第11話 王太子は困惑する
バトン領と王都を結ぶ街道沿いの宿場町をいくつか視察しながら、アレクシスは数日かけて王城に戻った。
バトン領を出ると、途端に平民たちの暮らしぶりの貧しさが目についた。いかにバトン領が平民の暮らしに寄り添い、その暮らしぶりを向上させるために尽力してきたかが顕著に表れたその様子に、アレクシスは他領も早急な改革が必要だと痛感させられた。
『王都からの街道は、すぐに整備に着手するべきだろうな。物流や人の流れを円滑にしなければならない。それから、バトン領でニナ嬢が行っていた改革を参考に、他領の領主たちに改善命令を出さなければ…。海に近い領地に比べ、山間部の領地は貧しいという話は聞いていたが、これほど生活水準に隔たりがあるとは…。本当に、王都にいては見えないことばかりだった』
アレクシスは道すがら考えていたことを一刻も早く伝えたい思いから、到着したその足で国王の下を訪れた。
「アレクシス、無事に戻り何よりだ。視察はどうだった?」
国王の問いに、アレクシスは視察の内容をかいつまんで報告していく。子細は後日報告書を提出することになっているが、取り急ぎ迅速に対応すべき点を国王に伝えた。
国王は問題点に頷きながら、バトン領の特色ある領地経営と、それを率いていたニナの話に興味深そうに耳を傾けた。時折感心したように声を漏らし、斬新なアイデアに目を見張る。最後に、ニナを王城に出仕させ勉強させるという報告をすると、国王が少し驚いた顔をした。
「アレクシスがそこまでするとは、余程ニナ嬢の手腕は鮮やかだったとみえる。登城した際には、是非私も会ってみたい」
「はい、国王陛下にもご紹介させていただきたく思います。彼女の知識は素晴らしいです。きっと陛下にとっても興味深い話が聞けるはずです」
国王は微笑みながら答えるアレクシスを、目を細めて見つめた。
「やはり、アレクシスにバトン領の視察を任せて正解だったようだ。いい顔になったな。魔力も戻っているようだし」
心から安堵したようなその表情と声は、国王としてのものではなく、父としてのもの。アレクシスも王太子としてではなく、息子としての顔で頷いた。
「はい。長い間ご心配をおかけしました。バトン領で心身ともに癒されたようです。有意義な時間をいただいて、やっと前を向けました。今は、すぐにでも仕事に取り掛かりたい気分です。成し遂げたい事業もたくさん出てきました」
きらきらと瞳を輝かせて答えるアレクシスの言葉に、国王も優しく微笑んだ。
「アレクシス、期待しているぞ」
「はい!」
国王との謁見を終え、アレクシスは入浴で旅の疲れを癒やした。王城の広い浴室で、大きな浴槽に浸かり足を延ばす。バトン領の温泉宿泊施設のスイートルームについていた半露天の浴槽も、王城ほどではないがかなり広めに、ゆったりと作られていたことを思い返す。アレクシスは利用しなかったが、あの宿泊施設には大浴場もあり、そちらはかなりの広さがあって、多くの利用者が出入りしているのを目にした。
『やっぱり、バトン領の温泉は違ったな。もっとお湯が柔らかくて、身体の芯から温まるような心地がした』
お湯をすくい、ぱしゃりと顔を濡らす。王城に帰ってきたばかりなのに、もうバトン領が恋しく思える。濡れた髪をかきあげ窓の外に目をやると、空には月が輝き始めていた。
『街道を整備すれば、王都からバトン領までの旅程もかなり短縮できるだろう。そうすれば王都騎士団の湯治はもちろん、王都や他の領地に住む者たちも湯治や観光に行きやすくなるはずだ』
