1-③

碧は、本線に戻ると、車線を中央寄りにとって、ギヤをトップに入れるとアクセルを強く踏み込んだ。エンジンを積んでいるリアが沈み、959のツインターボの吸気音が唸りを上げる。空を飛ぶような強烈なGに、碧の身体がドライバーズ・シートに張り付く。


幾つかの短いトンネルを通り過ぎた。

碧は、助手席に転がっている缶コーヒーに手を伸ばした。左手のハンドルを握った手で缶を持って、空いている右手でタブを引き抜いた。人差し指にタブを付けたままで、缶を右手に持ち変える。


碧はコーヒーを一口飲んだ。サングラスの縁に缶が当たる。

カーショップで取り付けてもらったカップホルダーを引き出すと、そこに缶コーヒーを置いた。


上目使いにルームミラーを覗いた。すっかり夜は明けていたが、車の数は疎らであった。

白いワンピースのポケットから、さっき買った煙草を取りだした。ビニールを剥がして、煙草を一本口にくわえた。


(あの若い子には、少し悪い事をしちゃったな。あの子も悪意があったわけじゃないし、わたしが可愛すぎただけで……)

碧はあの時、何も殴る事はなかったと後悔をしていた。


(でも、この有名人のわたしを、誰だか判らないでナンパするなんて最低よ)

と、それ以上に怒ってもいた。(………そこかい)


車からシガーライターを引き抜くと、煙草の先に押し付けた。そして、またルームミラーで後ろを確認した。

碧の横顔は、少し不安そうであった。さっきの暴走族が追い駈けてきて、仕返しをされるかもしれない。

さっきは周りに人がいたから止めたけど、根に持っていないとも思えなかった。

それに、最後にヘルメットの男が片手を上げたのも、取り方によっては『仕返しに行くから、それまで待ってろよ!』とも受け取れる。


河口湖方面と、松本方面への大月の分岐点が見えてきた。

碧は松本方面へと進路を向けた。

と、その時、車のセンターコンソールに備え付けの電話が鳴った。

碧は煙草を灰皿に消すと、受話器を耳に当てた。


「もしもし、麟太郎だけど、碧ちゃん?」

テレビ局チャンネル9の、専属カメラマンの風見麟太郎かざみりんたろうであった。


「ええ、どうしたの?」

「碧ちゃんがまだ着いていないから、局の上の人が心配して、電話してみろって。それで今、何処にいるんです」


「今、えーと、……ディズニーランドに遊びに来ているのよ。開門を待って駐車場で、彼氏の腕枕の中で居眠りをしているところ」


「お願いしますよ。……今世紀最大の報道として、上の人達は神経尖らせて、ピリピリしてんですから。みんなの首が掛かっているんですよ」


「嘘じゃないわよ。わたしはもう、レポーターの仕事なんか辞めようと思っているんだから。こんなに酷使されたんじゃ、嫁入り前の大事な身体がボロボロよ。まったく……」


「判りました、判りましたから。……それで今、何処にいるんです」

と、麟太郎が、碧の言葉の途中で割り込んだ。


麟太郎にとって碧はドル箱であった。碧が、カメラマンの自分を指名してくれるので、何とか仕事が繋がっていた。


「ふふふ。今はね、大月を越えたところ。後、一時間ちょっとで着くと思うわ」

「そうですか。七時から打ち合わせが始まるので、間に合わせてくださいよ」


「引き上げは?」

「ええと、石箱の引き上げ作業は、……九時からです」

「九時ね」と、碧が確認して、車線を変えた。


風見麟太郎は、三十二歳の独身であった。腹が出ていて、眼鏡の下のまん丸の目は愛敬があるのだが、何処となく胡散臭いものも感じる。

いつか、スキャンダラスな映像を撮って、カメラマンとしての名声を売ろうと考えていた。少しわがままな碧の機嫌をとってコンビを組んでいるのも、自分の将来のことを考えてのことであった。


「じゃあ、運転にはくれぐれも気をつけてください。碧ちゃんは、テレビ局の宝なんですから」

「判ったわ。じゃあ、トンネルに入るから切るわよ」と、碧は早口に電話を切った。


間もなくして、車は笹子トンネルに入った。碧は車のヘッドライトを点けた。

(わたしが、局の宝ねぇ……)

碧は缶コーヒーに手を伸ばした。トンネルの中のオレンジ色のライトで、車内にストライプの模様が流れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る