第70話 ◇それぞれの涙

 距離をおこうって言われた?なんで?


 俺の頭を埋め尽くすのは、言われたことが信じられない、なんで、それだけだった。だってさっきまであんなにも……それに栞もずっと一緒にいたいって言ってくれたじゃないか。


「もう、そんな顔しないでよ。大丈夫だよ。私、涼のこと大好きだから。だから、頑張るね……」


 そう言って栞は俺の頭をクシャッと一撫でだけして、1人ベッドから降りて身支度を整え始めた。俺はそれをただただ眺めていることしか出来ずにいた。栞が言っていることが俺にはもうわからない。俺はいったい今どんな顔をしてるんだろうか……


「じゃあ、私……もう帰るね。今日は涼も疲れてるだろうから見送りはいいよ。ゆっくり休んでね」

「ちょ、ちょっとま──」


 問答無用で唇を塞がれた。もう本当に意味がわからない。


 距離をおくのにキスはするのかよ。どういうことなんだよ……説明してくれよ……


「それじゃ、おやすみ」


 栞は最後にぎこちなく笑って俺の部屋を後にする。


「栞!」


 俺が呼びかけても足を止めてくれない。振り返ることすらしてくれない。栞は静かにドアを閉めて、階段を降りていく音が遠ざかっていき、玄関が閉まる音がして、そして何も聞こえなくなった。

 混乱の最中にいる俺は追いかけることすら出来ない。何も出来ない俺は、ただ呆然と栞が出ていったドアを見つめていた。

 先程まで触れていた手に残る栞の感触と、部屋に残る香りだけがいつもよりはっきりと感じられた。



 どれくらい時間が経っただろうか。部屋の電気もつけず無為に時間を浪費していた。全く何も考えられないし、少しも動く気力が湧かない。

 不意に玄関の開く音がして、栞が戻ってきたのではないかと思って少しだけ期待したけど、違った。

 俺の部屋のドアが開いて顔を出したのは母さんだった。


「なんだ、いるんじゃない。どうしたの?明かりもつけないで。それに栞ちゃんは?もう帰ったの?」

「あぁ、うん。帰ったよ」


 さすがにこんな状態なら異変に気付かないわけがなく、母さんは怪訝そうな顔をする。


「なに?栞ちゃんと喧嘩でもした?」

「喧嘩はしてない、と思う」


 喧嘩なら別れ際にキスなんてされないだろうから。


「じゃあどうしたのよ?ひっどい顔してるわよ?」

「わっかんないよ!」


 どうした?俺が知りたいよ……


 意味がわからないまま取り残されて、どうしたらいいのかもわからなくて、涙が溢れた。栞のことが全然わからなくなって、遠い存在になってしまうようで無性に悲しかった。


「涼……」


 その日は疲れて眠ってしまうまで、子供みたいに膝を抱えて泣きじゃくった。

 最初は1人にしてほしいと思ったけど、俺が眠ってしまうまで背中を撫でてくれた母さんの手の温かさがほんの少しだけありがたかった。



 ◆



 1人きりの帰り道、ひとりでに涙が溢れた。視界が滲んで、街頭の明かりがぼやける。でも自分で言い出しておいて寂しいなんて思っちゃダメ。涼にも寂しい思いを強いてしまうのだから。


 だから、これでいい。じゃないと私は……


 私は今ひどい顔をしてるはずだ。でもこれは私が乗り越えなくちゃいけない、必要なことだから。プールからの帰りに彩香が言った言葉がまだ頭から離れない。彩香はそういうつもりで言ったんじゃないってわかってるけど、あの言葉はハンマーで頭を殴られたような衝撃で、はっきりと自覚させられるには十分だった。だから最後にたくさん涼に甘えた。いっぱい愛してもらって心も身体も満たしてもらった。これから頑張らなくちゃいけないから、そのためのエネルギーをもらったんだ。

 足を止めて、目を瞑る。

 さっき涼からもらった温もりが、じんわりとまだ私の中に残ってる。だからきっと大丈夫だ。それに涼はあんなにも覚悟を見せてくれた。それなら私も……


 何度も立ち止まり、涙を拭って、涼が追いかけてこないかなんてバカみたいな期待をして振り返ってみたりして、いつもより倍以上の時間がかかって帰宅した。


 玄関の前でもう一度涙を拭って、深呼吸をして、無理やり笑ってみる。今日一日楽しいことだけでした、と見える顔を練習してから玄関をくぐる。明かりはついていたからお母さんは帰っているはずだから。


「お母さん、ただいま」


 できるだけ明るい声で。お母さんがリビングから出てきて出迎えてくれる。


「おかえり、栞。今日は楽しかっ──どうしたの?!」


 お母さんはギョッとした顔をしていた。


 私、笑えてるよね?気付かれないようにしないと、余計な心配かけちゃう。


「え?楽しかったよ?どうしたってなんのこと?」

「……鏡、見てらっしゃい」

「う、うん……」


 洗面所へ行き鏡を確認して、納得した。お母さんがあんなにも驚くわけだ。目は充血し、周りは腫れぼったくなっていて、見慣れた自分の顔とはだいぶ違っていた。追いかけてきたお母さんの優しい声がする。


「どう?わかった?」

「うん……ひどいね……」


 こんなんで取り繕うとしてた自分がバカみたいじゃない。


「何があったのか話せる?」

「ごめん、今は無理……」


 階段を駆け上がって自分の部屋へ。後ろからお母さんが私を呼んでいるけど、今は1人にしてほしい。そのままベッドへ倒れ込んで、枕元の写真に手を伸ばす。

 まだ野暮ったい髪をしていた頃の涼。のんきな顔で気持ちよさそうに眠っている涼。可愛くて格好良くて大好きな涼。それを見たらまた勝手に涙が溢れてきた。その写真を胸に抱いて、静かに泣き続けた。


 私はなんて弱くなってしまったんだ……涼と出会う前のほうがまだマシだった。だからもっと頑張らないと……

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