第72話 ◇距離を置くわけ
朝起きると目眩がした。頭はガンガン痛むし、体は重い。きっと熱もあるんだろう。ベッドから立ち上がろうとしたらふらついて、またベッドに逆戻り。まぁ、この体調不良の原因なんてわかりきってる。睡眠不足だ。あの日から寝付きが悪くなった。夢見も悪くて夜中に何度も目が覚めて。涼の写真も今は安眠効果を発揮していない。そして今日、遂に私の身体は限界を迎えたんだろう。涼からもらったと思っていたエネルギーはとうに底をついていた。
お母さんが学校に連絡してくれて、休むことになった。1人ベッドに横たわり、天井を見上げて回らない頭で考える。
本当にどれだけ涼に依存していたんだろうって。涼の隣は居心地が良くて、いくらでも甘えさせてくれて、幸せだった。ずっとこうしていたいって思えるほどに。本当にこれでいいのかなって、時々思うことはあったんだ。幸せすぎて見ないふりをしていただけで。
プールから帰る電車の中、本当はあの時私は起きていた。偶然あのタイミングで目が覚めて、起きていて寝たふりをした。彩香が私のことをこう言ったから。『家猫』って。彩香のことだから、涼に甘えてる姿がそう見えたってだけなんだろうけど。
でも私はそうは思わなかった。私が涼なしでは生きていけないって言われた気がした。『家猫』ってことは涼に生かされてるってことの喩えに聞こえた。だって『家猫』は食事から寝床まで、生きるための全てを用意してもらってるんだから。本当に今の私そのものだって思った。
それに涼は言ったんだ。私に支えてほしいって。今の私にそんなことできるわけないじゃない。1人で生きていけない、立つことも出来ない、そんな私に。涼の言葉自体は本当に本当に嬉しかったんだよ。自分のダメさ加減に気付いてしまっていたから、今のままじゃ無理だって……覚悟を決めてくれた涼に報いなきゃって……だから距離を置くことにした。1人でも平気になって、涼を支えられるようになるまで。
けど頑張らなきゃいけないっていうのも、漠然としすぎていて何をどうしたらいいのかわかっていなかった。彩香にお願いして、他の子との会話に混ぜてもらってみたけどいまいちピンとこない。私は別にコミュニケーション能力がなかったわけじゃないみたい。前までは私が拒絶してただけで、今なら普通に話はできたし。こうなると自分に足りないものがなんなのか益々わからなくなってしまった。
涼を待たせているのに、いったい何をしてるんだって焦りだけが膨らんでいった。
それにしても本当に私は愚かでポンコツだ。なんで今、このタイミングでこんなことをしてるんだろう。もうすぐ涼の誕生日だってあるのに。ちゃんとお祝いしてあげたくて、強引な話題の切り替えで聞き出したというのに。
本当にこれからどうすればいいの……
あぁ、でも、もうダメ。ちょっと限界みたい……視界がぐらつく……少し、眠って……から、また……
…………
……
夢を見た。涼と手を繋いで登校する私の姿。楽しそうに涼と話をしながら同じ速度で歩いていく。幸せな光景だった。
私があんなことを言わなければきっと今もあんなふうに過ごせたのに……
ねぇ、涼……会いたいよ……手を握って……抱き締めてよ……どうしたらいいのか教えてよ!
◇
栞が体調不良で学校を休んだ。朝一番で聞かされて授業中も上の空になってしまった。心配にならないわけがないだろ。俺は今でも栞が好きだし大事なんだから。もう居ても立っても居られなくて授業が終わるやいなや教室を飛び出した。後ろから遥や漣達が『頑張れよ』って背中を押してくれて。本当にお節介なやつらだよ……
栞は無理をしてる。何が原因で何の目的かなんてわからないけど、無理をしてることだけはわかった。それも体調に異変をきたす程に。そんな栞をもう放っておくことなんてできない。それに遥にも言われた。話をしろって。踏み込めって。すごく怖いんだよ。もしかしたら拒絶されるかもしれないって。喧嘩になるかもしれないし。でも……それで別れを告げられたとしても……今の状態より何倍もマシだ。栞の考えてることを知りたい。わからないままが1番苦しい。
気持ちばかりが急いて、いつもより電車の速度が遅く感じられた。いつもの駅を一つ飛ばして栞の家の最寄り駅まで。電車からも飛び出して、通行人に驚かれた。でもそんなことに構ってられるものか。移動の途中で文乃さんに連絡を入れる。
『これから栞のお見舞いに行きます』
許可を求めるんじゃなくて『行きます』と言い切った。ダメだって言われても行くつもりだ。栞に会わせてもらえるまで玄関の前に居座る覚悟だ。
でも……
『待ってます』
文乃さんはあっさり許可をくれた。返信するのももどかしくて、心の中で『ありがとうございます』と呟いて、とにかく走った。肺と心臓が悲鳴を上げても、足がもつれても止まらなかった。こんなことなら普段から運動しておくべきだった、とは思ったけど。
栞の家に着く頃には汗だくだった。滝のような汗とはこのことだろう。いや、今はそんなことはどうでもいい。インターホンを鳴らすと文乃さんが出迎えてくれて、あまりにひどい俺の姿を見て驚き、タオルとお茶を渡してくれた。
「ありがとうございます。少し、落ち着きました……」
「ちょっと、どれだけ急いで来たの……?ってそんなことより栞に会いたいのよね?その為に走ってきたのだろうし。今は眠ってるから、部屋には行っていいけど静かにね」
「はい」
文乃さんに見守られながら階段を上がり栞の部屋の前へ。深呼吸して息と気持ちを整える。それから静かにドアを開けて……文乃さんの言う通り栞はベッドに横たわっていて。
泣いていた。眠りながら涙を流していた。
俺が栞をこんなふうにしてしまったかもしれない、そう思うと苦しくて足が震える、竦む。
でも栞に触れたい。わかってあげたい。その気持ちを奮い立たせてベッドに近付いて、栞の左手を両手で包みこんだ。俺のより小さくて可愛らしい手。握るだけでこんなにも愛おしい。だから……
栞が目を覚ますまではこうしていよう。せめて夢の中でくらい幸せでいられるように願って。
気付けば、いつの間にか栞の涙は止まっていた。
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