口内炎は意識したら終わり
「口内炎って恋と似てると思うんです」
「……その心は?」
一度意識したら、気になって仕方なくなるから、痛くても触らずにいられない。
少しだけ、ほんの少しだけ上擦った声で、そう言った彼女は、誤魔化すようにその言葉を吐いた唇を押し付けてきた。
乾いて、ささくれができているそのキスは、なんとなく高校生の初めてのチューを思わさせて可笑しくなる。ちなみに僕の初めてのチューは中学生だったけれど。
「リップとか、塗らない主義?」
「ベタベタするのが嫌なんです。塗ってもいつの間にか舐めとるみたいで」
唇を離した第一声に、ムードもへったくれもない台詞を選んだのは、
「君と、こういうことする関係は望んでいません」
ということを匂わせたかったから。
彼女はその意図を読み取ったのか、わかっていないのか、わかった上で無視したのか。
いつの間にか舐めとってしまうと言った傍から、ペロリと舌で舐め、ついでに唇のささくれを噛んで、薄皮を千切った。じんわりと赤い鮮血が滲む。
「こら、そういうことすると荒れるだろ」
「……唇の皮を捲ったり、爪を噛みすぎたりするのは、自傷行為の一種だそうで」
マスターにフラれたストレスの所為ですよ。
その一言で、彼女は自分の意図を正しく読み取ってくれたのだと理解した。
彼女は、僕のお店に来る常連客の一人だった。こじんまりしたバーのマスターの僕と常連客の彼女。恋を発展させるには、どうしたって打算と損得勘定が混じってしまうと、僕は思う。
「あの、心配しないでください。フラれたからって、来なくなることはないと思います、また来ます」
そう言って、彼女が六杯目で勘定して帰ったあの日、確かきっかけは口内炎だった。彼女が、
「美味しいけど、口内炎にしみるから、今日は炭酸はもうやめときます」
と、二杯目のオーダーの時に言った。
いつも炭酸割りを好む彼女にしては珍しいオーダーだと思って、
「いいの? 炭酸割りじゃなくて?」
などと、僕が聞いて、彼女はそんな僕に
「流石マスター、すっかり私の好みも覚えてくれてるんですね」
と、伏せた瞳からでも伺える輝きと、上気させた頬で、僕に嫌な予感を覚えさせた。
多分、彼女は弱っている。仕事なのか、プライベートなのか。そこまではわからないけど、口内炎ができてしまう程のストレスを抱えて、心の拠り所を探している。
そして、それを僕に求めている。
大変申し訳ないが、勘弁してほしい。客商売だから、そりゃあ愛想よく、なるべく欲している言葉を探して与える努力はしている。
しかし、それは接客の一環な訳で、プライベートにまでその努力が発揮されるかは正直期待しないでほしい。
そして、それを踏まえお付き合いをお断りをされたとしても、変わらず常連客でいてほしい。
そのような打算と損得勘定で、僕はやんわりと彼女の告白を断り、彼女もそれを感じ取ってか、すぐに引きさがってくれた。
元々、彼女は聡い
そんな周りに溶け込もうと必死な彼女は、疲れて、手負いの獣のように抑えが効かなくなった自分自身を解放するために酒に溺れる。その為に、うちに来店するのだ。
それでも、最低でも他人の僕が必ずいて、たまに他の客もいて、そんな場で、気遣い屋の彼女が本性を解放できるわけもなく。
取り繕った笑みを貼り付けて、時折、獣の眼をギラつかせながら程々に酔うのだった。
そんな彼女が、あんな思い切った行動を取ったというのは、僕が想像するよりも相当に追い詰められていたのかもしれない。
ひどいことを、してしまっただろうか。
断るにしたって、後に引き摺らないよう、はっきりと言う方が良かったかもしれない。
やんわりと断った後に
「また来ます」
と言っていた彼女が、顔を出す日はなかなか来なかった。そりゃあ気まずいだろうし、当然と言えば当然だ。
「また来ます」
