第25話 王太子は出会いの地を再訪する

多忙な日々は瞬く間に過ぎていき、婚姻の儀がおよそ一月後に迫った頃、アレクシスとニナはバトン領を訪れていた。


婚姻の儀が終われば、ニナは王太子妃としての生活を送ることになり、そうそうバトン領には帰れなくなる。その前に領地に関する諸々の引き継ぎをしたいと、婚姻の準備を詰め込んでなんとか時間を作り、一週間の帰郷が実現したのだ。妃教育も予想以上に順調で、所定の事項が早々に習得済みとなったのも大きかった。

ニナの一時帰郷の希望を聞いたアレクシスも、今度こそ自分も同行する、とニナ以上に仕事を詰め込み、どうにか予定を空けることができた。まだ王都からバトン領への街道は整備中のため、移動にかかる時間が気がかりだったが、妃教育の合間に、一時帰郷を考えている話をニナがフェリシアにしたところ、ヨアンが力を貸してくれることになり、貴重な時間を移動に割かずに済んだのは本当にありがたかった。


『バトン領に視察に来たのは、もう一年以上前なんだな。あの視察がなかったら、今の幸せもなかった。本当に父上に感謝だな』

視察の際に宿泊した部屋と同じ部屋の窓からバトン領を見下ろしながらアレクシスが感慨に耽っていると、部屋のドアがノックされた。

「アレクシス様、お待たせしてすみませんでした」

申し訳なさそうにドアから顔を出したのは、動きやすそうなドレスに身を包んだニナ。ニナは昨晩到着してそのままバトン家に帰り、今日は朝から父と兄相手に領地経営に関する引き継ぎや今後の方針の話などをしてきたのだ。この後は、2人で視察の際にも訪れた商業区に出掛ける約束をしている。


「気にしないで。もともとニナの引き継ぎが目的で来たんだから。――それにしても、ニナ、今日も綺麗だね」

アレクシスはニナの姿を眺めて、眩しそうに微笑んだ。最近のニナには綺麗という言葉がよく似合う。

以前アレクシスがバトン領を訪れた頃のニナは、本人曰く”地味で垢抜けない田舎令嬢”よろしく、自身の見た目にはまったく頓着せず、領地経営のことだけを考えていた。――もっとも、アレクシスにはその真面目さが好ましく、当時のニナも十分可愛くて魅力的だったと思うのだが。

しかし今は、王太子の婚約者という立場を自覚し、実用性だけでなく人から見られることも意識した装いに変わっている。今日も動きやすそうでありながら、色使いもデザインも洗練されたドレスだ。もちろん、選んだのはニナ自身。持ち前の実直さでフェリシアからのアドバイスをみるみる吸収していったニナの装いは、今では王都の貴族令嬢たちからも一目置かれている。


アレクシスに褒められたニナが、恥ずかしそうに頬を染めた。

『こういうところは相変わらずだな。可愛い』

アレクシスは嬉しくなって、ニナを抱きしめる。どくん、とニナの心臓が跳ねたのが伝わってきた。

「アレクシス様?出掛けないのですか?」

躊躇いがちにアレクシスの背中に腕を回しながら、ニナが問いかける。

「出掛けるよ?昨夜からニナが足りていなかったから、しっかりニナを補給したらね」

「補給って…もう…」

まだ腕の中で恥ずかしそうにしているニナの瞳を覗き込みながら、アレクシスは続けた。

「ニナは昨晩、久しぶりの実家でゆっくりできた?」

「はい。やっぱりバトン領の温泉は最高です」

「うん。僕もそう思う。王城にも温泉が引ければいいのに」

「ふふ。温泉は我が領地が誇る観光資源ですから。これからもバトン領の温泉をご贔屓に」

「じゃあ、結婚後も度々来ないとね」

2人はくすくすと笑い合った。



「アレクシス様、これ、とっても美味しいです!」

最近バトン領で人気だというお店のガレットを一口食べたニナが目を輝かせる。

「以前王都でアレクシス様が連れて行ってくださったお店のガレットがとっても美味しかったので、バトン領の食材を使って作ってみたらって提案してあったんです。やっぱり正解でした!今度はあの食材を使ってみるのもいいかも…」

アレクシスは、ニナが一口、また一口とガレットを口に運びながら思案に耽る様子を目を細めて眺めていた。もぐもぐと口を動かす様があまりに愛らしくて、自分のガレットも一切れ、フォークでニナの口元に運ぶ。

「こっちも美味しいよ」

ニナは一瞬躊躇うような素振りを見せて、ちらりとアレクシスを見やる。にこにこしながら自分が口を開けるのを待っているアレクシスの顔を見て、恥ずかしいがせっかく差し出してくれたのだから…、とばかりにぱくりと食べた。差し出された一切れが大きすぎて、ニナの口元にソースがついてしまう。

