第2話 ルキフグス
万人の目を例外なく奪うーーーーーーきらびやかなシャンデリアが、古代中国の王宮を明るく照らしている。此の場所で繰り返される品行が悪くて、悍ましくて、陰鬱な悲劇を、嘲笑うかのようにーーーーーー
古代中国の王宮で、一人の女が幼気なエルフの子供に迫っていた。ーーーーーー透明感と独特の「飄逸感」があり、長い袖・襟・襦・袴が、歩く度に揺れるような形状の豪華な服を着たーーーーーー美しい女であった。その女は見目麗しい容姿に艶めかしい声だが、内面は残忍な毒蛇である。 華奢なエルフの子供の足は、二本の棒のように動かなかった。
自らの意思で望んで王宮にやってきたわけでも、ましてや好き好んで逃げないのではない。
逃げたくても、逃げられないのだ。
「ねぇ、兎さんーーーーーーー」
赤ずきんを虎視眈々と狙い、お婆さんを喰らい、変装した悪い狼すら尻尾を巻いて逃げ出しそうなこわい目をした女が、エルフの子供を『兎さん』と呼んだ。その女の声は、身の毛もよだつ怖さと貞操の危機を感じさせる艶めかしさを併せ持つという有り体に言えば、聞く者を絶望させる女声であった。
「ねぇ、わたくしのエルフ兎さん、わたくしと肌を合わせましょう♪ 嫌って言うならそなたの
……お返事は?」
エルフの子供がもし仮にエルフではなく草食動物か何かならば、幼少期に、とっくに他の獣に捕食されていたであろう。もっとも、エルフも決して強い種族ではない。エルフとは、耳が尖っていて、魔法が得意で、容姿端麗で、清らかな心を持っている故に抵抗することすらも知らず、人間族の国家『漢』の大規模な侵略を受け、住んでいた村々を焼かれた儚げな種族だ。
「……………………………………………」
エルフの子供は、女への恐怖で金縛りになったばかりか、喉に美声がひっかかり、うまく声を発することができない。
「何故返事をしないのかしら? 真逆、そなたは、まだわからないのですか?」
女の拳が、エルフの子供の左の頬に当たった。道理に反する暴力であった。可憐なーーーーーーーとそう表現してもよい風情が、エルフの子供の瞳と姿勢とにあった。加虐趣味のある女なら、たちまち性欲を換気したであろう。
花のように美しいエルフの子供であった。
人間の女の拳は、大岩など容易く砕いてしまう。女はそんな拳で、幼いエルフの子供を躊躇なく殴ったのだ。
無論、手加減など皆無であった。
エルフの子供の骨が木っ端微塵に粉砕されていないのが、奇跡のようだ。
「きゃっっっ!」
ただでさえ高く済んだ声をしたエルフの子供が更に甲高い声を上げた。
第三者であればあまりにエルフの子供が哀れで耳を塞ぎたくなるような悲鳴であった。エルフの子供は、一回転し、壁に衝突した。ごつんと、エルフの子供の後頭部が、壁に衝突したのである。
「そなた達エルフは、人間族の雌の戯具として利用価値がありました。それ故に戦争に負けた身でありながら、絶滅を免れこうして生き延びているのです。」
※古代中国の世界における雄や美少年とは、通常の雌以上に雌としての特徴や性能の強い雌を指す言葉である。当然、筋肉は殆ど無く、声も銀の鈴をふるように美しい。しなやかでふっくらとした身体つきをしており、妊娠は勿論、出産や授乳も可能である。
「我ら人間族は皆、そなたらエルフよりも高尚な生き物ですが、特に高尚なのはわたくしのような人間族の雌です。人間族の雌の戯具に過ぎぬそなたにとっては人間族の雌の長、皇帝たるわたくし、『霊帝』に性の快楽を与えることこそ、この上なき名誉のはずでしょう? 何故それがわからないのですかと問うているのです。」
霊帝は威圧するように問いかけた。
「へ、へいかは……な、な、な、何か……か、勘違いを……なさっているようですわね。わ、わ、わたくしは、陛下と……お会いできて……嬉しいです。陛下との、まぐわいだって……大変な……名誉と……心得ておりますわ。お父様もお母様も名誉とお教えくださいましたわ。わたくしは聡明なエルフの娘でございますから」
