#36 椎名林檎の知らない歌舞伎町
昭和で言うと30年代~40年代でしょうか、正直〝歌舞伎町〟という名前も知らなかったんですが、靖国通りを曲がって入るあの道はよく覚えています。
なんて事のない商店街でした。入り口近くにあるとんかつ屋が父のお気に入りで
何度か連れて行ってもらいました。
ビルから突き出す袖看板に三匹のブタ家族の絵が描かれていて、手?に煙草をくゆらせてスーツ姿でソフトを被ったお父さん、ワンピースにハイヒールのお母さんそれに子供が散歩しているような構図で、昔から可愛げのない子だった私は「食べられちゃうのに散歩してる」と思った記憶があります。
ちなみに娘も幼い頃 唐揚げの袋を見て「鳥が笑ってるの変」と
言いましたから 感性似てるのかも
その店の隣がミシン屋で、店頭にミシンを置いてマネキンが縫物をしていました。
足踏み式ミシンの足踏み部分だけが動いていて丸く輪になった布をマネキンが延々縫っているのです。当時としては斬新! 子供の目を引くには十分ですもの よ~く覚えています。
最初、色は黒くて手で回すところは車輪のようで胴体にはくびれがあったミシンは
カラー化し胴体が真っすぐになり…… 私の最後の記憶は机状ではあるが足踏み式ペダルでオンオフができる電動式になって マネキンはひざ掛けをして全く動かなくなってしまった所までです。 その後はマネキンというか店そのものがなくなったと思います。
さらに先に進むと四方を建物に囲まれた小さな広場に出ます。当時は建物のほぼすべてが映画館でその中にはコマ劇場もありました
このコマ劇場ができる折には父も仕事でかかわっていて
「会社がコマのような劇場を計画している、舞台が丸くて回るらしい」
と聞いて 少女(私)の頭には巨大な本物のコマが描かれてしまい
〝演者さんたち大変、怖くないのかしら〟と思ったのであります
この広場には小さな池(噴水だったかも?)があってその横にベンチや国旗掲揚台がありました。覚えていないけどいわゆる〝旗日〟祝日には国旗が掲揚されていたのだと思います
国民の祝日にはバスや電車も正面に小さな日の丸をバッテンの形でつけ
学校や役所はもちろん個人の家の門にも国旗が掲げられるのは普通の風景
でした。いつから消えたのか分かりませんが。
早慶戦で早稲田が勝つと祝杯に酔っ払った早大生が池に飛び込み掲揚台によじ登って大騒ぎをするのも恒例で そのたびに新聞に載っていました
私の育った町は早稲田に近かったので、もっと昔には早稲田が勝つと町の
人たちがちょうちん行列をしたんだと聞きました
大学というものが特別だった時代なんでしょうね
その さらに外側には いわゆる二丁目、三丁目のディープな世界があったのかも知れませんが、その辺は当時の私には知る由もありませんでした
その映画館の上にアイススケートリンクがありました。
そうです中学生の私は 歌舞伎町にアイススケートしに行ってたのです
電車賃が往復20円 滑走料+貸スケート靴2時間で確か150円 30円でお菓子や飲み物を買って ちょうど200円 ここで当時他ではなかなか食べられない肉まんを食べるには10円足りない う~ん じゃ帰りは電車に乗らずに歩こう なんて
時代でした
こっそり告白しますと グループで行くのですが 下手っぴの私はここでだったら手をつないでもらってても誰も何も言わない ドキドキのお相手と… うふふ
まあ、お互い手袋してましたけどね
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