第4話 王太子の視察

『昨夜の夕食も美味しかったけど、今朝の温泉粥とやらも美味しかったな。温泉水を料理にも活用するなんて、他では聞いたことがなかった』

朝食を終えて部屋で支度を整えながら、アレクシスは先程の料理を思い返していた。

とろりとした温泉粥は滋味深く、栄養が優しく体に染み込んでいくような感覚がした。シンプルな味付けなのに深みもあり、それが温泉水によってもたらされたものだと知った時には驚いた。

『ここでは、たくさんの学びがありそうだ』

窓の外に広がる景色を眺めながら、アレクシスはこれから始まる視察に期待を膨らませた。


アレクシスが宿泊施設の外に出ると、ちょうどバトン家の紋章を掲げた馬車が止まった。中から慌てて降りてきたのは、昨日挨拶をしたバトン辺境伯令嬢だった。

「王太子殿下、おはようございます!お出迎えできず申し訳ございません!」

柔らかそうな髪をふわふわさせ、焦って挨拶をする。

「ニナ嬢だったよね?おはよう。昨日バトン辺境伯が言っていた、案内の者って、君のことなのかな?」

アレクシスが微笑むと、ニナは相変わらず伏し目がちに答えた。

「はい。大変申し訳ないことですが、私も今朝父からその話を聞いたばかりでございまして…。急ぎ参りましたが、お出迎えに間に合いませんでした。大変失礼いたしました」

申し訳なさそうに深々と頭を下げるニナに、アレクシスがくすくす笑って言った。

「お出迎えなんて、気にしなくていいよ。出発の時間には間に合っているんだから。――朝から大変だったみたいだね」

結われていない髪に、両手に抱えた資料。限られた時間で最大限のことをしようとした努力がうかがえる。

『シンプルなドレス。きっとこれが、ニナ嬢のいつもの姿なんだろうな』

王都のゴテゴテと着飾った令嬢たちより、よほど好感が持てた。

「早速、資料を見せてくれる?今日の視察地の説明を、馬車の中で聞かせてほしいな」

アレクシスの言葉に、ニナがさっと資料を差し出す。

「こちらでございます。本日はまず、源泉付近の様子をご視察いただければと思っております」

ニナの表情がきりっと引き締まる。スイッチが切り替わったことが目に見えてわかった。

『いい表情。仕事に対する姿勢が伝わってくる』

アレクシスの馬車にニナが同乗する形で、視察はスタートした。


「この資料は、ニナ嬢が作ったの?」

ざっと資料に目を通し、その見やすさとわかりやすさに驚愕しながら、アレクシスが聞いた。

「はい。お恥ずかしながら、父は騎士団の仕事の方が忙しく、執務に関しましては私が携わる部分が大半でございます。王太子殿下の視察のご案内は辺境伯である父がするものと思っておりましたので、父でも説明がしやすいように、要点をまとめた資料をご用意しておりました。ですので、私の口頭でのご案内と資料の内容が被ってしまうこともあるかと思いますが、どうかご容赦ください」


『要点がよくまとまってる。王城の執務官でも、こんなに出来のいい資料を作れる者は少ないだろう。それを、この令嬢がとは…』

アレクシスは感嘆しながら言った。

「いや、とてもわかりやすくまとまっているよ。先に目を通させてもらって、現地で感じたことを質問させてもらえたら、とても意義ある視察ができそうだ」

その言葉に、ニナはほっとした表情を浮かべる。

「どうぞ、何なりとお聞きください」

初めてしっかりと視線を合わせて微笑まれ、アレクシスは少し驚いた。

『仕事の話になると、ちゃんと顔を上げるんだな』


領地の話をしているニナは、はきはきとして快活な印象を受けた。意欲的に領地経営に取り組んでいることが伝わってくる。実際、ニナのアイデアとその手腕には脱帽した。王国一の貧乏領とまで言われたバトン領の目覚ましい発展を支えてきたのは、紛れもなくニナだろう。

『政治のことや民の生活のことに疎い令嬢がほとんどだけど…。こんな風に実のある話ができるのは、フェリシア以来だな』

再びフェリシアが思い出されて少し胸がひりついたが、ニナの前向きな姿勢と説明に、アレクシスは次第に引き込まれていった。


「へえ、この温泉は、怪我にも効くの?」

長く続く坂道を上った山の麓の温泉は、傷を早く治す効果が期待できるとのニナの説明を聞き、アレクシスは温泉水を手ですくう。

温かなお湯がとろりと手のひらを滑り落ちると同時に、肌がしっとりするような感覚がした。

「はい。ここの泉質は硫酸塩泉といって、切り傷に効きます。私の父や兄も、騎士団の訓練で傷を負った時には、ここに湯治に参ります。乾燥肌の方にもおすすめなんですよ」

「湯治か。異国の話としては耳にしたことがあるけれど、ルベライトでは聞かないね。王都の騎士団にも教えてあげたいな」

「ぜひ、お願いいたします。まだこの国では温泉はあまり一般的ではございませんから、皆様によさを知っていただきたくて」


『僕より年下の令嬢が、領地経営にこれほどの手腕を発揮しているというのは、素直にすごい。よく勉強しているだけじゃなく、判断力、決断力もある。いい刺激を与えてくれるな』

久しぶりに、気持ちが高揚する。やはり、新しい刺激を受けることは重要だ。

「ねえ、この部分について、ニナ嬢が読んだ本や資料を見せてくれないかな?どうやってこの考えに至ったのか、知りたいんだ」

もっと知りたい。もっとたくさんのことを吸収したい。アレクシスは、ここのところずっと立ち止まっていた自分の気持ちが、前を向いて進んで行こうとしているのを感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る