エルフの子供は、弱々しく頷いた
一生懸命、声を振り絞り、霊帝に進言したのだ。
「ほう、そなたはわたくしとのまぐわいを名誉と心得ていると申すか。ならば何故ーーーーーー」
左の次は右のパンチであった。
傲岸不遜な霊帝が人間でもない者の言葉に耳を傾けるはずなんてない。エルフの、ましてや子供の進言に意味などなかった。
「きゃっっっっ!」
「喜色満面の笑みを未だに浮かべぬのですか? 先程より随分と挙動不審ですが……己の影に怯えるうさぎのように臆病なそなた達エルフといえどもそなた程たじろいでおる者はいまだかつておらなんだ……さては……そなた、わたくしとまぐわうのはいやと申すか?」
霊帝の恐ろしい声に冷酷さが更に増した。
理不尽な尋問と暴力であった。
エルフの子供の目には涙が浮かんでいた。
エルフの子供は、再び一回転しつつ弱々しく首を横に振る。
「偉大なわたくしの深淵のように深い隠し所が、そなたと同じ様にちっぽけなそなたのアソコを入れるのです。名誉に思いなさい。光栄に思いなさい。もう少し笑いなさい」
霊帝の声がやや優しくなった。
エルフの子供の心はすでに折れていた。
エルフの子供はもう、笑うことも泣くことも出来ない。
「さぁ、そなたの陰囊を出しなさい!
さもなくばーーーーーーーー」
霊帝は言い終わる前にエルフの少年に蹴りを浴びせた。力いっぱい腹を蹴ったのだ。
ごふっ、という音がした。
エルフの少年がとうとう血を吐いた。
こんこんとエルフの少年は全身を揺らして激しくむせた。エルフの少年の華奢な身体が赤黒く染まっていた。
「そなたのような頭の鈍い童には、身体に教えてあげるのが一番ですわね。わたくしに逆らうとどうなるか、お解りでしょう?」
霊帝は、嗜虐的な笑みを浮かべた。
自分の殴っている相手が、不様になればなるほど、陰惨な状態になればなるほど、比例するように獣じみた情動をアップさせる者がいる。
霊帝がそういうタイプの人間であった。
本人には『わたくしは龍の血族です。下等な人間と一緒にするな死刑にすんぞ』と言われてしまうだろう。
「では、改めて肉体の交わりをいたしましょう
大人しくわたくしと番うのです! 邪魔な衣など破いてしまいましょう」
霊帝はエルフの子供の纏っていた衣を恐ろしい怪力で破いてしまった。
「フフッ……そなたの隠し所を目にする日をわたくしは待ち焦がれていましたよ」
霊帝がエルフの子供を犯そうとした刹那の
「罪無き乙女を傷つけ責め苛む悪の芽よ、花を咲かせる前にもがせていただきます!」
クレオパトラ、褒姒、楊貴妃、小野小町、西川由奈……古今東西のあらゆる美女を等しく誘惑し靡かせるような色気ある声が宮廷に響き、続いてびゅう、という音が流れ、それは飛んできた。
無論、風ではない。
「な、なんじゃ……この耳に心地よき色気ある声は……まるで、王子様がわたくしを抱擁しているような気分だ……。ええい、そのような魅力的な声でわたくしを拐かすとは不届きな奴め……ふん、わたくしにはこんなものかすりもせぬわ」
それは、飛燕の早業であった。霊帝は、天井から聞こえてきた色気ある声に一瞬聞き惚れており、傍から見れば、明らかに隙だらけであった。明らかに隙だらけにも関わらず、目にも止まらぬ速さで飛んできたそれを霊帝は平然と避けたのだった。
投擲武器だろう。
常人どころか厳しい鍛錬を積んだ屈強な武人すら普通は避けられない。
然し、恐ろしいことに霊帝は平然と避けてしまった。
「飛んできたのは、柳葉飛刀か? いや、違う。真っ赤な薔薇のナイフだな……」
霊帝は飛んできたものを、訝しげに凝視している。
「な、なんじゃお主は!? どこに隠れておる!?」
霊帝の問いに答える代わりに、天上から凛とした声が、エルフの少年に囁いた。
「もう大丈夫ですよ、素敵なエルフのお嬢さん
