第10話 純朴令嬢は決意する〈side:ニナ〉
『やってしまったわ…』
二日酔いでガンガンと痛む頭を抱えながら、ニナは自責の念に押し潰されていた。
『まさか、王太子殿下にあんな醜態を見せてしまうなんて…。しかも、部屋まで送っていただいて…。いっそ、何も覚えていなかったらどんなにいいか…』
ルベライト王国では、18歳から飲酒が許されている。20歳のニナはこれまで、夜会での飲酒はもちろん、近年バトン領で製造をはじめたワインの試飲も多く行ってきたが、昨夜のように酔い潰れることはなかった。
『どちらかといえば、お父様に似てお酒は強い方だと思っていたのに…』
酔い潰れてみて初めて知ったのは、ニナは酔い潰れても記憶をなくすタイプではなかったということ。昨夜のことも、残念ながらほとんど覚えている。恥ずかしさで、二日酔いとは別の意味でも頭が痛い。
『どうして初めて酔い潰れたのが、殿下の前なのよ…。醜態を晒してしまったうえに、なんだかいろいろ愚痴を言ってしまったし、どうしましょう。今日は殿下をお送りする日だというのに、顔を合わせるのが辛いわ…』
ジャンのことも、考えると胸が痛む。近くでずっと思ってくれていたことにも気づかず、幼馴染みを傷つけてしまったことが辛かった。
ニナが暗澹たる気持ちで侍女と身支度を進めていると、部屋のドアがノックされた。
「ニナ、入るぞ」
ブルーノの声だ。ニナが返事をすると、ブルーノが心配顔で部屋に入ってきた。
「おはよう。昨夜はどうなるかと思ったが、ちゃんと身支度ができているようでよかったよ。具合は悪くないか?昨夜のことは覚えているか?」
「お父様、おはようございます。ご心配をおかけしました…。初めて二日酔いというものを経験しておりますが、なんとか大丈夫です…。それに、殿下にご迷惑をおかけしてしまったことも、ちゃんと覚えております…」
ニナの返事を聞いて、ブルーノが笑った。
「大丈夫ならいいんだ。私からもお詫びはしたが、ちゃんとニナも殿下にお礼を言うんだぞ。わざわざ部屋まで送ってくださったんだからな」
「はい…、それはもちろん…」
しょんぼりと頷くニナを笑顔で見つめていたブルーノが、すっと表情を引き締めた。近くにあった椅子を引き寄せ、ニナの横に座る。
「殿下は今、朝食を取られているが、出立される前にニナと話をしたいそうだ」
「え?もしかして、昨夜のお咎めでしょうか」
ニナが青くなると、ブルーノは苦笑いしながら首を振る。
「いや、殿下はただただお前を案じていらしたよ。お咎めはないはずだ。おそらく、話というのは王城への出仕の件だろう」
「王城への出仕?」
予想外の言葉に、ニナはきょとんとして首を傾げた。
「お前、昨夜殿下に、王都で領地経営の勉強をしたいと言ったらしいな」
ニナははっとする。確かに、酔って胸に秘めていた様々な思いを吐露してしまった。王都で領地経営の勉強したいというのは、ずっと胸の内にあったことだ。だが、女性の自分が領地経営の勉強など、させてもらえるはずもないと口には出せずにいた。――しかし、それをアレクシスが聞いたところで、何故王城に出仕するという話になったのかがわからない。貴族の令嬢が王城に出仕する理由といえば、礼儀や所作を身につけるための花嫁修業だ。
「殿下は、お前の才を買ってくださっている。政務に携わる者として王城に出仕し、他領の者たちと共に学んではどうかと提案してくださったのだ。お前の経験や知識も、彼らに是非伝授してやってほしいそうだ。これからは女性とて、才のある者は大いにそれを伸ばし活かすべきだとおっしゃっていた」
ニナは目を見開いた。まさかアレクシスが自分の思いを聞いてそこまで考えてくれるなど、思ってもみなかったのだ。酔っ払いの戯言と、一笑に付されてもおかしくなかったというのに。
これまで貴族の令嬢が領地の経営をするなどという話はもちろん、それを前提に勉強させてもらえるなどという話すら、聞いたこともない。ニナのように実際に領地経営に携わっている令嬢など、おそらく王国内にはいないだろう。
『アレクシス殿下は、女性でもそのような機会を与えてくださるというの…?』
想像もしていなかったアレクシスからの提案に、ニナは信じられない思いでいっぱいだった。
ブルーノは真剣な瞳でニナを見据え、問うた。
「ニナ、お前の本心を聞かせてくれ。お前はどうしたい?」
ニナも真剣な瞳でブルーノを見つめ返す。ぐっと口を引き結び、深く一呼吸してから、言った。
「王城で、もっと領地経営について学びたいです」
しばらく黙ってニナを見つめていたブルーノは、その瞳に宿る決意の固さを悟り、ふう、と大きく息を吐いた。
