第16話 純朴令嬢は我が身を案じる〈side:ニナ〉

『殿下と、お出掛けすることになってしまったわ…!』

タウンハウスに戻ったニナは、自室に入るなり膝から崩れ落ちるようにして座り込んだ。

バトン領ではアレクシスと視察で毎日のように一緒に出掛けたが、王都で、しかもプライベートでは初めてだ。市場調査のためとはいえ、変装したアレクシスと王都を歩くなんて、想像しただけで緊張する。


『殿下からお誘いいただいたのはありがたいけれど、お忍びで市井に下りるなんて、大丈夫かしら。お返事したのはちょっと早計だったかも…』

しかし、市場調査も王都に勉強に来た目的のひとつだ。せっかくアレクシスが気に掛けて誘ってくれたというのに、断るのはもったいない。それに、緊張だけではない、微かな胸の昂ぶりも感じていた。ニナはそれを行きたかった市場調査に行けるからだと感じているようだが、薔薇色に染まった頬と夢見るように潤んだ瞳は、高揚している理由が別にあることを物語っていた。


『覚悟を決めて、しっかりと勉強させていただこう』

自分の中に芽生えている感情に未だ気づかないまま、ニナは決意をして立ち上がった。

着替えようとクローゼットを開ける。目の前に並んでいるのは、部屋着と仕事用の地味でシンプルなドレスが数着、もしもの時の夜会用のドレスが1着、そして先日アレクシスから贈られた夜用のドレスのみだ。ニナは大変なことに気づきはっとする。

『何を着ていくのが正解なの!?私、殿下と街歩きできるような服、まったく持っていないわ!』

これまで忙しさを理由に服装に頓着してこなかった自分を悔やむことしかできない。ニナは頭を抱え、再びその場にしゃがみこんだ。


翌朝ニナが登城すると、政務室に向かう廊下でアレクシスが待ち構えていた。

「おはよう、ニナ嬢。始業前にちょっとだけいいかな?」

ニナは面食らいながらも、慌ててお辞儀をし挨拶する。

「おはようございます、殿下。何かございましたでしょうか?」

『やっぱり昨夜の約束はなしにしてほしいっておっしゃるのかしら…』

そう考えるとつきん、と胸が痛んだ。一緒に出掛けなければ緊張しなくてすむはずなのに。ニナは自分のうらはらな感情に首を捻る。

そんなニナの戸惑いを払拭するように、いつも以上に眩しい笑顔を浮かべたアレクシスがニナの手を取った。

「いいから、ついてきて」


アレクシスに連れられて入った部屋には、昼用のドレスが用意されていた。貴族の令嬢の街歩きを意識したかのように、靴や帽子も一緒にトータルコーディネートされている。ダークトーンをベースに所々パステルカラーを効かせたコーディネートは、落ち着いているのに洒落ていて、流行の店を見て回るのにはぴったりに見えた。ニナ一人ではとてもこんなコーディネートはできないだろう。

「今度の休日は、これを着て僕と出掛けてほしいんだ。勝手ながら、僕がニナ嬢に着てほしいドレスを選ばせてもらったよ。フェリシアにもアドバイスをもらったから、おかしなコーディネートではないと思うんだ」

「えっ?殿下がご準備くださったのですか?」

アレクシスに誘われたのは昨夜のことだ。誘ってくれた段階で、ドレスのことも考えてくれていたのだろうか。

『それに、フェリシア様もわざわざ登城してくださったのかしら?国境近くの森からは、馬車で一刻以上かかると聞いたけど…』

ニナの疑問を悟ったかのように、アレクシスが言った。

「実は、少し前に叔父上が自分の城と王城をすぐに行き来できるように、王城の一室に転移魔法用の魔法陣を刻んだんだよ。国王陛下からの命でね。僕はそんな魔法使えないからよくわからないけど、一度行って魔法陣を刻んだ場所同士なら、どこにでも転移できるらしい。まあ、もちろん叔父上が一緒じゃなきゃ無理だけどね。先日の晩餐も、そうやって叔父上たちはここに来たんだよ。だから、昨夜もニナ嬢と市井に行く約束をしてすぐ、叔父上に使いを送ってフェリシアを連れてきてもらったんだ」