なんて、ただの社交辞令だったのかもしれない。いや、義理堅い彼女がわざわざ口に出したのだ、果たされないままというのは、多分ないはず、きっとないだろう、恐らく。
「お久しぶりです、マスター」
「……いらっしゃいませ、珍しいですねお連れ様がいらっしゃるのは」
ひと月経つか経たないか、漸く顔を出した彼女は、見知らぬ男を連れてきた。
なんだ、当て付けか。自分をフッた男に、幸せな姿を見せつけにきたのだろうか。
毎週のように顔を出していた彼女が、ひと月姿を現さなかった。その間、僕はその理由を考えた。考え過ぎるくらいに考えた。
例えば、僕にフラれたことで、元々追い詰められていた精神がデッドラインを越え、肉体もろともデッドしたのではないかとか。
例えば、僕のことが嫌いになって顔も見たくないから、二度とここには来ないのではないかとか。
「それは、嫌だな」
ひどいことをしたと自覚しながら、どの想像も嫌だと思う。ネガティブに進む妄想に無理矢理ポジティブを混ぜ込んだ結果。
例えば、僕にはっきりフラれていない所為で、もう少し綺麗になって攻めたら僕を落とせるかもと、心身ともにレベルアップをはかっていて、達成するまで来ないつもりではないか。
などと、本当にお花畑みたいな結論を思い付いた日もあった。そして、約ひと月後に現れた彼女は全然変わっていなかった。良くも、悪くも、変わってなどいなかった。
唯一変わっていたのが、見知らぬ男と二人で来店したということだけだったのだ。
所定の位置であったカウンターではなく、テーブルに座った彼女たちへ、オーダーを聞きに行った時に尋ねてみた。
「口内炎は、治りましたか」
「ええ、もうすっかり」
にっこり笑って答えた彼女の本心など、僕にはわからない。
他の客がいないのに、テーブルに座ってしまわれたら、殆ど言葉は交わせない。仕方なく、仲良く話す二人の会話を聞いていると、二人は会社の同僚で、仕事の打ち上げを二人して抜け出してここへ来たようだった。
「ちょっとお手洗いに」
「奥の左手ですよ」
男がトイレの個室に入ったと同時に、彼女はカウンターに移動して、僕の目の前に座った。
「マスターは、口内炎にならなかったですか?」
「え?」
「
あの日、私口内炎できてたから。
そう、微笑んだ彼女の唇は、ささくれのないコーラルピンク。
「あの人、彼氏?」
その唇が、あの男のために美しく整えられたのかと思うと、無性に腹が立つ。
そんな身勝手な憤りに突き動かされるまま投げ掛けた質問に、彼女は意地悪な表情をして
「フッた女の男関係なんて、ご興味おありですか?」
と言った。
それを言われたら、僕は何も言えなくなる。そもそも、打算と損得勘定でお付き合いをお断りした彼女に、僕は何を言おうとしていた?
自分の取ろうとした言動に絶句する僕に、彼女は苦笑して、
「彼氏じゃありません、まだ」
「……まだ?」
「ええ、まだ」
洗面所の流水音が聞こえて、彼女はテーブルに戻り、帰ってきた「まだ」彼氏ではない男と再び談笑を始めた。
気が気でない僕だったが、どうすることもできず、呆然とカウンター越しに二人を見ていた。そんな僕に気付いていたのか、いなかったのかはわからないが、男の
「そろそろチェックで」
という呼びかけで漸く我に返った。
「ありがとうございました、お気をつけて」
「……また来ます」
あの日と同じ台詞を残して、彼女は男と出ていった。
僕は、唇を噛みしめた。
「痛っ」
噛みしめた唇には、いつの間にか口内炎が。自覚してしまったら、気になって仕方なくなるから、痛くても触らずにいられないのに。
僕は、意識してしまった口内炎と一緒に、ただただ後悔するしかなかった。
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