第3話 純朴令嬢は夢を見る〈side:ニナ〉

バトン領が誇る温泉宿泊施設に入っていく王太子アレクシスの後ろ姿を見送ったニナは、ほぅーっと長いため息をついた。

『ああ、ものすごく、緊張したー』

全身の力が抜けて、膝から崩れ落ちそうだ。

先日20歳の誕生日を迎えたばかりのニナにとって、王族とこれほどまでの近さで対面するなど初めての経験だった。18歳の時にだいぶ遅めのデビュタントのため王都に赴き、一度だけ夜会に出席して以来、ずっとこの辺境に籠っていたのだ。


20歳にしてはやや幼く見える顔立ちは、可愛らしく整っている。化粧っ気はないが、肌は温泉のおかげかキメが整い、艶やかに輝いていた。シンプルで動きやすいドレスがニナの定番だが、今日ばかりは王太子のお出迎えなどというかつてない重責のために、母から厳重な指示が与えられ一張羅のドレスを着用している。


『王都のあの煌びやかな世界や、豪華なドレスは、私には向いてないわ。ただ、本当は領地経営に関する勉強を王都でしてみたい…。国中から貴族や学者が集まる王都なら、私の知らなかった知識がたくさん得られるんだろうな。――でも、貴族令嬢が王都で勉強なんて無理よね。着飾って縁談を探すくらいしかできないなら、ここに籠って勉強している方が楽しいわ。ああ、早く帰って温泉に浸かりたい』

やしきの浴室には温泉が引いてあり、いつでも源泉かけ流しで入浴ができる。

ニナは緊張で硬くなった首をくるりと回しながら、馬車に乗り込んだ。


幼い頃から読書が大好きで、本で得た知識を活かして領地のことを考える時間が一番楽しかった。王国一の貧乏領などという不名誉な二つ名を持つバトン領を、どうにかしたいと思っていたからだ。素朴で親しみやすい領民たちの負担を減らし、少しでも豊かな暮らしをさせてあげたい。その思いがニナを突き動かしていた。

父や兄は武人としての道を確立しているが、自分には何もないということも、ニナには負い目だった。貴族令嬢であるのだから、レディとしての資質を高めてどこかに嫁入りすれば、それでいいはずではあったが、それよりも自分の手で何かを成し遂げたかったのだ。

『私の夢は、このバトン領を王国一の豊かな領地にすること!』

10歳でそう決意してからは、ニナはまっすぐ夢に向かって邁進してきた。


事実、近年バトン領が目を見張るほどの成長を遂げたのは、ニナの功績が大きい。王都から派遣された地質調査隊では発見できなかった温泉を、ニナは独学で得た知識をもって発見したのだ。膨大な資料や文献に基づき、絶対にバトン領から温泉が出るはずだ、と信じて調査と発掘を進め、ついに掘り当てた時の感動は忘れられない。ニナを信じて温泉発見のための費用を捻出してくれた父には、本当に感謝している。


しかし、何も父ブルーノも、盲目的に娘を信じて投資したわけではない。

この地に温泉が出るはずだと言い出す前にも、ニナは標高の高い痩せた狭い土地でもできる農作物を研究して成果を出したり、公金をどう有効活用して領民の暮らしを豊かにするかを提案し、改革を成し遂げてきた。その努力と才覚を買ったのである。

結果、3年前に温泉の発見に至り、温泉エネルギーの活用と、観光資源としての利用も軌道に乗りはじめたのだ。王都からバトン領への道も、領内は広く平坦になるよう整備したことにより、多くの観光客が訪れるようになった。型破りな強さと豪胆さを持つブルーノにして、この規格外の娘あり、といったところだろう。

ただ、ブルーノは、あまりに領地のことにばかり掛かり切りで、色恋にはめっぽう暗い妙齢の娘を密かに案じてはいたのだが。


ニナは馬車の窓から、先程アレクシスを迎えた宿泊施設を見やる。

一番眺めが良く、一番広くて豪華な設えのスイートに、アレクシスは滞在しているはずだ。そうしたアッパー・クラス向けの部屋を設けようと提案したのも、もちろんニナだ。その時は、王太子が利用するとまでは思っていなかったが。

