5月2週 「……おいしい!」

 授業が終わり、誰にも話しかけず、話しかけられることも無く春波はるなは教室を出る。



 まだ日が落ちるには早い、夕暮れと呼ぶには日が高い中、生徒がまばらな校門を抜ける。



 明日は金曜日、叔父が夕飯を食べに来る日だ。 リクエストはトンカツ、豚汁の豚肉セットだった筈。 週末で疲れてるから豚肉で疲労回復、なんて言っていたが30代後半には少し重いのでは、なんて考えながらスーパーへの道を歩く。



 スーパーに付くと籠を取り、主婦や家族連れの人々を避けながら野菜コーナーから順に回っていく。 キャベツを見つけ上から取り、トンカツ用の豚肉、自分の弁当用と合わせて大きめの薄切りロース、などと目ぼしいものを吟味せずに次々と籠に入れ、買い物を済ませた。



 薄ぼけた景色の帰路を歩き、オートロックのエントランスを抜けると春波は暮らしている1LDKのマンションに入る。



 人の気配がない家の中、廊下の電気を着けずに入っていき、キッチンで買った物を冷蔵庫に入れた後、着替えて日課のランニングの後、シャワーを浴び夕食の調理と明日1日の為の仕込みを始める。



 一々自分で行うのは手間と言うほかないが、叔父との約束であり自分のワガママが原因の為サボるわけにもいかず黙々と手を動かす。



 明日の弁当は買った多めのロース肉を生姜焼き、豚汁を今日のうちに多めに作って持っていく豚弁当だな。 明日も豚三昧だけどわざわざ変えるのも面倒だし。



 夕食のアジの干物をグリルに任せ、明日の仕込みをしていく。



 キャベツの千切りを最後に一通りの工程を終えると、薄暗いリビングに夕食を運び、席に着く。



「……いただきます」



 手をあわせ言った後、食事を始める。



 ワカメの味噌汁、ふつう。 まあ昨日の残りをチンしただけだし。


 アジの干物、まあまあ。 少し身を剥がしづらい。


 白米、いまいち。 冷凍ご飯だけどこれは炊けてから少し時間立ったやつを凍らしたやつだな。 ものぐさせずにちゃんとすぐやっとくべきだったなぁ。



 無為な思考を走らせながら食事を終え、洗い物をし自室に入ると宿題、復習を行う。 勉強は学生の本分であるがその様子は目標があるわけでも無く、どこか物悲しく感じさせるような姿。



 区切りがつくと、普段は何をするでもなく就寝の準備に入りそのまま寝てしまうのだがこの日は違った。



 昼間に普段起こらないような事があったからだろうか。 落ち着かない春波は上着を羽織ると夜遅い時間になるが住んでいるマンションを出た。



 目的も無く、人気のない夜道をただ歩く。 時たま通る車の音以外は春波の耳に聞こえてくる物はなく立ち止まり空を見ると自分を照らすことは無い果てしなく遠い光を瞳が反射する。



