第12話 純朴令嬢は陽炎姫に出会う〈side:ニナ〉

ニナが王城に出仕するようになってからおよそ一月。

覚悟はしていたものの、政務官補佐の仕事は目の回るような忙しさで、ニナは毎日くたくたになってタウンハウスに戻り、軽い食事を取ってすぐに眠るという生活を送っていた。それでも、新しい刺激や知識がいっぱいの毎日に、気持ちは充実している。


『ああ、バトン領の温泉にゆっくり浸かりたい』

タウンハウスのバスタブに浸かり首を回しながら、ニナは故郷の温泉に思いを馳せた。

『やっぱり温泉の魅力を王都の皆さんにももっと知ってもらいたいな。何か方法があればいいのに』

ニナはお湯をすくい上げて、じっと見つめる。バトン領の温泉のとろりと柔らかな肌当たりとは違う、ニナにとってはさっぱりし過ぎなお湯。

『成分が違うのだから仕方ないけれど…。あの温泉の成分を分析して抽出できたら、普通のお湯にそれを加えて温泉に近くできないかしら…』

考え込みながら、目を閉じてバスタブの縁に首を預けた。


湯から上がり、バトン領からボトルに入れて持ってきた温泉水を顔に染み込ませる。しっとりと肌が潤い、頬がつやつやと輝く。ニナの美しい肌は、バトン領の温泉水で保たれていた。同様のボトルを何本も持ってきた他、香水用のアトマイザーにも温泉水を入れ、持ち歩いて肌が乾燥した時にも吹きかけている。元々肌が弱いニナには、香料や刺激の強い成分の入った化粧水が合わないのだ。

『さて、明日も忙しい一日になるわ。早く寝なくちゃ』

ベッドに入ると、あっという間に眠りに落ちた。


「ニナ嬢、おはよう。突然で申し訳ないんだけど、今夜何か予定はあるかな?」

翌朝、登城するなりニナはアレクシスに呼び止められた。慌ててお辞儀をして答える。

「おはようございます、殿下。今夜は何も予定はございませんが…」

それを聞いて、アレクシスはぱあっと輝きを放つような笑みを浮かべた。あまりの眩さに、ニナは目を伏せる。

『相変わらず、神々しいわ…』

アレクシスはニナが政務官補佐として働き始めてからも、自分の仕事の合間を縫ってニナの様子を見に来てくれていた。自分がニナを出仕させたのだから、何かあってはいけないと気にしてくれているのだろう。顔を合わす機会が増え、少しずつアレクシスとも目を合わせて仕事以外の話ができるようになってきてはいたが、こうした常人離れした美貌には相変わらず引け目しか感じない。


「よかった。もし空いているなら、国王陛下が晩餐を一緒にとおっしゃっているんだ」

「えっ!今夜ですか!?」

『国王陛下と晩餐って、以前おっしゃっていたのは本当の話だったの!?しかも今夜なんて、急すぎてどうしたらいいのかわからないわ。こんな服装だし…。ど、どうしましょう…』

よもや国王と晩餐を供にすることになろうとは思ってもいなかったニナの服装は、いつも通りの実用性を最優先させた動きやすいシンプルなドレスだ。王都に行ったらそれでも少しは流行を取り入れたものを買いそろえるつもりではあったのだが、多忙故にそんな気力が起きないまま日々が過ぎてしまっていた。


焦り過ぎて蒼白になったニナを、アレクシスが心配そうに見つめる。

「急だし、緊張してしまうだろうけれど、もちろん僕も一緒だし、他にも僕の叔父夫婦が来るから、大丈夫だよ。気軽な食事会だと思ってもらえれば」

『えええ!?殿下の叔父上様ということは、国王陛下の異母弟のドゥメルク公爵閣下よね!?半年ほど前にご結婚されたばかりの…。そんな方々もご一緒されるなんて、余計に緊張するのでは?でも、人数が多い方がいいのかしら?どうなの?どうしたらいいの?』

ぐるぐると様々な考えが巡り、ニナはパニック状態になった。

「そ、そんな、私のような者が、王族の方々とご一緒するなんて…。失礼に当たらないでしょうか…」

「うん、国王陛下からのお誘いを断る方が失礼に当たるんじゃないかな?」

アレクシスが悪戯っぽくにっと笑いながらニナの顔を覗き込んだ。いつも王太子として気品のある表情を崩さないアレクシスにそんな砕けた表情を見せられて、ニナは一瞬どきりとする。

『殿下、こんな表情もされるのね。ちょっと意外…でも、親しみやすくてなんだか安心する…』

まったく関係のないことを考えてしまったおかげで、少し冷静さを取り戻す。ニナはおずおずと頷いた。断る方が失礼というのはもっともだ。国王陛下直々のお誘いを、辺境伯令嬢ごときが断れるはずなどない。

