#53 卒業式からあれこれ 

3月 孫が小学校を卒業しました

令和の卒業式写真を見ると ほぼ全員紺ブレ

男子はネクタイに長ズボン 女子も紺のスカート

がほとんどで 講堂に全員着席している写真見たら

どっかの入社式みたい

そして 参列者はほぼ両親とも来ていて

父はスーツ母は洋装の礼服姿のようです


で 見た事聞いた事から卒業式をまとめてみました

のっけから 大正になりますが 祖母から聞いた話です

祖母の生家はいわゆる大百姓 苗字をもった庄屋の家です

跡継ぎの長兄は高等学校(今の大学)まで出て 俳句を

好んで 家の敷地に庵を結んで句会をやったりしながら

ほぼ世襲で市会議員などもやってましたが

    私にとっては 大酒のみのハゲのおっちゃんで

    とっても陽気な人でした 

    黒澤明監督の映画ロケでは自前のシルクハットと

    羽織袴にとんび(外套)で大会役員役を演じて 

    楽しかったからと大島渚監督のロケにも参加したら 

    天草の農民役でわら背負って走らされたと言って

    笑わせてくれたのを思い出します


当時のこと 女は義務教育で十分と 祖母と妹は小学校のみ 

つまり一生一度の卒業式だった訳で 一世一代の〝晴れ着〟は 

「みんなはお正月の着物だったけど 私と数人だけが袴をはいた」

と何度も自慢していました


ここで ちょっと私も分かりにくかったので広辞苑を見たら

晴れ着: はれの場所に着て出る衣装

とありまして この〝はれ〟がもう通じない気がするんですよね


で母の代ですが 母から聞いた話は女学校の卒業式と後日談です

     ちなみにですが 小学校は義務教育でその先は

     そのまま働く 高等小学校(たしか2年)にすすむ

     男子は中学校 女子は女学校(5年 今の中高) の

     三通りだったそうです

なので 女学校卒業は17歳くらいですか 昭和元年生まれなので

年齢そのまま昭和17~8年頃は すでに婚約者のいる人も多く

夫となる人が出征前に婚姻をという事で卒業前に退学される人も

少なくなかったそうです 式はぎりセーラー服姿だったそうですが

その後は スカートがモンペに変わっていったらしいです

      学校在学時 すでに竹槍で敵を突き殺す訓練とか

      やっていたと聞きました 当時から「そんなん

      できる訳ない」とは思っていたそうですが


その後 園田高等女学校(花嫁学校と言ってました 多分今の短大?)

に進学しますが 動機は超不純で 

1.動員で工場で働くのがイヤ

2.当時 園田の第一礼装(はれの日の制服)が袴で 宝塚ファンの

  母は 緑の袴ではないけれど 袴がはきたかったからだそう

       ちなみに宝塚音楽学校の生徒も動員で工場で弾を磨いたり

       パラシュート縫ったりしてると聞いて 入学しなかった

       と言ってましたので 戦争がなかったら どうなってたのか

しかし その年の入学式から 袴はなし上は制服下はモンペとなったそうで 

思惑の外れた母は 早々に退学したそうです


じゃあ工場に行ったのか とことんお嬢でまたそれが通る運の持ち主は

祖父の友人の紹介で 朝日新聞大阪本社に勤める事になったんです

といっても 仕事はなくて一つ部屋をもらってもう一人の女性と

黙々とスクラップブックを作っていたと聞きました

その もう一人の女性が夏目漱石の姪御さんだったそうです

        もっと親しくしてくれてれば 夏目房之介さんに

        会えたかもしれないのに(ファンクラブ会員でした私)


長くなりそうなので 昭和中期~後期篇(私Br)は次に続きます

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