第15話 王太子は一歩を踏み出す

アレクシスとフェリシアの後押しもあり、バトン領を夫婦で訪問してもらうことへのヨアンの説得に無事成功したニナは、嬉しそうににこにこしながらフェリシアと話をしている。晩餐前、支度をしている間に2人は随分打ち解けていたようだ。

小柄なニナがティールームのゆったりしたソファにちょこんと座っている様子は、子猫のようで可愛らしい。

『ニナ嬢にとっても有意義な夜になったようでよかった』

2人を優しい面差しで見守るアレクシスの隣に、ヨアンがやってきて座った。


「憑き物が落ちたような顔をしているな」

「──憑き物?」

ヨアンがこくりと頷く。

「再会してからのお前は、笑顔だったがずっと思いつめたような顔をしていた。俺が言えた義理じゃないが…心配していた」

ヨアンが11歳で城を出て以降、アレクシスとヨアンは久しく会うこともなかった。再会したのは、およそ1年前。フェリシアを陥れた犯人を捕らえるため、協力した時だ。

アレクシスは、フェリシアが毒を盛られた時、隣にいながら暗殺未遂を止められなかった自分を責め続け、自分には幸せになる資格はないと思っていた。愛する人を邪悪な者たちの手から守れなかったばかりか、目の前で愛する人が生死の境を彷徨い黄泉へと渡りかけているというのに、為す術がなかった自分の無力さに打ちひしがれて日々を過ごしてきたのだ。立場上笑顔を見せていても、心から笑うことなどなくなっていた。


「お前からフェリシアを奪ってしまったことに対して、申し訳ないと思っていた。もちろん、それでも絶対フェリシアは譲れないが。──だから、お前の今の顔を見て、少し安心した。それはきっと、フェリシアも同じだ」

ヨアンももちろん、アレクシスがずっとフェリシアを思ってきたことを知っている。そしてフェリシアも、アレクシスが思いを告げた時、応えられなかったことに随分苦しんだに違いない。そんな2人だからこそ、アレクシスの幸せを心から願ってくれているのだろう。

「お前も前に進み始めたんだな。ニナ嬢のおかげなんだろう?」

『色恋に疎そうな叔父上にも悟られるくらい、僕の気持ちはわかりやすくニナ嬢に向いているんだな。それなら当然、フェリシアにも、父上にも悟られているんだろうな』

アレクシスはふう、と小さくため息をつく。それほどまでにわかりやすく気持ちはニナに向かっているというのに、まだどこかで迷っている自分がいた。


「僕は…前に進んでもいいのでしょうか。あんなに好きだったフェリシアへの思いを捨てて。――あれほど大切に思っていた人を守れなかったくせに」

ヨアンの涼やかな目が一瞬驚いたように見開かれた後、みるみる表情が険しくなる。紅玉の瞳に、怒りとアレクシスへの情が綯い交ぜになった感情が滲む。

「当たり前だろう。俺もフェリシアも、国王陛下も、皆がお前の幸せを願っている。過去に囚われているのはお前だけだ。もう自分を解放してやれ」

心底アレクシスを案じているのが、その声色からも伝わった。


『解放…』

その言葉を聞いた瞬間、アレクシスの心を縛っていた枷が外れた気がした。フェリシアへの恋に破れた後も、知らぬうちに心を縛っていた自分に気づく。二度と恋などできないのではなく、愛する人を幸せにできなかったくせに、その事実に目を背けて新しい恋をする自分が許せなかったのだ。人生を掛けて一人の女性を愛し抜きたいと思っていた過去の自分を裏切るようで、後ろめたいと思う気持ちもあった。

『ちっぽけでくだらないプライドだな。自分をどれだけ崇高な人物だと思ってるんだよ。失った恋に縋りついて、もう二度と恋などできないなんて。自分の悲劇に酔っていたのか?』

プライドと後悔で雁字搦めだったアレクシスの心が溶かされていく。思えば、フェリシアとの婚約が解消された時に、アレクシスの初恋は終わっていたのだ。フェリシアを襲った犯人を追っていた2年間は、贖罪の念に縛られて初恋の幻から覚めることすらできなかった。