『まさか、王太子殿下が視察にいらっしゃるなんてね』

王都の世情に疎いニナですら、王太子アレクシスの姿絵は目にしたことがある。麗しく、それでいて優秀だと評判の王太子は、国民から絶大な人気を得ており、ニナの友人たちも皆、アレクシスを熱烈に支持している。二度の不幸な婚約破棄という影も、逆に令嬢たちの庇護欲をくすぐるようだった。

『確かにお美しくて、本当に品のある方だったわ。眩しすぎて直視できなかったけど』

自分のような地味な辺境伯令嬢が関わりを持つ相手ではないことは、十分すぎるほどわかっている。ニナにできることは、明日からのアレクシスの視察に備えて準備を万端にすることだけだ。

『さあ、温泉に入ったら、明日からの段取りを固めないと。お父様でもきちんと王太子殿下をご案内できるように』

ニナは馬車の中でぐぐっと伸びをした。



──翌朝、ニナが朝食を取っていると、日課としている朝の鍛錬を終えたブルーノがやってきた。

「おい、ニナ。何をゆっくりしているんだ?今日から王太子殿下のご案内があるだろう?」

「え?それはお父様のお役目でしょう?資料はちゃんと書斎に用意してありますよ」

「何を言っている。俺よりお前の方が領地経営には詳しいんだから、お前が行くに決まってるだろうが」

「えぇ!?初耳よ、そんなの!なんで辺境伯がご案内しないのよ!相手は王太子殿下なのよ?だめでしょ、そんなの」

「王太子殿下には、今日からは案内の者を寄こすって伝えといたから、大丈夫だ」

「ちょっと待ってよ、お父様!」

「俺はこれから騎士団の演習があるから、後はよろしくな。あ、もうセルジュは王太子殿下の警備に行ってるからなー」

ブルーノは焦るニナを尻目に、さっさと着替えに行ってしまった。

「…とんでもないことになったわ…」

ニナは青くなって、急いで朝食を切り上げた。


少しでも豪華なドレスを着せようとする母をなんとか説き伏せ、いつものように動きやすいドレスに身を包んだニナは、急ぎアレクシスの宿泊する施設に馬車を走らせていた。

『なんでお父様は、昨夜のうちにご案内は私にさせるって言ってくれないのよ!王太子殿下をお待たせしてしまったらどうするの!?もう!』

馬車の中で用意した資料に落ちがないか、再度確認をしながら、ニナはため息をついた。

いつものペースで朝の身支度をしていたら間に合わない時間だったため、髪を結う暇もなく、ふわふわの髪が顔にかかり邪魔に感じる。ニナの髪は広がりやすく煩わしいため、いつもはハーフアップやまとめ髪にしているというのに。

『こんなんでドレスだけ豪華だったら、逆におかしいわよ。私の役目は視察のご案内なんだから、着飾る必要はないわ』

ニナは髪を耳にかけると、再び資料に目を落とした。


ニナにとっては、まさか自分が王太子の案内役になるなど思ってもみないことだったが、ある意味これは夢を実現するためのチャンスだとも思っていた。王太子にこのバトン領の魅力を認めさせれば、国王にそのことを報告してもらえるだろう。そうすれば、バトン領への評価も上がるはずだ。

さらに、温泉も気に入ってもらえたら、王太子自ら宣伝してもらえるかもしれない。


『緊張するけど、魅力もPRすべき点も、余すところなくお伝えしなきゃ。領地内の道は整備したけれど、まだ王都からバトン領までの道のりは悪路も多いわ。何としてもバトン領の価値を認めていただいて、道の整備費用を国の予算に組んでもらわないと!』

ニナが決意を新たにした時、馬車が温泉宿泊施設に到着した。

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