ルベライト王国には、バトン領で温泉が発見される以前から温泉がないわけではなかったが、数えるほどしかなく、どれも偶然発見されたごく小規模なものばかりだった。地元民のみが知る秘湯のようなもので、バトン領のように観光や湯治を目的として訪れることができるようなものではない。実際、アレクシスも今回の視察が初めての温泉体験だった。まして、温泉をエネルギーとして利用するなど、誰も考えてはいなかっただろう。
『つくづくニナ嬢の手腕には脱帽だな。バトン領は、この国の地方の常識を変える』
アレクシスは大きく伸びをすると、お湯から上がった。
ニナが登城したのは、アレクシスが王都に戻ってから約二月後のことだった。
その間、数回やり取りした手紙によれば、ニナは自分が行っていた執務の引き継ぎや、不在にする1年間の経営方針の指示、王都での生活に備えての準備などに忙しかったようだ。
手紙をやり取りしながら、アレクシスはニナが王都に来る日を心待ちにする自分がいることに気づいた。バトン領での一月は、アレクシスにとって失った心を取り戻す大事な時間だった。
『早くまた、ニナ嬢と話がしたい。彼女は僕の恩人のようなものだ』
逸る気持ちを抑え、執務の合間を縫ってアレクシスが出迎えると、ニナはひたすら恐縮した様子でお辞儀をした。久しぶりにニナの姿を目にしたアレクシスの顔が、自然とほころぶ。
「殿下、この度は本当にありがとうございます。1年間、よろしくお願いいたします」
「よく来たね、ニナ嬢。こちらこそ、よろしく。バトン家のタウンハウスから通いで出仕してもらうと聞いているけど、それでいいかな?」
「はい。早速明日から出仕させていただきます」
「じゃあ、今日はニナ嬢に働いてもらう政務室を案内しよう。経済政策担当の政務官たちを補佐してもらおうと思っているから、よろしくね。──ああ、それと、近いうちに晩餐に招待してもいいかな?国王陛下もニナ嬢に会いたいとおっしゃっていてね」
「こ、国王陛下と晩餐を!?」
「かしこまったものじゃないから、そんなに緊張しなくていいよ」
「き、緊張するなという方が難しいです…」
狼狽するニナを見て、アレクシスはくすりと笑った。
『本当に小動物みたいだな。なんだか可愛らしい』
ニナはアレクシスの周りに群がる女性とは違う。どうしてこんなに会いたかったんだろう。ニナに対して抱く感情の正体がわからなくて、アレクシスは少し不思議な気分だった。
ニナを案内するため政務室のひとつに入ると、政務官たちが一斉に立ち上がりアレクシスに向かって敬礼をした。
「仕事中にごめんね。明日から補佐に入ってもらうバトン領のニナ嬢だ。みんな、よろしくね」
アレクシスは斜め後ろに立つニナを紹介する。政務官たちには、新しく女性の補佐が来ることは伝えてあったが、ニナが思いのほか幼く見えたのだろう、皆少し驚いたような表情を浮かべた。しかし、すぐに表情を引き締める。
「はい、承知いたしました!ニナ嬢、よろしく」
政務官たちに挨拶をされ、ニナもきゅっと表情を引き締めて深々と頭を下げる。
「ニナ・フォン・バトンにございます。至らぬ点も多々あるかと存じますが、何卒よろしくお願いいたします」
小声ながらしっかりと挨拶をする。どうやらスイッチが入ったようだ。
『幼い頃から見知った領地の面々との仕事とは違うから、人見知りらしいニナ嬢は大丈夫だろうかと心配していたけど、仕事のスイッチが入るなら問題なさそうだ』
知らない男性たちに囲まれてニナがやっていけるか案じていたアレクシスも、ほっと胸を撫で下ろした。
「彼らが、経済政策に関わっている面々だ。ニナ嬢には彼らの補佐についてもらう。今は席を外しているようだけど、もう1人いる補佐も地方から勉強を兼ねて出仕している者だよ。歳もニナ嬢と同じくらいだったかな。きっと話も合うと思うよ」
「はい。ご配慮ありがとうございます、殿下」
紹介を終えて政務室を後にすると、アレクシスはニナが関わりそうな城内の各所を案内した。