ヨアンの圧倒的な魔力の話はこの間の晩餐の際に聞いていたが、そんなことまでできるとは。魔力すら持たないニナは驚きを隠しきれなかった。しかしそれ以上に驚いたのは、そうまでしてアレクシスが自分のためにまたドレスを用意してくれたことだ。

『確かに、着ていくドレスがなくて困ってはいたけれど…。しかも、用意するにしてもどんなドレスを選ぶべきかわからなかったけれど…』

だからといって、こんなに頻繁に王太子からドレスを贈ってもらっていいはずがない。


「この間の晩餐の際にも素晴らしいドレスをいただきましたのに、またこのように素敵なドレス…。これはいただけません」

戸惑うニナの顔を、アレクシスが例の悪戯っぽい笑顔で覗き込む。

「ニナ嬢が着てくれないなら、このドレスは無駄になっちゃうんだけどな。ニナ嬢の身長に合わせてあるから、他の人じゃ着れないし。あーあ、もったいないなぁ」

確かに、小柄なニナに合わせたドレスでは、なかなか合う人はいないだろう。ますます困った表情になったニナに、アレクシスが顔を寄せた。

「ニナ嬢のために用意したんだ。市井に誘ったのは僕なんだから、ちゃんとこれを着て」

『殿下、とってもお優しいのにこういうところは押しが強い…』


王太子にそこまで言われたら、もう素直にお礼を言って受け取るしかない。

「ご配慮くださりありがとうございます」

ニナがお辞儀をすると、アレクシスは満足気な微笑みを浮かべた。すっとニナの手を取り、腰を折ってその手にキスを落とす。

「強引でごめん。でも、どうしてもニナ嬢に着てほしくて。絶対に似合うと思う。今度の休日、楽しみにしてるから」

万物を魅了しそうな色気を纏ったアレクシスの上目遣いに、ニナはあっという間に耳まで熱くなった。

『キキキ、キス!された!?』

触れられている手が小刻みに震える。心臓が耳から飛び出るのではと思うほど、鼓動の音がうるさい。


「ニナ嬢?」

返事ができずにいるニナに、再度アレクシスの秀麗な顔が近づいた。至近距離できらきらと輝く蒼玉の瞳に見つめられ、息が止まりそうになる。

『き、急にこんなの、どうしたらいいの!?何が起こっているの!?殿下、いつもと違う!』

顔から火を噴くとはこのことだろう。首から上が火照りすぎてくらくらする。

「はっ、あのっ、よ、よろしくお願いいたします!」

なんとか返事をすると、ニナは俯いてしまった。とてもではないが、これ以上アレクシスの顔を見ていられない。おそらく、いや、絶対に心臓が耐えられない。


アレクシスは嬉しそうにニナの返事に頷くと、真っ赤になって俯いたままのニナを見つめて微笑んだ。

「ありがとう。これで次の休日まで頑張れそうだよ」

そのまま手を引いて、政務室の前までニナを送ったアレクシスは、扉の間でもう一度ぎゅっとニナの両手を握る。

「それじゃあニナ嬢、今日も一日頑張ってね」

「はい…」

おずおずと顔を上げニナが頷いたのを見届けると、アレクシスは大きく頷いて笑顔を咲かせた。周囲まで輝いて見えるほどの眩い大輪の花。


手を振り去って行くアレクシスを見送ると、かくんと膝の力が抜けてニナは壁にもたれかかった。

『市場調査の間…私の心臓は持つかしら…』

鼓動が速いままの胸を押さえ、ニナは大きく深呼吸を繰り返した。

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