 その夜の空気にまるで一体化するように、だんだん身体が闇に溶けてしまうように思えたその時。



「春波!」



 自分を呼ぶその声に意識が戻ってくる。 声がした方向を見ると、短い髪の女性が息を切らして春波を見ていた。



「叔母さん」


「おばさんは寄せって。 こんな時間に出歩いてどうしたんだよ一体。 理音りおがたまたま出かけるところ見たから追いつけたけど危ないぞ」


「別に、ただなんとなく……散歩かなぁ」


「散歩するにしても時間考えろって。 ほら帰るぞ」



 そうして連れ帰られた春波は、そこから何をするわけでもなくベッドに入った。



 高校2年という年頃にも関わらず遊びにいくのも、娯楽や趣味で時間を使うのもしない。



 日々をただこなし、誰とも深く関わること無く自身に波風立たぬよう過ごしていく。



 それが今の深海 春波だった。



 ◇




「邪魔するわよ」


「おう」



 翌日の昼。 弁当を広げ終えた所にコンビニ袋を持った水瀬みなせがやって来た。



 思わず返事をしたが別に自分の部屋ではないので今のやり取りはおかしいのでは? などと考えたがまあいいか、と思考を流す。



 そのまま春波はお構いなしに食事を始めようとするが、入って来てから足音がほぼしていないことに気付く。



 水瀬が自分で用意した席に向かっていない事に気づき振り向くと、後ろからこちらの弁当を覗き込んでいた。



「なんか、見たのもまだ数回だけどお弁当ちゃんとしてるわよね。 カレーはちょっとビックリしたけど、昨日も今日もわざわざ汁物まで用意してあるし」


「お褒めに預かり光栄だな」



 カレーは火曜日の叔父のリクエストの際作った残りを持ってきただけだが、自分の作った物を褒められて悪い気はしない。



「……えっ? もしかして自分で作ってるの?」



 驚き春波の顔と未だ手つかずの弁当を交互に見る水瀬。



 それが気に障ったのか、少し不機嫌な様子を春波は見せる。



「はいはい、似合わない事はわかってますよ」


「ああ、ごめんなさい、そういうつもりじゃなくて。 単純に自分で自分の事ができるのが凄いなって。 私なんてこれだからさ」



 手に持ったコンビニ袋を軽く掲げそう言う水瀬。



 春波はそれを見て、ほんの少し目線を落とした。



 自分で昼食を用意せねばならないらしい、という所は同じのようだ。



 春波達が通うこの高校には学食も購買もあるが、今の水瀬の状態だと向けられる目線だけでも疲弊してしまうだろう。



 そう考え思わず春波の口から言葉が漏れる。



「まあ、僕はやらなきゃいけないからやってるだけだから」


「? やらなきゃって?」



 しまった。 あまり考えずに言葉にしてしまっていた。



 慌てた春波は失言を誤魔化す為に慌てて突飛な提案をしだす。



「良かったら少し食うか? 今日はまだ手を付けてないし」


「えっ!? いいの!?」



 嬉々とした様子を見せる水瀬に、春波は誤魔化せたかなと安堵のため息をつく。



 昨日少し様子を見た限りでは水瀬はコンビニで買ってきた物に満足してなさそうだな、と感じていた為うまく気を反らせたようだ。



 春波は自身の弁当の蓋にまだ未使用の箸ではあるが、頭側を使い米と生姜焼きを3分の1づつのせ渡す。



「はい、食いしん坊さんの分」



「……食いしん坊じゃないもん。 でももらう。 ありがと」



 自分への扱いに拗ねた様子ではあるが素直に受け取り、少し跳ねるように席に持っていく水瀬を見届けると、春波は改めて自身の昼食はじめる。



「いただきます」


「いただきます! いただくから!」


「……ははっ」



 春波の方を見ながら元気よく言ってくる水瀬に思わず笑みが溢れる。



 叔父には定期的に食べさせてはいるがそれ以外となるとそれこそしばらくぶりの事で、少し緊張感が走る。



 自身の食事をしながらも水瀬を見ていると、コンビニ袋から昨日と同じようなサンドイッチとサラダを取り出しそちらから食べ始める。



 先程のリアクションを真に受けるなら楽しみは後にとっておくタイプだろうか。 そうだと言ってくれ。 勢いでもらったはいいが冷静になってそんなに食べたくなかったかもと後回しにしてるとかじゃないよな。



 などと春波が勝手にグルグルとなっているのはお構いなしに水瀬は分けられた生姜焼きに箸を伸ばし、口に含んだ。



「……おいしい!」



 聞こえた瞬間、緊張していた体が開放されるのを感じた。 そのまま白米も合わせて食べ進めており、お気に召したようでなにより、なんて思いながらも自分の分を食べきる。



 しかし食事の事になると気の強い印象から少し子どもっぽいリアクションになるのはやっぱり食べる事が好きなのだろうか。



「ごちそうさまでした」



 片付けを始めようとすると水瀬が蓋を返しに横に立っているのが見えた。



「ごちそうさま。 美味しかったよ、深海くんやるね」



 その言葉に春波の口角が上がるのを感じる。 誰かに喜んでもらえるのは、やっぱり嬉しい。



「お粗末さまでした。 満足いただけたようでなによ……」



 蓋を受け取りながら水瀬を見る春波の言葉が不意に止まった。



「何その顔? 私の顔になにかついてる?」



 水瀬は口元に笑みを浮かべているが、春波の驚きの表情は崩れないままだ。



「いや、滝、お前気づいてないのか」



 何かを示すように自身の頬を触れる春波。



「お前はやめてってば。 なに? ごはん粒でもついてるって? 流石にそんなのついてたらわかるって……」



 自身の頬を触る水瀬は違和感に気付く。何かあるわけではなく、自身の頬が濡れている。



「えっ?」



 雫が一粒空き教室の床に跳ねる。



 水瀬は、自身も気づかないまま涙を流していた。



「は、え、なんで、ごめん大丈夫だから、止まってよ」



 そう言いながらも涙は止まらず溢れている。



 初めて水瀬の涙を見た時、春波はおそらく見惚れていた。



 今もその姿にどこか目を離せないものを感じながらも、春波の胸の奥に息が詰まるような苦しみも存在していた。



 なにか声をかけようと口を開けた瞬間、予鈴が響き渡る。



 やりとりをしている間に時間が過ぎていたようで、それを聞いた水瀬は涙はそのままに急いで自分の荷物を手に教室へ戻ろうとする。



 このまま返していいのか、と焦燥感を抱きながらも自分も荷物をまとめながらも紺色のハンカチを取り出し、水瀬に差し出した。



「ほら、これキレイだから 」


「わざわざありがとう。 困らせてるね、ごめんなさい私のせいで」



 謝られた瞬間、春波の中の苦しさが彼を動かす。



 早足で空き教室を去ろうとする水瀬の背に向かい、叫ぶように投げかける。



「今日の放課後、僕はここにいるから!」


「へっ!?」


「出来れば来てくれ! じゃあまた!」


「ちょ、ちょっと!?」



 言い終えると戸惑う水瀬を置いて急ぎ教室に戻っていく。


 胸の奥は、少し息苦しさがなくなったように思えた。

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