「わかった。──1年だ。1年間、王城に出仕し勉強をすることを許す。しっかりやってこい」
「お父様、ありがとうございます!」
ニナは思わずブルーノに抱きついた。叶うはずなどないと口にも出せなかった願いが、現実になったのだ。まだ酔って夢の中にいるのだろうか。信じられない気持ちと喜びが綯交ぜになり、興奮が抑えられなかった。ブルーノは少し寂しそうな顔で、そんなニナの頭を撫でる。
「まさか、結婚ではなくこういう形でお前を送り出すことになるとはな」
しばしそのままニナの頭を撫でていたブルーノが、きゅっと表情を引き締めてニナから離れた。
「殿下にお前の決意を伝えて、しっかりとお願いしてくる。王城では、殿下が力になってくださるそうだ。これは視察の間にお前自身の力で得た信頼とチャンスだ。自信を持ってしっかり励むといい」
そう言って笑うと、ブルーノは部屋を出ていった。
一人部屋に残されたニナの胸に、じわじわと喜びが込み上げてくる。勉強の機会を与えてもらえるなんて!アレクシスが自分を認めてくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。
宿泊施設の前には、王都へ戻るアレクシスを見送るため、多くの領民が集まっていた。
ブルーノや従者を伴ったアレクシスが姿を現すと、領民たちから大きな歓声が上がった。
「王太子殿下!」
「是非またバトン領へお越しを!」
飛び交う歓声に輝く笑顔で手を振って応えていたアレクシスは、ニナに目を留めると優しく微笑みながら近づいてきた。
「ニナ嬢、具合はどう?」
ニナはさっとお辞儀をして、昨夜の非礼を詫びる。
「昨夜は大変なご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ございませんでした。お見苦しいものをお見せしてしまいました。おかげさまで、もう体調は問題ございません」
ひたすら申し訳なさそうに謝るニナに、アレクシスはふふ、と穏やかな笑い声を漏らした。
「それならよかった。昨夜のことはそんなに気にしなくていいよ。逆に、君の心の内を知ることができてよかった。バトン辺境伯から返事は聞いたよ。君の登城を心待ちにしている。君の準備が整ったら、できるだけ早くおいで。こちらも、帰ったらすぐにいろいろと手配をしておくから」
王都で、しかも王城で勉強ができる。信じられないほどの幸運だ。その機会を与えてくれたアレクシスには感謝してもしきれない。
『きちんとお礼を申し上げないと』
ニナはきゅっと決意をして顔を上げたが、アレクシスと目が合った瞬間、どきりとしてすぐに目を伏せてしまった。この眩い美貌を直視するのは、まだまだ難しい。――もっとも、バトン領の話に夢中になっている時には自然と目を合わせることもできているのだが、ニナはそれを自覚していない。
「大変光栄なご提案をいただき、心より感謝いたします。粉骨砕身、努力させていただきます」
深々と頭を下げたニナに、アレクシスが苦笑いする。
「相変わらず真面目だね、ニナ嬢は。君が王城で有意義な時間を過ごせるよう、僕も尽力させてもらうよ。何より、僕がもっと君の話を聞きたいしね」
「本当にありがとうございます。よろしくお願いいたします」
ニナはもう一度、深く頭を下げた。
「それじゃあ、王城で待っているよ。気をつけておいで」
アレクシスは光を纏ったような笑顔で手を振ると、馬車に乗り込んだ。
「殿下も、道中お気をつけて」
「殿下、ニナをよろしくお願いいたします」
ブルーノもニナの隣に立ち、アレクシスに敬礼をする。アレクシスが馬車の窓から頷いた。
「王太子殿下、万歳!」
領民たちの声に見送られながら、馬車が動き出す。バトン領を出るまで護衛を務めるセルジュたち辺境騎士団に先導され、馬車は遠ざかっていった。
『ここ一月、ほぼ毎日お会いしていたけれど、しばらく殿下のお顔を見ることはできないのね…』
次第に小さくなっていく馬車を見つめていたニナの胸が、突然ぎゅうっと締めつけられた。うまく呼吸ができないような感覚に陥り、ニナは自分の感情に首を傾げる。
『何故胸が痛いの…?寂しさかしら?そのうちまた王城でお会いできるというのに…』
馬車が見えなくなると、ブルーノがニナの肩をぽん、と叩いた。
「さあ、忙しくなるぞ、ニナ。早急に王都へ行く準備を進めなければならんな」
「はい、お父様」
心の中に自分が知らない小さな感情が芽生えていたことにも気づかず、ニナは笑顔で返事をしてブルーノと共に邸へと戻っていった。
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