第2話 王太子は視察という名の傷心旅行に出る

フェリシアとヨアンの結婚式からおよそ一月後。

アレクシスは王国の北西に位置し、ブルーノ・フォン・バトン辺境伯が治める地、バトン領へと視察に赴いていた。馬車で3日の行程が、やっと終わりを迎えようとしている。


隣国カルセドニー帝国とを隔てる険しい山脈の裾野に広がるバトン領は、数年前まで主だった産業や特産品などがなく、海に面しその恩恵を受ける豊かな領地とは対照的に、王国の中で一番の貧乏領と評されてきた。

しかし近年、現バトン辺境伯により領地改革が進められると同時に、温泉も発見されたことから、目覚ましい躍進を遂げている。

今回のアレクシスの視察は、その実情の把握が目的だ。──とはいえ、視察に訪れるのがアレクシスである必要はなかったが、あえて国王がアレクシスを赴かせたのには、傷心のアレクシスへの配慮があった。


『国王陛下は、僕がずっとフェリシアを思ってきたことを知ってるからな…。そんなに気を遣われると逆にちょっと辛いけど、まあ、王都にいるとフェリシアとの思い出も多すぎるし、ありがたいことではあるよね。それに、バトン領は実際に見てみたかったし』

アレクシスは馬車の窓からバトン領を眺めた。山間やまあいの数か所から温泉のものとみられる蒸気が上っているのが見える。

『バトン領は、10年以上前に行われた地質調査の時には温泉が発見できなかったんだよな…。でも、数年前に突如発見された。発見者はバトン辺境伯家の者だって話だけど、どうやって発見したのか、その人物にも会って話を聞きたいし…』


アレクシスも第一王子、そして王太子として、幼い頃から様々な教育を受けてきている。特に幼少の頃は優秀な叔父のヨアンと比べられることも多かったため、とにかく必死だった。偉大な背中を追いかけ、努力を惜しまず励んできた自負はある。父である国王の配慮が働いたとはいえ、ただ心の傷を癒しに来たつもりはなかった。

『意義ある視察をして帰るよ、父上』

アレクシスは流れる景色に向かい、決意を新たにした。


バトン領でのアレクシスの滞在先は、湧き出た温泉地に新たに作られた宿泊施設だった。

落ち着いてどこか温かみを感じさせるその施設は、旅の疲れを癒してくれそうな、ゆったりとした雰囲気を醸し出していた。

『建物のセンスも悪くない。王都や周辺の都市から訪れる者たちに人気があるのも頷けるな』


アレクシスが馬車を降りると、入り口前で待ち構えていた人物が敬礼をした。

「アレクシス王太子殿下、ようこそいらっしゃいました。バトン領領主、ブルーノ・フォン・バトン辺境伯にございます」

よく通る大きな声で挨拶をしたのは、がっしりとした長身に日に焼けた精悍な顔の壮年男性。バトン辺境伯といえば、武人としても名高い人物だ。

「出迎えありがとう。一月ほどの間、世話になるよ」

アレクシスは万人を虜にする、柔和な印象ながらきらきら輝くような王子様スマイルで応える。

と、バトン辺境伯の後ろに隠れるように立っていた令嬢が、眩し気に目を逸らした。

「そちらのご令嬢は?」

大抵の令嬢は、アレクシスの微笑みを向けられると、恍惚の表情でしばし見惚れる。珍しい反応をされて、思わず問いかけた。

「失礼いたしました。こちらは我が娘、ニナ・フォン・バトンにございます。そして、その横におりますのが、我が息子セルジュ・フォン・バトンです。どうぞお見知りおきを」

父親に紹介され、ニナがお辞儀をした。その仕草から伝わってくるのは、王太子に対して非礼があってはいけないという真面目さのみ。やはり、アレクシスの笑顔に骨抜きにされる素振りはなかった。

ニナのオレンジがかったブラウンの髪が、緩くウェーブし柔らかそうに風になびく。大きな橄欖石ペリドットの瞳が知的な印象を与える、小柄で純朴そうな令嬢だった。


「王太子殿下、初めまして!王国騎士団に所属しております、セルジュ・フォン・バトンにございます!現在は辺境警備隊に配属されております!王太子殿下のご滞在中は、身辺の警備にあたらせていただきますので、よろしくお願いいたします!」

ニナの横で、兄のセルジュが父に似た大きな声で挨拶をした。

2mに届きそうな長身に、がっしり厚い胸板。逞しい容姿も父親であるバトン辺境伯によく似ている。

「うん、よろしくね、セルジュ」

こちらはアレクシスに笑みを向けられると、まるで少女のように嬉しそうな表情を浮かべ、頬を染める。

『反応が妹と逆じゃないか?』

アレクシスは心の中で苦笑した。だが、フェリシアへの傷心の痛みを抱える今、他の令嬢からの熱視線など煩わしいだけだ。その点、ニナの反応は逆にありがたい。

『恋なんて、当分ごめんだ』

アレクシスは一人そっとため息をついて、バトン辺境伯に案内されながら施設の中へと入っていった。


アレクシスが滞在するスイートルームからは、バトン領が一望できた。個別に温泉も設えられていて、リラックスした時間を過ごせそうだ。

「視察に際しましては、明日より領内を案内する者を寄こします。本日はどうぞ、温泉で旅の疲れをゆっくり癒してください。何かあれば、そちらのベルでお知らせを。食事は後ほど、お部屋にご用意させていただきます」

バトン辺境伯はそう挨拶すると、礼をして部屋を出ていった。


側近や従者には、アレクシスの部屋を取り囲むようにそれぞれの部屋が割り当てられた。

「ちょっと一人でゆっくりしたいから、下がっていていいよ」

各々の部屋に帯同してきた者たちを下がらせ、アレクシスはソファに腰を下ろした。

ただ馬車に乗っていただけとはいえ、同じ姿勢で長時間座っていた疲れがどっと押し寄せる。首を回し、肩をとんとん、と叩いてみたが、凝り固まった筋肉はそう簡単には解れない。

『温泉、入ってみようか』

王城では常に従者がいて一人で入浴することなどないが、ここならいいだろう。


一方が開け半露天のようになった浴室からは、山並みに沈む夕日が望めた。湯船に浸かり、ぼうっと茜色の空を眺める。

ぬるめのお湯はとろりと肌あたりがよく、保湿効果も高そうだ。

『フェリシアにも教えてあげたいな。まぁ、フェリシアの肌は真珠みたいに綺麗だから、必要ないかもしれないけど』

この期に及んで、何をしていてもフェリシアを思い出してしまう自分の未練がましさに嫌気がさす。

掴んだ手から零れ落ちていったものの大きさは計り知れない。


いつの間にか日は沈み、瑠璃色の空には一番星が輝いていた。

空を見上げていると、つと、頬をつたうものに気づく。

『え、ちょっと、何で?』

温泉で身体が解されて、感情の螺子ねじまで緩んでしまったのだろうか。後から後から涙が溢れる。

「──っふっ…う…」

声を殺して、アレクシスはひとしきり泣いた。


湯から上がると、心なしか身体だけでなく、気持ちも軽くなったような気がした。

『そうか、僕、泣きたかったんだな』

抑え込んでいた感情に、知らず知らずのうちに押しつぶされそうになっていた自分に気づく。

今夜は久しぶりに、ゆっくり眠れそうな気がしていた。

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