・こんだけ大けりゃ壁ぐらい突き破ったりできるんじゃないかな。」

ちょうどむしゃくしゃしていたところだ。理不尽はみずからの手でぶち壊していくのも有りではないか。アリスはこの際思いっきり足を突き出した。

「なにをする!?わーっ!!!!!」

案の定、足が貫き、壁はボロボロと崩れる。外は例の美しい庭に繋がっていると思いきや、違っていた。なんと、誰かの家へと繋がっていた。少し申し訳ない気持ちにもなるが、知らない人まで気にする余裕はない。もう、壊しちゃったし。

「なんだなんだ!?」

「ひいい!ば、化け物ー!」

木で出来た壁が砕け、中にある家具やら寝具やらを全て踵で踏ん付ける。建物の外から喋る動物がわんさか湧いてくる。ネズミ、鳥・・・そういや白ウサギはいない。隙を見て逃げたらしい。巻き添えをくらって欲しい奴トップを切っていたのに。人間味溢れる動物達は口々に巨大化アリスを化物呼ばわりしながらここぞとばかりの抵抗に石をぶつけてきた。石を投げられればそりゃあ痛いに決まっている。

「ちょっと!いたいけな少女に石ぶつけるなんてアンタ達人の心とかないわけ!?」

まあ動物なんだけど。すると、ある異変に気づく。

「あれ?石のはずだったのに・・・。」

アリスの体にあたる時はちゃんと石なのに、役目を終え床に転がったそれはさきほど食べたケーキのかけらになっていた。さっき同じものを食べたからさほど警戒しない、また大きくなるのか、興味本位で一つ食べてみた。すると、なんと同じ味、同じ食感

、全く同じケーキのはずが食べた瞬間から縮みはじめる。

「へえ、今度は小さくなるのね。」

家が自らの形を保てなくなり、あっけなく破片と化して塵を巻き起こし潰れていった。

「ぎゃああああ!」

悲鳴があちらこちらから聞こえる。アリス自身も冷や冷やする思いで崩れる様々な物を掻い潜り埃が舞う中逃げ出した。

「ざまーみろ!」

アリスが向かっていったのは森だった。だって、家の周りにはとりあえず森しかなかったもので。


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