第31話
その後、ストレリツィ夫妻は王都に提出する書類作成のために、しばらくヘイエルダールの居城に残っていた。
威勢のよかった彼らはすっかり意気消沈した様子で、時折、城で顔を合わせることもあったが、こそこそと逃げるように私の前から姿を消した。
私は再び、元のように穏やかな女家庭教師としての生活を過ごしていた。
ーーその教え子の中に、アンを交えながら。
◇◇◇
よく晴れた日、私はアンをお茶に誘った。
ヘイエルダール特有の色とりどりの花が咲き誇る庭園、その真ん中に位置するささやかな四阿で、私は焼き菓子と紅茶の並んだ華やかなティーセットを用意してもらった。向かい側に、困惑した顔のアンが手をつけずに目を落としている。
「冷めないうちにどうぞ。それとも、猫舌だったかしら」
「……私なんかが、食べて良いのですか。母がご迷惑をおかけしているのに……」
「お母様のことは、娘の貴方は関係ないわ。スコーン、お好きだったでしょ?」
ぐうう、と小さな腹の音が聞こえる。彼女は顔を真っ赤にした。
育ち盛りなのだから、昼食後しばらくした今の時間帯は、甘いものをつまみたくもなるのは当然だ。
「……いただきます」
最初は躊躇いがちだった彼女だが、次第に嬉しそうに口に運ぶようになってくれた。
「このジャム美味しいですね……初めて食べました。それに、なんて綺麗な色……」
「アンズですって。私もヘイエルダールに来て初めていただいたの。セオドア様の子供たちがみんなで実を摘み取って、毎年作るんですって」
「楽しそう」
アンはスコーンに添えられた、鮮やかなジャムの色にきらきらと目を輝かせている。好奇心に輝く瞳の色は、本当に綺麗なものだとしみじみと思う。
「もう花は終わってしまったけれど、薄いピンク色でとても綺麗な花だったわ」
「……食べても美味しくて、花も綺麗って、素敵ですね」
「ええ、来年はアンも一緒に作らない?」
一瞬きょとんとして、アンは目を瞬かせる。
「来年、ですか……?」
私はティーカップを置き、ゆっくりとアンの目を見つめた。
「……これから、ストレリツィ家に帰って、貴方はどうなるのかご存知?」
アンの輝いた表情がさっと翳る。大人びた苦笑いをして、カップに目を落とした。
「知らないけれど……きっと今まで通りです。お母さんの世話をして、時々養子に行きなさいって急かされたりして、……ううん。次は結婚かもしれません。さっそく、南の方のお金持ちの商人と手紙をやりとりし始めたみたいですし」
「……デビュタントもしないまま、若くして嫁ぐのは苦労するわ」
私は自分のことを思い出した。
大人の社会を何もわからないまま「侯爵夫人」となったあの苦しい生活は、目の前のアンにさせたくないと思う。
私の顔色を見て、彼女はハッと青ざめた顔になった。
「そうですね。そうですよね……私のお母さんが、クロエさんに苦労させてしまったんですよね。ごめんなさい」
顔色を見てすぐに謝る、この機微の聡さはオーエンナとの暮らしで身につけたものなのだろう。私は違う、とはっきり首を横に振る。
「私が言いたいことは、私のことじゃないの。それに貴方は全く謝る必要がない。……ただ、私は貴方が家の道具として、私と同じ苦労をするのは放って置けないの」
「クロエさん……」
「もしよろしければ、行儀見習いの名目で、ヘイエルダールに来ない? ヘイエルダールで礼儀作法を学んで、その後は他の女の子たちと一緒に、王家のお姫様のメイドをするの。そうすれば堂々と、どこに出ても恥ずかしくない淑女になれるわ」
私の提案に、アンの瞳が大きく揺れる。
驚きと困惑と躊躇い、いろんな感情が表情に現れていた。
「私なんか……私なんかに、勿体無いことです。それに母が許してくれない」
「もちろん、セオドア様が了承を取っているわ。アンが望むのなら行儀見習いに喜んで出したいと」
「でも……私、そんな……」
アンが本当はこちらの生活を楽しんでいることを、私は知っていた。
セオドア様の子供たちと一緒に学ぶ時、一緒に食事をしながらはしゃぐとき。彼女はごく普通の、当たり前の明るい女の子の顔をしていた。
授業が終わって母親の元に戻る時、名残惜しそうにしていたのも知っている。
だから、私は提案するのだ。
「大丈夫。アンは賢くて優しいもの、立派な淑女になれるわ。……たとえば、無理に養子に来てほしいなんて言わないわ。けれど行儀見習いをするのはおすすめしたいの。アンには、同じ年齢の貴族の友達や、学ぶ機会が必要よ。しばらくお母さんから離れて、成長して、改めて身の振り方を考えてみるのでも、決して遅くはないわ」
本当は、彼女と母親を切り離したい。
けれど無理に引き離してしまえば、彼女の心に残った母親への愛情を踏み躙ってしまうことになるーーだから私は提案した。少し離れて、学ぶことを。
もし彼女が母親を守りたいと思っても。
母親と訣別して生きると決めるとしても。
学びは必ずいつか、彼女の人生の支えになってくれるから。
「……私なんかでも、クロエさんは居てもいいって言ってくださるのですね」
彼女は気がつけば、目を赤く晴らしていた。
ハンカチを渡すと、わっと堰を切ったように泣き出した。
アンの隣に座り、私は涙をこぼし続ける彼女の背中を撫で続けた。
気づけばセオドア様が四阿までやってきて、彼女を優しい眼差しで見つめていた。
「歓迎するよ、アン嬢。ヘイエルダールの子供たちも、貴方と離れ難いと私に訴えていた」
「……ありがとうございます、ヘイエルダール辺境伯」
アンは立ち上がり、涙を堪えながら挨拶をする。
そして私に向かって笑顔を見せた。
「先生、これからよろしくお願いします」
「ええ。こちらこそよろしくね、アンさん」
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