貴女は今から僕がお救いします。」
「あ……貴女様のその艶々と潤いのあるお声は、素敵な御方の証ですわ。弱きを助け強きを挫くというどこかの王国に君臨する情け深い王子様かしら?」
「はい、ボクは劉備。正真正銘の王子です。愛しい民を、この広い世界を、そして貴女という美しいお姫様をお救いするためにはるばるやってまいりました」
強さと美貌を兼ね備えた勇ましい女が、姿を表すやいなや、宙返りと共に着地した。女は青いサファイアのような瞳を持ち、腰の剣の装飾には真っ赤なルビーが輝くという絵本の世界から飛び出してきた王子様のような気高い姿をしていた。
「エルフのお嬢さん、きっと、ボクの胸の中にいらっしゃい」
「エルフのわたくしを……お救いに来てくださるなんて……この御恩は一生忘れません」
劉備は眩しいくらいに爽やかな笑みを浮かべた。
「さぁ、妖霊なご婦人、僕の微笑みを拝みたければ、そちらのエルフの子供を解放し、この一本の薔薇で我慢してください」
劉備は、どこからともなく一本の赤い薔薇を出すと、霊帝に与えた。
「はいっ……劉備様ァアアアアアアアアアアアアア!」
霊帝が黄色い声を上げた。
どうやら、霊帝は劉備の魅力に夢中らしい。
「は!? わたくしとしたことが……いくら、擲果満車な美少年といえども、このような反逆者にうつつを抜かすとは……」
霊帝は嘆いた。
「いくら当たらぬとはいえわたくしに暗器を投擲するなど身の程知らずも甚だしい。薔薇などいらぬわ。わたくしのほうが薔薇よりも美しいからな。 この、エルフの子供は渡さんぞ!?」
霊帝はせっかく貰った薔薇を床に放り投げた。
「きゃっっっ」
そして、エルフの子供を荒々しく抱きしめたので、エルフの子供が金切り声を上げた。
「おのれ、小童め、わたくしを侮辱しおってからに……。 わたくしをこの国のすべてを牛耳る偉大なる皇帝、『霊帝』と知っての狼藉か!」
霊帝の声が怒りに震えている。
「はい、知っていますよ。王子様は才色兼備です。美しいだけでなく頭も良いのが王子様ですから。東漢第十二代皇帝、霊帝。民の安寧を考えず、傍若無人に振る舞い、理不尽な理由で数多の民を亡き者にしたばかりか、貴女様の悪事を咎めた司祭様を火あぶりの刑に処しましたね」
「フン、わたくしに歯向かう者は、女神様でも男子供でも容赦などしない。小賢しい司祭は焼き殺すことで、天国とやらに送ってやる」
「その倨傲、仮にも皇帝の地位におられながら何と不埒千万なのですか!。王たる者は常に民の安寧を最高の法律として、臣下の訓戒に耳を傾けるのが、世界の理。苛政は魔獣よりも猛きものです。ましてや、民を思いやらない絶対王政など言語道断。」
エルフの子供が心の中でつぶやいた。
(劉備様……格好いい!)
「魔獣には魔獣の優しさがありますが、苛政にあるのは暴君の身勝手のみです。民を思いやらない政を行ったばかりか懇篤かつ無力なエルフ族の人達の平和を壊した挙げ句、そちらのエルフのお嬢さんを囚えて、恥ずかしめるような、落花狼藉をはたらくとは……」
(わたくしが、裸であることには、どうか、触れないでください)
「フン、エルフ族は我々人間族との戦争に負けた敗者なのだ! 敗者とは勝者に従うもの。ならば、勝者である人間族の長たるわたくしに美少年を献上するのは至極当然ではないか!?」
「ええ。そうです。戦争においてはギリシャ神話の時代からそれが当たり前です。ギリシャ神話に登場する正義を司る女神・テミス様でも、貴女の理屈には一定の理解を示してくださることでしょう。貴女の犯したその悪逆無道……例え正義を司るギリシャ神話の女神テミス様が見過ごそうと……ボク、劉備が、天下万民を愛する王子様が、決して見過ごしませんよ!」
「りゅ、劉備殿だと? 今、劉備殿と申したか?」
霊帝は一瞬たじろいだ。
「こ、こ、こんなところに劉備殿がいるはずがないではないか!劉備殿の名前を騙りわたくしを欺こうとは片腹痛い奴だ。者共、いでよ!」
