第32話
そして数日後。アンを置いて、ストレリツィ夫妻は自領へと帰っていった。
私が最後に見た元夫の姿は、すっかり疲れ切った顔で私から顔を背ける姿だった。
馬車が行くのをセオドア様と見送りながら、私は独り言のように呟いた。
「最後まで結局ーー彼は私の目を見ることはありませんでした」
セオドア様は私の肩に手を置き、労うように微笑んだ。
「彼の記憶の中に、貴方の凛とした双眸の記憶がないことは私にとって喜ばしいことだ。……美しいクロエ嬢の碧眼は、きっと彼には眩しすぎたのだろう」
今日もまた、相変わらずの褒め言葉を向けてくださるセオドア様。
「全てが丸く収まったな」
セオドア様は呟く。
そう、全ては丸く収まった。ーーたった一つのこと、以外は。
今日は一日休暇を取ったセオドア様と二人、ヘイエルダールの湖畔の別邸に訪れていた。以前訪れた時は子供たちで賑やかだったけれど、使用人を除くと二人きりで訪れると、急に、セオドア様との距離感を意識してしまう。
別邸のテラスの籐椅子に座り、私たちは湖を望んでいた。
波立たない程度の微風が心地よい。湖面には、雄大なヘイエルダールの山脈が鏡写しになっている。
ーーとても、静かだった。
セオドア様はいつもの礼装を脱ぎ、シャツに民族衣装のストールを羽織っただけの装いだった。私も彼に合わせて、白いシャツワンピースに似たドレスをまとっている。
「風が温くなってきたな。いよいよ夏が来る」
「……ええ」
銀髪と髪紐を揺らし、セオドア様が日差しに眩しそうにしながら呟く。
私はその横顔を、薄着のがっしりとした姿を、恥ずかしくて正面から見ることができない。
湖畔を見つめていると、セオドア様が静かに話し始めた。
「あの日、私の言葉を信じて、口裏を合わせてくれてありがとう」
「……ストレリツィ夫妻との一件のこと、ですよね……」
「ああ」
私は顔から火が出そうになる。
あの時彼は確かに、私と結婚するつもりだと口にしていた。
私もそれを当然のもののような顔をしてその場を凌いだけれど。
でも、あれはーーセオドア様が敬愛してくださる私の父のため、そしてあくまで、その娘である私のためであって。
「私は貴方と結婚したいよ、クロエ嬢」
弾かれるように顔を見れば、セオドア様が優しく微笑んでいた。その頬が、淡く染まっているような気がするのは、私の気のせいだろうか。
「もちろん私を受け入れてくれるかは、貴方の自由に任せる。ただ……私はあの日あの場で示した貴方への想いに、嘘偽りはないと誓う。あとは貴方の判断に任せる。……答えは急がずとも構わない。これまでの長い年月、貴方を遠くから見つめていた頃に比べたらーー俺は今のままでも、神に感謝したいほどに満たされているのだから」
私がただ傍にいるだけで、彼は嬉しそうに目を細めてくれる。
私はただ、わからなかった。
「本当に私でよろしいのですか。どうして、貴方のような立派で魅力的な方が……私なんかに」
「私は立派でも魅力的でもないよクロエ嬢。遠目から見ていただけの貴方に一方的に恋焦がれていた、浅ましい男だ」
自嘲するように彼は笑う。
「元々惹かれていたが、こうして一緒に過ごすようになって毎日どんどん好きになっていく。クロエ嬢がいない暮らしは、もはや、ヘイエルダールの土地から全ての灯火が消えるようだ。これから夏が来て、そしていずれ冬が来る。厳しい冬に凍える夜でも、貴方の温もりを抱きしめて眠りたい。貴方と一緒に、子供たちの幸せを見守っていきたい」
次第に彼の仮面が剥がれていく、そんな感覚がした。
穏やかで一線をひいていた彼の瞳から、熱情のようなものが溢れてくる。
「セオドア様」
私は彼に向き合い、膝の上で握りしめられた手に触れた。
なんて大きな手なのだろうと、私は思う。
この大きな手で、この人は長い間ずっと、領地も、養子たちも、そしてーー私のことも、守ってくれていた。
胸の奥が急に熱くなってくる。彼にもっと触れたいと思う。
セオドア様の目を見れば、彼の熱っぽい瞳が私をじっと見つめていた。
薄い色の瞳に、私がはっきりと映っている。
「私は願いがあります、一つだけ」
「何がある」
言葉にするのがはしたないと思うことすら、今の私からは消し飛んでいた。
ずっと心の中に閉じ込めていた、私の夢が唇から溢れ出した。
「私は……自分の家族がほしいのです。私には、もう諦めた夢でした」
セオドア様は私の手を握っていた。
顔が、近づく。
「セオドア様。……私でよろしければ、貴方の」
続きの言葉は、押し付けられた彼の胸板に消えていった。
厚い体に抱きしめられて、私は目を閉じる。
「家族になろう。……愛している、クロエ嬢。もう私は貴方を離さない」
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