「過去の自分に後悔しているのなら、今度は同じ間違いをするなよ。せっかく大切な気持ちに気づいたんだ。そういう気持ちを抱かせてくれる相手に出会えることが、どれほど奇跡的なことなのか、お前ならわかるだろう?自分の幸せのために一歩踏み出せ。お前が幸せでなければ、相手のことを幸せになどできない。──同じように散々悩んで、やっと踏み出したことで心から望むものを手に入れた先達の言葉だ。ありがたく受け取っておけ」

ヨアンが艶麗な笑みを浮かべて、アレクシスの肩を拳で軽く叩いた。自分の叔父ながら、惚れ惚れするような美しさだ。

「最恐魔王なんて呼ばれてたくせに、随分人間らしいことを言うようになりましたね」

アレクシスも笑って、ヨアンの肩を拳で打ち返した。


翌日、アレクシスはニナの終業を廊下で待っていた。

政務室から出てきたニナは、アレクシスの姿を目にした瞬間、大きな目をさらに大きく見開いて、それからすぐに青くなった。

「もしかして、やっぱり昨夜の晩餐で私は何か粗相をしてしまっていたのでしょうか…?」

そんなニナの反応にアレクシスは吹き出しそうになりながらも、首を振って否定する。

「違うよ。国王陛下は大変喜んでいらしたから大丈夫。また是非話をしたいっておっしゃってたよ。今日は僕がニナ嬢と話をしたかったから待ってただけ。タウンハウスまで送るよ」

アレクシスはすっとエスコートの手を伸ばし、ニナが手を取るのを待つ。ニナは躊躇いながらも、そっとアレクシスの手を取った。恥ずかしいが、王太子の手を取らないなどという無礼はできない、という気持ちが表情から見て取れて、アレクシスは内心苦笑いする。

『これは、かなり頑張らないといけなそうだ』


これまで自分ですら、ニナへの気持ちに気づかず何の行動も起こしてこなかったのだから仕方ない。それでも昨夜のヨアンの言葉は、アレクシスを動かすには十分だった。以前は積極的に思いを伝える努力をしなかったせいで死ぬほど後悔したのだ。それなら今度は、やるだけのことはやってみたい。同じく恋に破れる結果になっても、きっと心情は驚くほど違うだろう。

「ニナ嬢、今度の休日、何か予定はある?」

ニナが王城に出仕するようになって一月以上が過ぎたが、休日に出かけたという話は聞いていない。

「いえ…。王都には詳しくないものですから、休日はいつも読書をして過ごしております」

「それなら、僕と一緒に出掛けない?王都を案内するよ。お店や流行のリサーチも、王都に勉強に来た目的のひとつだよね?」

「えっ!殿下がご案内くださるのですか?とてもお忙しくていらっしゃるのに…。それに、殿下が市井に下りても大丈夫なのでしょうか?」

ニナが戸惑いの表情を浮かべた。

「僕だってたまには市井に下りるよ。忙しいからこそ、息抜きは必要だしね。ただ、このままだと目立ち過ぎちゃうから、いつも髪色の違うウィッグを被って騎士みたいな服装をするけどね」


魔王と呼ばれるほど魔力の強いヨアンは自分で髪や瞳の色が変えられるうえに、変化へんげまでしてみせるが、アレクシスをはじめ他の王族にそんなことはできない。常人と同じように、ウィッグや服装で変装して印象を変えるくらいだが、それでもこれまで、そうやって市井に下りて気づかれたことはない。王太子が市井に下りているとは、皆想像もしていないからだろう。

ニナは考え込んでいたが、やはり市場調査をしたい欲には勝てなかったようだ。こくりと頷いた。

「それでは是非、お願いいたします」


読み通りの展開に、アレクシスは満面の笑みを浮かべた。ニナはバトン領の経営絡みなら断らないと思っていたのだ。

『ずるくてもなんでも、使える手段は使おう。ニナ嬢のためになりながら一緒にいられるなら、こんなにいいことはないし』

休日にタウンハウスまで迎えに行く約束を取りつけ、ニナを送り届けたアレクシスはまた王城に戻った。すぐに執務室に向かい、ヨアンへの手紙を認める。


フェリシアとの結婚を機に国王と定期的に連絡を取るようになったヨアンは、常に王城に自分の使い魔のカラスを待機させている。アレクシスはカラスにヨアンへの手紙を託し、飛び立つその姿を見送った。

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