第52話 ◇ありがと

 冷房をきかせすぎたのか、肌寒くて身震いする。すぐそばに温もりがあることに気付いて、まどろみの中で手を伸ばして引き寄せた。温かくて、柔らかくて、落ち着く匂いがして、夢中でそれを求めて抱き締めた。


「わっ……ちょ、ちょっと涼?苦しいよ……」


 軽く頬をつねられて意識が浮上する。


「うぅん……ん?栞?!」


 ぱちりと栞と目があった。


「おはよ、涼。ごめんね、痛かったよね?」


 栞は微笑むと、つねった俺の頬にキスをくれる。

 ようやく頭が働きだして、昨夜の出来事を思い出させる。でも栞と話していたのを最後に記憶が途切れてる。


 そういえば、あのまま寝落ちしちゃったのか……


「涼?まだ寝ぼけてる……?」

「ううん。だいぶ目が覚めたよ」

「そっか……でも……さっきまで寝ぼけてたのに、その……」


 栞は何か言いにくそうにして、顔を赤くする。そのまま視線が下がっていき……


 つられて俺もそれを追うと……

 寝落ちしたということはつまり、昨夜のままということで。お互いに何も身に付けておらず、かろうじてタオルケットで隠されている状態だったりして。

 更には寝起きで…… そんな状態で抱き締めたりしたら……

 さーっと血の気が引いていく。


「わーーー!ご、ごめん!離れるから!」


 起き上がって栞から離れようとしたけど、腕を捕まれて引き留められた。


「別に……嫌、じゃないのに……我慢できないなら、いいよ……?」


 ……この子は朝からいったい何を言ってるの?それとも俺、まだ寝ぼけてる?


「し、栞?何言って……というか、そんな無理しなくても……」

「無理は、してない、よ……というか、寝ぼけてるくせにあんなに抱き締められたら私の方がって…………わ、私、何言ってるんだろ……ごめん、忘れて……」


 そんな可愛いことを言われたらもうね……



 そこから先はあんまり覚えていないんだけど、気付いたら1時間くらい経っていて、今は食パンをかじりながらコーヒーを飲んでいる。


 栞はなんか難しい顔して黙ってしまって、声をかけにくい。俺が先程回した洗濯機の音だけが聞こえていた。


 ◆


 私、いったい朝から何をやっているんだろ……


 そりゃ、昨日『足りない』とか思っちゃったけど、あれはその、そういうことじゃなくて……いや、違わないんだけど、違って……


 なんで私、自分に言い訳してるんだろ……

 でもまさかあんなこと口走っちゃうなんて……

 うぅ……穴があったら入りたい。涼に呆れられちゃってないかな……


 最近、私ちょっとポンコツなんじゃないかって思い始めてたりする。肝心な時に後先考えずに勢いだけで、思ったことを口にしちゃうというか。初めて涼に大好きって言っちゃった時もそうだし、他にも色々と。そのせいで振り回して、でも結局受け止めてもらって。


 私、自分のこともう少し賢いと思ってたんだけどなぁ……


 気遣うような涼の視線が痛い。色々片付けとか涼が全部してくれちゃったし。


 そんなところ見たらまた好きになっちゃうじゃない。……ダメダメ、今は落ち着かなきゃ。また変なこと口走っちゃう。


 とりあえず、まずはこの沈黙をなんとかしなければ。今日の夜には私は家に帰らないといけないし、それまでこんな状態なんて嫌だ。だからどうにか口を開く。


「あの、涼。ありがと」


 涼はぱちくりと目を瞬かせる。


「?どうしたの、急に?」


 どうしたんだろ。無理やり口を開いたら出てきたのが『ありがと』だったのだ。自分でもよくわからずに言っていた。

 でも、2人きりで過ごした時間を思い出す。ずっと一緒にいたらダメなところとか見えそうなものだけど、そういうのは全くなくて。いつも気遣ってくれて、優しくしてくれて、私のことを一番に考えてくれて。


 あぁ、だからなんだ……


「えっとね、私のこと大事にしてくれて、ありがと。なんか嬉しくなってぽろっと言っちゃった」

「それならお互い様でしょ。栞も俺のこと大事に思ってくれてありがとね」


 照れ屋なくせにこういう時はすごくストレートなんだよね。


 私、ちゃんと涼のこと大事にできてるかな……割りと自分のことばっかりになりがちな気もするけど……でも、そう思ってくれてるなら嬉しいな……


 ◇


 黙ってたかと思ったら、いきなり『ありがとう』なんて言うから、一瞬栞が遠くへ行ってしまうような気がしたけど、完全に俺の杞憂だった。嬉しさが溢れてこぼしてしまったとのこと。


 感謝してるのは俺の方なんだけどなぁ。


 栞がいるから、前を向いていられるし、成長もできた。きっとこれからもそうしていけるだろう。だって栞には格好悪いところは見せたくないから。

 だから照れ臭いけど、できるだけ真面目な顔で言う。


「ありがとね」


 俺の気持ちは溢れだしてしょうがないけど、きっと栞は受け止めてくれる。そんな実感が得られた。



 それからは2人とも、なるべく平静を保てるように過ごした。雰囲気とかで母さん達にばれると色々突っ込まれそうだし。


 2人で教科書を開いて勉強をして、お昼は面倒臭くなってコンビニで適当に買ってきて食べた。軽くじゃれあっていたら、夢中になりかけて、慌てて身体を離して、また勉強に戻って熱を冷まして。そんなこんなで夕方になっていた。


 車のエンジン音がうちの前で止まり、玄関の鍵が開く音がする。両親が帰ってきた。先程、栞のスマホに文乃さんから『もうすぐ迎えに行くから』と連絡が入っていたし、そちらも間もなくだろう。


「ただいまー」


 母さんの声がする。


 リビングのドアが開いて、まずは母さん、その後から父さんが入ってくる。


「おかえり」「おかえりなさい」


 まずはなるべく普通に迎える。


「あら、勉強してたなんて偉いじゃない。ずっとイチャイチャしてたのかと思ってたのに」


 また母さんは余計なことを。そりゃ、したけど!したけど、ずっとじゃないし!


「新学期始まってすぐ試験があるので、ちゃんと復習しとこうねって涼と決めましたから」

「やっぱり、栞ちゃんは良い子ねぇ。涼のことお任せしてよかったわ」


妙にニヤニヤしてるのに腹が立つけど、今は我慢だ。


母さんは荷解き、栞も帰り支度をして。

そうこうしていると、インターホンが鳴り、母さんが応対する。


「はーい」

『黒羽ですが。栞がお世話になりまして。迎えに来たのですが』


「母さん、せっかくだから少しあがってもらいなよ」

「それもそうね。お出迎えしてくるわね」


母さんが玄関へ向かうのを見送って、俺と栞は頷き合う。


母さんが文乃さんを伴ってリビングに戻ってくるのを待って、俺と栞はなるべく良い笑顔で、声をそろえて言うのだ。


「「母さん(お母さん)とりあえずそこに正座ね」」

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