第17話 王太子は心の声に従う

ニナと約束した休日の朝。

アレクシスはダークブラウンのウィッグを被り、騎士風の衣装に身を包んで、バトン家のタウンハウスに向かっていた。ダークブラウンはルベライト国民に一番多い髪の色。街中に溶け込みやすく、たまに市井に下りる際にはいつもこのウィッグを使っていた。美しい蒼玉の瞳も、長めの前髪からちらりとのぞく程度。余程注目されない限り、王太子だとは気づかれないだろう。

馬車もいつもの王家の紋章の入ったものではなく、一般的な貴族が使うタイプのものを用意した。これなら今日のアレクシスは貴族階級の騎士に見えるはずだ。それでも、人並み以上に整った容姿であることは隠しようもないのだが。

『今日はニナ嬢にとって、有意義な一日にしてあげたいな。バトン領のためだけでなく、ニナ嬢自身も楽しめる一日になるといいんだけど』

窓に映る自分の表情に、期待と少しの緊張を見て取ったアレクシスは、しばらく忘れていた感情が隠しきれない自分が少しおかしかった。


バトン家のタウンハウスに着くと、すぐにニナが玄関前に現れた。アレクシスを待たせないように、外の様子に気を配っていたのだろう。

馬車から降りてきたアレクシスを見て、ニナは少しだけ目を見開いた。いつもの王太子然としたアレクシスとは違う姿に、わかっていたとはいえ驚きを隠しきれなかったようだ。


「おはようございます、殿下。本日はお誘いいただきましてありがとうございます」

ニナはいつもと違うアレクシスに少し緊張した様子を見せながらも、アレクシスが贈ったドレスのスカートをつまみ、お辞儀をする。ニナの所作は、小柄な体系も相まってか、いつもどこか可愛らしい。

「おはよう、ニナ嬢。ドレス、よく似合っているね。とても綺麗だ」

自分が選んだドレスをニナが来てくれていることが嬉しくて仕方ない。思った通り、ドレスはニナの魅力をふんだんに引き出していて、アレクシスは心から賛辞を述べた。

「は…、あの、ありがとうございます」

嬉しそうに目を細めたアレクシスに見つめられ、ニナが頬を染めて俯く。アレクシスはその手をそっと取ると、馬車へとエスコートした。


「今日は僕のことを、アルって呼んでね。今日の僕は騎士だからね」

走り出した馬車の中でアレクシスがにっこりと微笑んで言うと、ニナは大きな瞳をパチパチと瞬かせた。

「ア…アル様…ですか?」

「そう。殿下じゃ、変装の意味がないでしょう?」

「そ…そうですよね…。間違えてお呼びしないように、注意いたします…」

微かに震える指先と声から、戸惑いが伝わってくる。その様子が愛おしくて、アレクシスは思わずニナの手を握りしめた。ニナの肩がぴくりと震え、みるみるうちに小さな耳まで紅潮していく。明らかに困ってはいるが、そこに嫌悪は感じられないことに安堵する。

『困ったな。ニナ嬢への気持ちを認識してからは、どうも気持ちに歯止めが効かないや。でも、今度こそ後悔しないって決めたんだから、僕の気持ちは全部そのまま伝えたい』


アレクシスは握った手を自分の方に引き寄せると、その指先にキスを落としながら言った。

「今日の僕たちは、騎士とその婚約者。その設定でよろしくね」

「こ、婚約者!?ですか!?」

キスにも婚約者という設定にも動揺しながら、ニナが飛び上がるようにして聞き返す。

「そう。婚約者なら、貴族の令嬢が男性と2人で歩いていても問題ないでしょう?ニナ嬢はどこから見ても貴族の令嬢だしね。大丈夫。ニナ嬢はこれまでほとんど社交界に顔を出してこなかったようだから、ニナ嬢がバトン辺境伯令嬢だと知る人に会う確率は限りなく低いだろうし、バトン辺境伯令嬢に婚約者がいるっていう噂が立つこともないはずだよ」

『我ながらかなり強引だな。でも、少しでもニナ嬢に異性として意識してもらうためには、なりふり構っていられない。ごめんね、ニナ嬢』

心の中でそっとニナに詫びながらも、自分のあまりの余裕のなさに笑えてくる。


ニナは湯気が上がりそうなほど真っ赤になって俯き、考え込んでいたが、きゅっと唇を結んで顔を上げた。

「でん…、アル様、私の市場調査のために、そこまで考えてくださってありがとうございます!私、今日一日を、アル様の時間を無駄にすることがないように、しっかり調査させていただきますね!」

『うん…まだまだ努力が必要そうだ』

自分の気持ちがちっとも伝わっていないことを理解したアレクシスは、苦笑いするしかなかった。恋愛ごとに疎いニナには、婉曲した感情表現では伝わらないのかもしれない。

『焦っても仕方ない。まだ今日は始まったばかりだ。一日かけて、距離を縮めよう』

アレクシスはニナの手を握ったまま、決意を新たにした。


そうこうしているうちに、馬車は目当ての店の一軒目に到着した。

「さあニナ。ここだよ」

先に馬車を降りてニナをエスコートする。婚約者らしく名前を読んでみせると、ニナが両手で顔を覆った。首元まで赤くなっているのが見える。ニナはそのまま数回深呼吸をすると、ぐっと顔を上げてアレクシスの手を取った。スイッチを切り替えたようだ。

「はい、ありがとうございます、アル様」

まだ頬は薔薇色に染まったままだが、それが逆に初々しい婚約者カップルらしさを醸し出している。

あまりの愛らしさに、アレクシスは思わずニナの腰に手を回して自分の方に引き寄せた。腰に触れた瞬間、ニナが身体をびくりと震わせる。――華奢な腰。緊張で手に力が入りすぎてしまわないか心配になる。考えるより先に、感情で身体が行動を起こしてしまうなんて。アレクシス自身、自分の感情が制御できなかったことに驚き、やっとのことで平静を装う。


「今日の僕たちは婚約者だから。だけど、嫌ならちゃんと言って」

慌ててニナの耳元で小声で言い訳をすると、ニナは目を閉じてもう一度深呼吸をした。少しの沈黙の後、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと頷き、そっと顔を上げた。

「いえ…嫌じゃ…ないです…。今日は婚約者…ですものね」

嫌じゃない、の言葉に、アレクシスは心底安堵する。それとともに、じわじわと喜びが込み上げてきた。

『よかった…。拒絶されたら、今日一日落ち込んだままになりそうだった…』

「それじゃあ、行こうか」

アレクシスのエスコートで、2人は店の中へと入った。

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