一人。
二人。
五十人。
五百人
五千人
五万人もの号令をくだされた衛兵たちが
ぞろぞろ
ぞろぞろ
ぞろぞろ
ぞろぞろ
ぞろぞろと出てきた。
「お逢いできて光栄です。百戦錬磨のつわものの皆さん、貴方方のような」
「僕がちらりと流し目を送れば、一つの街を支配するお嬢さんが夢中になって我を忘れ、街が滅びてしまいます。」
劉備は、蘭陵王さえ凌ぐ程の、まるで彫刻のような美貌をしている。その美貌を直で目に焼き付けていながら、兵士たちは一切動じておらず、気絶もしていない。
「ほう、随分と乱暴なのですね。この顔を傷つければ後悔するのはご自分であることも知らずに、僕を取り囲もうだなんて……お仕事、ご苦労様ですね」
夥しい数の衛兵達が劉備を取り囲んでいる。
海辺の砂のような数の衛兵が出てきては流石の劉備も絶体絶命のピンチだ!。
……ピンチのはずだが、何故か劉備は全く動じていない……。
「お可哀想ですが、お嬢さんをお救いするためです。純粋無垢で清楚でお可愛らしいエルフのお嬢さんをお救いするために……」
『気絶していただきますよ』と言いながら、衛兵たちをぎらりと睨んだ。
青春の美の結晶のような擲果満車の美男子すら劉備と比べれば、そこらへんにいる平凡な若者にしか見えない。
その劉備が、美貌を歪めて衛兵たちを、睨みつけたのだ。
すると、その時、流石の霊帝も心臓が飛び出しそうな出来事が起こった。心臓が飛び出しそうになると同時に歓喜した。
……劉備の迫力と威圧感が不思議を引き起こしたのだ……。
「これは……面白い!」
霊帝が薄く笑った。
ばたり
ばたり
ばたり
ばたり、 劉備に睨まれた衛兵たちが、直接劉備と戦うことも、指一本触れることもなく、ただ、劉備に睨まれただけで、一人残らず倒れていくではないか。
「この女の……気迫は……わたくしと同等ではないか……? 真逆、こやつは……真に前漢の景帝の子・中山靖王劉勝の末裔にして彼の五帝の一人、黄帝の転生者・劉備殿なのか!?。もしも、そうであればわたくしを楽しませてもらおう!」
劉備は指一本触れてなどいない。
ただ、劉備の内に眠るごく僅かな獣のように攻撃的な殺気を少し浴びせただけだ。
それだけで、過酷な戦闘訓練を積んだ屈強な衛兵たちが
ばたり
ばたり
ばたり
ばたり
ばたり
ばたり
ばたり
ばたり
ばたり
ばたり
ばたり、ばたり、ばたり、ばたり
ばたりと白目をむいて倒れていく。
「これは……実に面白い。貴様、やはり只者ではないな。貴様のような強者こそ、わたくし自らの手で殴り殺すのに不足はないな……」
霊帝が、大きな石を殴った。
飼い猫ほどの大きさの石である。
いや、『殴った』と断定するにはまだ早いかもしれないが、『殴った』ことは明確である。
霊帝に殴られた大きな石は、一瞬にして消えた。
今まで、誰も触れてはいなかったが、霊帝の部屋にはいつも大きな石が置いてある。
然し、霊帝が触れた途端、大きな石は雲散霧消する。
まるで、そのような石など最初からなかったかのように。
劉備は「おやおや、竜の鬚を蟻が狙うとはこのことですね……石を粉々にできる怪力があるからと言って僕に勝つことはできませんよ。霊帝ともあろう御方が御自分の実力も弁えないとは片腹痛い」という唇の形を作った。
「フフッ……怖気付いて声も出まい」
霊帝が握り拳を反対の手で包み込んで「ポキポキ」という小気味よい音を鳴らし始めた。
「さぁ、死ぬる覚悟は良いか? 全身に釘を打ち込まれるほどに恐ろしい苦痛が貴様の肉体を貫くのだ!」
獲物に襲いかかる肉食獣のように獰猛な霊帝の目が不気味に光り、岩をも砕く拳が劉備に襲いかかる。
(女神様……劉備様を……劉備様を……どうか……どうか……お守りください)
エルフの子供が切に願った。
その願いも空しく、目にも止まらぬ速さで、死の拳が飛んできた。