「ここが僕の執務室。政策案を持ってきてもらうこともあると思うから、覚えておいて」
「はい」
ニナはひとつひとつ熱心にメモを取りながらアレクシスの案内を聞いている。その真剣な様子も好ましかった。
2人が廊下の角を曲がった時、反対から小走りでやってきた誰かとぶつかりそうになった。
「た、大変申し訳ございません、殿下!」
たくさんの書類を抱え、平謝りしている人物の顔を見たアレクシスは、微笑んで首を振る。
「大丈夫だよ。忙しそうだね、ダニエル。こちらは明日から君と同じく政務官補佐に入るニナ嬢だよ。いろいろ教えてあげてね」
ダニエルと呼ばれた青年は、アレクシスの言葉に目を輝かせた。
「明日から!助かります!ダニエル・レ・フォイエです!ニナ嬢、是非よろしくお願いします!この通り、補佐はかなり多忙ではあるのですが…」
「ニナ嬢、ダニエルがさっき言ったもう一人の補佐だよ。出仕して2年目だったかな?名前からもわかる通り、フォイエ領主トレボール・レ・フォイエ侯爵の子息だ」
フォイエ領は、海沿いの比較的豊かな領地だ。王国内で2番目に大きな港がある。
「ニナ・フォン・バトンにございます。バトン辺境伯ブルーノ・フォン・バトンの娘です。こちらこそ、ご指導よろしくお願いいたします」
ニナが緊張した面持ちで丁寧にお辞儀をすると、ダニエルはなつっこい笑顔をニナに向けた。海沿いの領地育ちに多い、やや日に焼けた肌。素朴で親しみやすそうな雰囲気が滲み出ている。
「僕は次男なので、兄の補佐ができるように勉強をさせていただいてます。政務官補佐はなかなかきつい仕事で、入れ替わりが激しくてね…。大変かもしれないけど、一緒に頑張ろう」
「はい!よろしくお願いいたします!」
ダニエルはアレクシスに敬礼をすると、また小走りで去って行った。
「政務官補佐、経済の勉強をするにはいいかな、と思ったんだけど、だいぶ大変そうだね…。ニナ嬢、大丈夫かな?」
ダニエルの背中を見送りながら、アレクシスが心配気にニナを見やると、ニナはすっと胸を張って答えた。
「私には1年しかありません。短い期間にたくさんの経験が積めるのは、願ってもないことです。それに、幼い頃からあの父の下で育ってまいりましたから、体力には自信があります」
小さい身体ながら、武術で名を馳せるブルーノに鍛錬を受けていたのなら、確かに体力はあるのかもしれない。だが、やはり男性と女性では元々の体力が違う。
「体力に自信があるといっても、あまり無理はしちゃだめだよ。身体を壊したら元も子もない。限られた時間を最も有効に使うためにも、健康には一番に留意してね」
アレクシスの言葉に、ニナもはっとした表情になった。
「殿下のおっしゃる通りですね。体調管理にも十分に留意いたします」
「うん、約束だよ。僕がニナ嬢の出仕を提案したんだから、君に何かあったらバトン辺境伯に顔向けできないからね」
アレクシスに優美な笑顔を向けられたニナが、眩しそうに目を伏せる。
「──はい。お気遣い、感謝いたします」
消え入りそうな声で答えるニナ。
相変わらず、仕事や領地の話以外では目を合わせるのが苦手らしいニナの様子を見て、アレクシスは以前も感じた胸の閊えを再び覚えた。
『僕にももう少し慣れてくれたらいいんだけどな。ニナ嬢の笑顔が見たい』
そう思ってから、ふと気づく。
『そうか、僕はニナ嬢の笑顔が見たいんだ。フェリシア以外の女性の笑顔が見たいと思ったことなんて、これまで一度もなかったのに。どうしてニナ嬢にはそんな気持ちになったんだろう』
アレクシスは自分の中に燻る思いに、1人困惑した。
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