6月2週  『行く! 絶対に行くから!!』

「はっははっははは、はるな!?」


「しっ、とりあえず静かにしてくれ!」


「あぅ……」



 可能な限り声を潜めながら春波が水瀬へと声をかける。



 二人の身長差はそれ程ある訳ではない。 4,5cm程春波が高い程度だ。 だからこそ距離が近づいたときお互いの吐息すら感じられてしまいそうになる。



 そんな状況になりいっぱいいっぱいの水瀬が黙り込むと、水瀬の耳に廊下からの足音が聞こえて来てそこで今の状況を把握し、少し冷静になった。



「ごめんなさい、止めてくれてありがとう」


「う、うん」



 力任せに引き寄せ今の状況をもたらしたのは春波だが、こんな近しい距離感になるとは思ってもおらず緊張と抑えきれない衝動から目の前の整った顔を直視することは出来ず顔を逸らした。



 静かに、足音が通り過ぎるのを待つ。 だが春波はそれだけが理由でなく動けなくなっている。



 強引に水瀬の手を引き、決して良くは思わないであろう距離感まで近づいてしまったという思いの春波は掴んでいた腕を離し音をたてないよう、触れないようにと動きを止めた。



 しかし水瀬はそれに不満げな様子を見せていた。 自分が迂闊だったとはいえここまで近づいて何も無いのか。 さっき自分が感じた熱はやはり気の所為だったのか。



 目を逸らされているおり表情は読めないが、こちらが何かしようとしても春波に気取られる可能性も低い。 ならば少しでもこちらを意識させても良いのではないか。



 そう思った水瀬は、そっぽを向いている春波の肩に自分の顔を埋め、体重をかけた。 空いていた少しの距離が埋まり相手の体温が伝わってくる。 自分の物ではない相手の匂いを強く感じる。



 水瀬の中の、言葉に出来ない空白が埋まっていくのが解る。 ああ、本当に。 私はこの人が好きだと強く思わされる。 それでもなお相手を求める気持ちが止まらない。 自然と水瀬は春波の背中に手を回し、グッと力を込めた。



 抱き寄せるような形になり、接触している面積が増え相手の事をより強く感じる。 気づけば足音はしなくなっているがその事には気づかず、お互い声を発さずに音の無い時間が流れた。



 どれくらい経ったかはわからない。 やがて水瀬から惜しむようにゆっくりと身体を離した。



「……じゃあ、また来週ね」



 先程と同じような言葉をかけ、水瀬は足早に空き教室を出た。 恥ずかしさからか相手の事をまともに見ないまま。



 あまりの出来事に声を出す事が出来なかった春波は、高揚する気持ちと共に、冷静、もしくは自分に都合の良い考えを巡らせていた。



「嘘だろ……?」



 春波は、水瀬の友人に自分の好みを探られたであろう事実も、今水瀬が起こした一連の行動についても、思い返した今までの水瀬の行動や表情も。



 それらの全てを勘違いと言ってしまえるような、鈍感な人間にはなれそうになかった。



 ◇



 全く身の入らない午後の授業をなんとかこなし、帰宅した春波は電気もつけないままソファへと身体を投げ出した。



 午後の授業中、時たま昼のことがフラッシュバックし顔を押さえて動かなくなるのを隣の灯理に珍しいものを見るような……または、奇怪な物を観察するような冷たい目をされていたがそれを気にする余裕は春波には無かった。



 水瀬の行動が、身体を包む感触が焼きついてしまっている。 時間が経ち頭は冷静になったつもりだが胸の奥の熱が引くことはなかった。



 両親を不慮の事故で無くすまでは、少し苦手意識があった事もあるが、そもそも友人とはしゃぐ事が楽しく色恋については友人達が話しているのをなんとはなしに聞いて適当にリアクションを返すくらいだった。



 いざ自分の事となると、友人達が必死になっていたのがようやく解る。 こんな気持ちは自分だけではもうどうしようもないのだ。



 一緒にいられるだけでも良い、というのも解った。 しかし、そんな自分とは裏腹にどんどんとその先を求めてしまうのだというのも解ってしまった。



 春波はスマホを取り出すと迷いなく操作を始めた。 メッセージアプリを開き、目当ての人物のプロフィールを選ぶと音声通話をかける。



 少しの間呼出音を聞き続ける。 何も確認せずにかけているので反応しないかもしれないのは承知の上だ。



 すると呼出音が止まり通話が繋がった。



『もしもし……?』


「もしもし、水瀬? 今大丈夫だったか?」


『全然大丈夫だけど、急にどうしたの……というか電話なんて初めてだし』



 水瀬の訝しむ声に、春波は自分の身体に力が入るのを感じた。



「あーあのさ……えっと…………」


『え、何ホントどうしたの……?』



 歯切れが悪い春波の様子に水瀬も何を言っていいか解らず、少しの間沈黙の時間が流れた。 春波は軽く息を吐くと、意を決して本題を切り出した。



「明日……いや、明後日の日曜日って、時間ある?」


『え……? えっと、用事あるけど、全然時間は作れる……なんで?』


「…………どこか、一緒に行きませんか」


『………………………へっ?』



 水瀬からすっとんきょうな声が漏れる。



『……何か一緒に行ったほうが都合が良いから?』


「いや、そういうのじゃない。 ぶっちゃけどこに行くかもまだ決めてない」


『それって、その、つまり』



 以前、新しい弁当箱をそのまま渡すために一緒に買い物に行ったことはある。 だが、今回春波が誘っているのはそういう事では無い。



 行き先が目当てでなく、相手と一緒に過ごす事が目的の誘いだ。



「まあ嫌なら断ってくれれ」


『行く! 絶対に行くから!!』


「っ、……解った。 詳細はメッセージで詰めよう。 じゃあ」



 そうして通話を切ると、春波の体から一気に力が抜けた。 今までで1番と言っていいほどの緊張感から解放されると、喉が酷く乾いている事にようやく気づいた。



 キッチンへ移動しコップについだ水道水を一気に飲み干し、改めてスマホに目を移す。 そして、約束した日のためにまた再び操作を始めた。



 ◇



 自室でのベッドの上で通話を終えた水瀬は、今聞こえてきた言葉を改めて思い出す。



 明確に言葉にされた訳ではない。 だが、今のは間違い無く二人で一緒に遊びに行く約束……つまりはデートの誘いだった。



「ど、どうしよう……!」



 このどうしようには、どこに行けばいいのか、どんな服装がいいのか、どうやって時間を開けようかなど様々な意味合いが含まれていた。



 昼に自分がした事を思い出し部屋で1人反省会……いや、ただ悶えていた所に急にかかってきた春波からの電話でそれら全てが吹き飛んだ水瀬は、しかし再びベッドの上で約束について思い悩み始めるのだった。

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