「フフッ……我が拳に敵なしよ」
霊帝はほくそ笑んだ。
劉備は、囚われお姫様を救う王子様は、此処で撲殺されて死んでしまったのだろうか?。
「確かに死ぬるにはちと惜しい花のような顔立ちの持ち主ではあったが、わたくしに歯向かった罰は受けねばならないからなぁ。粉々に粉砕して肉の最後の一片も残さずに滅ぼしてやったわ!」
霊帝が勝ち誇った表情を浮かべた。
(劉備様は……劉備様は……劉備様は……劉備様は……跡形もなく消えてしまわれたのね……)
エルフの子供が静かに絶望した。
エルフの子供が瞼を閉じて静かに絶望していると……不意にこんな声が聞こえてきた。
老若男女問わず聞き惚れる王子様の声だ。
「霊帝陛下、勝ち誇っていらっしゃるところ、大変申し訳ありませんが……貴女のパンチは……避けさせていただきました……」
「ば、馬鹿な!? そんなはずはない! わたくしの拳に叶う者など兎角亀毛よ!」
にわかには信じがたいが、奇奇怪怪なことに劉備は、霊帝の拳を避けていたのだ。
なんと、常人どころか武勇に優れた筋骨隆々の豪傑さえ、当たれば怪我では済まされず、避けようにも避けきれない程に強力で、高速な霊帝の拳を、劉備はひらりと避けたのである。
「おのれ!おのれ!おのれ!おのれ!おのれ!おのれ!おのれ!おのれ!」
劉備は、まるで軽快なステップを踏むように楽しげな足取りで、拳を避けた。
「おのれぇええええええ! こしゃくなぁあああああああああああああああああああああああ!」
霊帝はまた飛燕のような速さで、神話の英雄をも即しさせてしまいそうなくらい強烈な拳を振るうが、劉備にはかすりもしていない。
劉備は、ひらり、ひらりと優雅に華麗に拳を避けた。
「やだなぁ……当たらなければ意味のない拳では僕は、殺せません。第一、僕は貴女如きと戦って死ぬのはいやですよ」
劉備は拳を避けつつ、意外なほどに軽率な口調でそう言った。
「だって、どうせ死ぬならもっと強くて優しい人とのお姫様を賭けた決闘で討ち取られたほうが……王子様の名誉になりますから……」
劉備は一言、付け加えた。
「奢侈を尽くすだけの我儘な女王様である貴女に討ち取られるのは御免ですよ」
「ほざくな! このわたくしをこうまでも侮蔑するとは、忌々しい奴め! 貴様を殴るのはやめだぁあああああああ! ……この大剣を……この大剣を……数十回にわたって突き立てた末に、貴様を真っ二つにしてくれるわ……!」
霊帝は怒りにぶるぶる震えながらも、狼のように残忍な笑みを浮かべ、懐に隠していた大剣を取り出した。
「おぉ、こわい。こんな剣で斬られるくらいなら全身に打撲痕を負ったほうが苦痛が少なそうですね~ さっきのパンチ、避けなきゃよかったなぁ」
言葉に反して劉備は、さほど怖がっていない様子である。
「全く、こんなに大きな剣で斬りかかられたら、ワイバーンやベヒーモスでもただではすみません……」
劉備の口調は棒読みだ。然し、劉備の棒読み口調に反して、 懐に収まるのが不思議なくらいに巨大で、外見からもその破壊力のうかがえる錆びついた大剣であった。
(どうか……どうか……劉備様への乱暴はもう、おやめください! 劉備様は、わたくしをお救いに来られただけです。どうしても、どうしても、劉備様が気に入らないなら代わりにわたくしを……)
エルフの子供が心のなかで悲痛に叫んだ。
180cm近い大きさから察するにその重量は一万三千五百斤(約8トン)を余裕で越えるだろう。
(嗚呼、女神様……劉備様を……劉備様を……お守りください……)
エルフの子供の祈りもむなしく、霊帝が……雷神トールのような怪力で大剣を軽々と持ち上げ、疾風迅雷の勢いで、劉備に斬りかかってきた……。
「きゃああああああああああああああああああ」
エルフの子供が絹を裂くような悲鳴をあげる。
果たして劉備は、お姫様のようなエルフの子供を救った名も無き王子様は果たして無事なのだろうか?