「──承知いたしました。大変光栄なお話、感謝いたします。是非ご一緒させていただきます」

仕事スイッチが入った様子のニナの返事に、アレクシスが安心したようにふっと表情を緩めた。さっきの表情は、明らかにニナの心を解すためのものだったのだろう。

「うん。僕がサポートするから安心して。じゃあ、終業時間になったら迎えに行くから」

「はい、ありがとうございます」


笑顔で手を振り去って行くアレクシスを見送ったニナは、大きく息を吐いた。

『ああ、緊張し過ぎてどうにかなってしまいそうだわ…』

今夜のことを考えると胃が痛い思いだが、とりあえずは仕事だ。ニナは足早に政務室に向かった。


終業時間を迎えたニナが政務室を出ると、廊下でアレクシスが待っていた。

「こ、こんな所でお待ちいただいていたなんて!申し訳ございません!」

焦るニナに、アレクシスは優しく笑いかける。

「僕が政務室に入って行ったら、皆仕事しにくいでしょう?さあ、ついてきて」

『殿下のこういう気遣いはさすがだわ。王城で働く皆の名前も出自もちゃんと把握していらっしゃるし、本当に頭が下がるわ』


アレクシスについていくと、客間のような部屋に通された。

「ニナ様、はじめまして」

──思わず息を吞むほどの美貌。

プラチナブロンドの髪を輝かせ、女神のような神々しいオーラに包まれた美しい女性がすっと立ち上がり、ニナに挨拶をした。きらきらと光を湛えた紫水晶アメシストの瞳から、慈愛に満ちた眼差しが向けられる。

「ニナ嬢、こちらはドゥメルク公爵夫人だよ。僕の幼馴染みでもあるんだ」

「フェリシア・ド・ラ・ドゥメルクにございます」

迦陵頻伽のごとき美声。お辞儀や所作も、気品に溢れうっとりとさせられる。

「は、はじめまして…。ニナ・フォン・バトンにございます…」

そのあまりの美しさに、ニナはぼうっと見惚れてしまった。

『こんな美しい方、初めて…。あれ?ドゥメルク公爵夫人って…殿下の元婚約者で、国色天香と名高かった、”ルベライトの至宝”陽炎姫様!?』

王都の事情に疎かったニナでも、陽炎姫の存在は知っていた。権謀術数に巻き込まれ黄泉へと渡りかけ、王太子の婚約者を追われた挙げ句、最恐と怖れられていた魔王に嫁がされた悲劇の人、というのが、バトン領をはじめ地方に聞こえてきた噂だったが…。


「普段は、カルセドニー帝国との国境にある森の中の城で夫と暮らしております。国王陛下には定期的にお声掛けをいただいて、こうして登城させていただいている次第です。夫は今、国王陛下と謁見中で…」

フェリシアが話していると、ノックの音に続き、これまた圧巻の美丈夫が姿を現した。艶やかな漆黒の髪に、燃えるような紅玉ルビーの瞳。”美しい顔”というものを神が意図して創り出したかのような造形だ。アレクシスの美しさを前に、ここまでの存在感を示せる人たちがいるなんて、想像もつかないことだった。

『この方もまた、なんて美しい…。一体どうなっているの…?』

ニナが言葉を失っていると、フェリシアが微笑んで美丈夫の名を呼んだ。

「ヨアン様」

「フェリシア、待たせた。ああ、アレクシス、こちらがニナ嬢か?」

優しく目を細めてフェリシアを見つめながらその横に立った美丈夫が、ニナに顔を向ける。神に愛されたような美貌の2人が並ぶと、そこだけ光に包まれているかのようだ。


2人の神々しいオーラに圧倒されているニナを見て、アレクシスがくすくすと笑いながら紹介をしてくれた。

「ニナ嬢、こちらがドゥメルク公爵だよ。叔父上、彼女がバトン辺境伯ご息女、ニナ嬢です」

「よろしく」

ヨアンが低く澄んだ美声で短く挨拶をする。きらりと紅玉ルビーの瞳が輝いた。

『この方が魔王様!?噂と全然違う…』

2人のあまりの美しさに圧倒されていたニナだったが、はっとして慌てて挨拶をした。

「バトン辺境伯が娘、ニナ・フォン・バトンにございます。ドゥメルク公爵閣下、ドゥメルク公爵夫人、お目にかかれて光栄です」


挨拶をしてニナが顔を上げると、フェリシアが美麗な微笑みを浮かべニナに言った。

「バトン領のご評判はうかがっております。本日はニナ様にお会いできるのを楽しみにしておりました。いろいろなお話をお聞かせ願えますか?」

「は、はい!もちろんでございます!」

恐縮しながら返事をするニナに、アレクシスが優しく微笑む。

「ニナ嬢、フェリシアと一緒に隣の部屋で支度をしておいで。フェリシア、ニナ嬢は突然の陛下からのお誘いに戸惑っているだろうから、よろしく頼むよ」

「承知いたしました、アレク様。ではニナ様、参りましょう」

「え?ええと…」

フェリシアはアレクシスとヨアンにうっとりするほど綺麗なお辞儀をすると、困惑しているニナの手をそっと取り、隣室へと促した。

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