「――!本当ですね!こっちも美味しいです!」

「ふふ、でしょう?」

アレクシスはニナの口元についたソースを指先で拭うと、ぺろりと舐めた。ニナの顔が瞬時に赤く染まる。

「し…失礼いたしました」


恥ずかしそうにナプキンで口を拭うニナに、アレクシスが詫びた。

「僕が差し出した一切れが大きすぎただけだよ。困ってるところが見たくて、意地悪しちゃった。ごめんね」

わざとだったと知り、ニナが唇を尖らせる。

「アレクシス様は…時々意地悪です」

「うん。ニナを好きになってから気がついたんだけど、僕、好きな子には意地悪したくなるタイプだったみたい。ニナのいろいろな表情が見たくて、ついつい意地悪しちゃうんだ。ごめんね?」

アレクシスにじっと瞳を覗き込まれ、ニナの瞳が揺れる。

「またそうやって私を困らせる…」

「照れてるニナも、困ってるニナも、怒ってるニナも、全部可愛い。もちろん、笑顔のニナが一番可愛いけど」

アレクシスはそっとニナの頬に手を伸ばした。

「そうやって、ずっと僕の隣でいろいろな表情を見せて。ニナがいてくれるから、僕は頑張れる。ニナが大好きなんだ。どうか意地悪な僕も許して欲しい」

ニナはアレクシスの手に自分の手を重ねると、照れたように微笑んだ。

「私も、どんなアレクシス様も大好きです。――ちょっと意地悪なアレクシス様も」

「ニナ…」

胸がいっぱいになり、アレクシスは堪らずニナにキスをした。キスを続けようとするアレクシスの胸を、ニナが慌てて押し返す。

「だっ駄目です!ここ、外です!皆さんが見てます!」

「ああ、そうだった…」


正直、誰に見られても構わないけど…と思いながらもアレクシスが周りを見回すと、護衛の者は皆一様に2人に背を向け目を逸らしてくれていた。さすが、アレクシスの従者たちは優秀だ。

「大丈夫。誰も見てないよ」

にっこり笑って再び顔を近づけたアレクシスを、真っ赤になったニナが潤んだ瞳できゅっと睨む。

「そういう問題じゃありません!――そういうのは…2人きりの時がいいんです…。私だって、周りを気にせずアレクシス様をゆっくり補給したいんですから…」

後半は小声でごにょごにょと言葉を濁しながら、唇を尖らせる。

『ちょっと…僕の婚約者、可愛すぎでしょ…。なんの拷問?』

アレクシスは目を閉じて天を仰ぐ。そのままキスしたい衝動をぐっと堪えた。

「じゃあ、帰ったらお互いたっぷり補給し合おう。約束だからね」

耐えきったアレクシスの言葉に、ニナが恥ずかしそうに、でも嬉しそうに小さく頷く。今夜からはニナもアレクシスと一緒に宿泊施設に泊まる予定だ。

『――あー可愛い。一刻も早く帰りたくなってきた』

アレクシスの心の中では、密かな葛藤が続いていた。


ガレットを食べ終えた2人は、フェリシアのアドバイスにより品揃えも内装も一新したアクセサリーショップを訪れた。以前のどこか垢抜けない印象は欠片もなく、すっきりとシンプルながらバトン領らしいテイストが随所に取り入れられた店内。一番目立つショーケースには、ニナの幼馴染みであるジャンの作品が並んでいる。

「フェリシア様たちのおかげで、売り上げも大変好調だそうです」

ニナの嬉しそうな説明に、アレクシスも店内を見渡して頷いた。

フェリシアとヨアンは最初の訪問以降も度々バトン領を訪れ、ニナとの約束通りこの店へのアドバイスを続けてくれていると報告を受けている。責任感の強いフェリシアらしい行動だが、ヨアンにとっては2人で旅行できるいい口実なのもあるだろう。今ではこの店は、”ルベライトの至宝”がプロデュースした店であり、運がよければその至宝と悪魔の如き美しさを持つ魔王に会える店として、国中で話題になっているそうだ。

『”最恐魔王”がいつの間にか名前を変えていることを知った時は、思わず笑ってしまったけど』

アレクシスはその時のことを思い出して顔を綻ばせた。


「かなり洗練された雰囲気になったよね。それでいて、王都のお店とも違った独特の個性がある。僕の周りでも、バトン領を旅行したご息女がここでアクセサリーを買ってきたっていう話をする貴族が増えたよ」

アレクシスの言葉に、ニナが感動したように胸の前で手を合わせた。

「アレクシス様の周りにもそうした方がいらっしゃるなんて。とっても嬉しいです」

「ニナの努力と熱意の賜物だよ」

「フェリシア様とヨアン様、そしてフェリシア様をご紹介くださったアレクシス様のおかげですわ」

きらきら輝く瞳で嬉しそうに自分を見つめるニナが、アレクシスは愛おしくて仕方なかった。


一通り店内の商品を見て回ったアレクシスは、ニナのためにジャンの新作の首飾りを購入した。創作の原点にニナがいるせいか、ジャンの作品はニナのイメージに合うものが多い。作品を見る度にいつも少し妬けるが、ニナの魅力が認められていることの証明のように感じて、誇らしくもあった。

「さあ、部屋に戻ろう。僕が首飾りを着けてあげるからね」

いつもより少し足早になってしまっているのは目を瞑ってほしい、そう思いながらアレクシスはニナの肩を抱いて馬車に戻った。

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