「僕は大丈夫です。言い忘れちゃいましたけれど、少し目を瞑っててくださいね」
劉備の声はエルフの子供に耳打ちしたが、エルフの子供は既に目を瞑り、何も見ないようにしていた。
「フフフ……」
劉備の不敵な笑い声が聞こえる。
「貴様ァ……何が、可笑しい!? このわたくしを侮慢するとは、命知らずな奴よ!」
「まだお気づきになられませんか? いやだなぁ~。僕はね、貴女が剣を抜いてくださる瞬間を待っていたのですよ……」
「フン、今宵、わたくしの大剣は血に飢えているのだぞ……それに、まだ気づかぬとは愚かな奴よ」
「その、愚かな奴とはあまり深く考えていない人のことですか? それでは、あまり深く考えていないのは、貴女のほうですね」
「何ぃ!?」
「ほら、先程まで貴女が抱えておられたお嬢さんは何処に行ってしまったんでしょうねぇ~」
霊帝はいつの間にか、エルフの子供を解放していた。
「エルフのお嬢さんはお救いしました。ボクの腕に抱かれているでしょう?」
「そ、そんな……馬鹿な!? 」
霊帝は一瞬おのれの耳を疑った。
「わたくしの拳を避ける者が在るだけでもありえんのに……馬鹿なことばかり在るものか……」
然し、よくよく目を凝らしてみると……
「ま、まぁ……劉備様ったら素敵すぎますわわたくしを救ってくださったばかりか、抱きしめてくださるなんて……♥」
エルフの子供が目を閉じたまま、口元に恍惚とした表情を浮かべた。
霊帝に向けられた殺意にも動じず、劉備は喜色満面の笑顔であった。
エルフの子供は劉備にお姫様抱っこされているではないか。
「霊帝陛下、エルフのお嬢さんはお救いしました。よって、もう貴方様にごようはありません、それでは、ごきげんよう。何度も言いますけれど、僕は貴女如きに殺されたくありませんので、風を喰らうように逃げさせていただきます。貴女は僕に追いつけないでしょうしね!」
「こ、こやつめ……何処へ行く!?」
霊帝の追跡も虚しく劉備王子は、エルフのお姫様を抱きかかえ夜の闇に溶け込むように消えていく。
本当に泡を食ったような見事な逃げっぷりである。
王宮の遥か彼方のーーーーーー厳しい常人は疎か、鍛錬を積んだ武人すらも馬がなければ到底たどり着くことの出来ないーーーーーーとある平原ーーーーーー空を見上げれば、満天の星を心ゆくまで堪能できるーーーーーーの闇の中に、一瞬であまねく乙女を虜にする王子様の影と王子様に抱かれた可憐な美女の影が浮かび上がった。
劉備王子とエルフの子供兼お姫様(美少年ともいう)であった。
「さぁ、もう、目を開けていいですよ。霊帝閣下は悪い狼でしたが、可愛い貴女を召し上がりたいからって、こんなに遠くまで追いかけてくるほど、腹ペコではありませんよ」
「劉備様、ごめんなさい。」
「どうして謝るのですか? 貴女のような純真無垢で天使のように可愛いエルフのお嬢さんに何の過ちがあるというのですか?」
「わたくしは……わたくしは……エルフ族の女の子です。人間の皆さんに隷属され、虐げられてきたエルフ族の私を救うために、人間の族長である霊帝に立ち向かうということは、即ち人間を裏切ることです。即ち、劉備様が同胞を裏切ってまでエルフ族の娘を助けてくださるということは、蜘蛛の巣で石を吊るようなものです。」
「いつか……劉備様が……わたくしを救ってくださったことで……霊帝に囚えられ……処刑されてしまわれれば……わたくしは……劉備様の艶々と潤いのあるお声 を……二度と聞けなくなってしまいます……」
「エルフのお嬢さん、顔をあげて、笑顔をお見せください。貴女の美貌に涙は似合いませんよ」
「いくら霊帝殿といえどもそう簡単にボクを闇に葬ることはできません」
劉備は破顔一笑した。
「劉備様……」
胸のときめきを呼び起こす爽やかな笑顔であった。
「エルフのお嬢さん、ボクには、貴女という護るべき大切な
「もう、劉備様ったら、頼もしすぎですわ♥」
2世紀後半ーーーーーー政治の腐敗と重税により、貧苦にあえぐ農奴が増えてばかりの漢王朝末期。人間界の北部、冀州・鉅鹿群の山道を、下級冒険者がギルドから支給される衣類さえ豪勢にみまごうほどの貧相な着物を着た男が歩いていた。
男は名を張角という。ふもとの村で弟の張宝・張梁とともに牧場を経営することで、なんとか生計を立てていた。今は冬のために家畜に食べさせる肥料や牧草を手に入れることもできない。弟たちは商人の荷物運びを手伝いながら、ようやくその日のサンドイッチや肉入りスープにありついていた。
この日、張角は山へ薪をとりにきた。薪を売れば銅貨ではあるものの多少はお金がもらえるからだ。ときの権力者・霊帝は、その人格、皇帝の器にあらず。女神の教えを蔑ろにして、醜い領土欲のためにエルフやドワーフ・ホビットの暮らす平和な土地を次々と侵略。エルフやドワーフ・ホビットを虐殺したばかりか、人間のためにご飯になってくれる生命あるものに感謝し、食事前の『いただきます』をせず、生命ある者に感謝して『いただきます』をする自国民を皇帝への反逆罪で投獄。皇帝の傍若無人な振る舞いを優しい言葉で咎めながらも、皇帝を救おうとした敬虔な司祭達を火あぶりの刑に処し、侵略した亜人種族の美少年(霊帝は特にエルフのような婉娩聴従かつ無抵抗な種族の美少年を犯したがる)を要求しているという有様である。朝廷では佞言や賄賂がまかり通り、民のことなどまるで気に求めない役人や宦官たちが連日奢侈をつくす。悲しいことに豪華な具材の入ったサンドイッチや巨大な骨付き肉を食べているのは、いつも悪人、悪人、悪人ばかりだ。 何しろ爵位すら金貨で売買されている。公爵・侯爵・伯爵どころか清廉潔白な模範的戦士のみが名乗ることを許される名誉階級、騎士にすらも金貨さえ積めば、心の汚い貴族でもなれるのだから始末に負えない。こうして、爵位を買った悪人達が、更に贅沢をしようと民に高い税金を払わせ、賄賂を要求するという有様だ。世の中は乱れる一方であった。
全ては漢王朝の政治の腐敗のせいだ。
(僕に力さえあればーーーーーー)
張角はいつもそう思っていた。
この腐敗した漢王朝を倒すには、どうしても力が必要なのだ。圧政に苦しむ農奴の数は、朝廷にいる役人たちの数よりも圧倒的に多い。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアア
たすけてええええええええええええええ
おめめが、ぼくのおめめめがぁあああああああああ」
極めて甲高い子供の悲鳴が森中に響いた。
ホビットの子供の声であろう。
木に止まっていた鳥達が、一斉に飛び立ったのは、子供の悲鳴の大きさゆえではない。
子供の悲鳴が余りにも可哀想だからだ。
子供の悲鳴が悲痛な理由とは、冷酷な眼差しをホビットに向ける人間族の男が、ホビットの子供の両目をえぐり出したからである。
えぐり出されたホビットの子供の目玉が、二個とも地面に転がっている。
男は服装から推察するに下級役人であろう
「だ、だいじょうぶ!? 坊やの大事なおめめが……おめめが……地面に……今、おじさん達が拾ってあげるから、安心して。目玉さえあれば、ホビット一上手なお医者さんが、絶対治してくれるからね」
あまり知られてはいないが、ホビットの医術は人間の医術を遥かに上回る。
「こわいおじさんに、こわいおじさんに、ぼくの、ぼくの…………おめめが…………………」
ホビットの大人が二名、子供の前に走り寄ると
「ぎゃっ、、、、、」
「ぎゃあ、、、、、、」
一人ずつ、残忍な笑みを浮かべた男に腹部を蹴られた。ホビット族の子供の目玉が、二個地面に落ちていた。
凶悪な暴力であった。
「これは………………これは…………一体、どういうことですか!? あの子は何故黒くて綺麗な瞳を喪わなければならなかったのですか!? わ、わ、わ、わたしたちホビットが…………………………なななななななな、ななななな、何をしたというのですか!?」
血を吐きながら一人が問うた。
「あの子が、あの子が可哀想ではないですか!?
私達大人への暴力は仕方ありませんが、坊やへの暴力は我慢できません」
残りのホビットの大人達も次々と声を張り上げた。
「何故あの子にあのような酷いことができるのですか!?」
「貴方方大きい人(=人間族)には心がないのかしら!?」
「あんたら人間族は外道か! 近いうちに女神様の怒りを受けろ!」
「そうだ!」
「そうよ!」
「彼の言うとおりだわ!」
「何故、あの子が両目を喪わなければならないのか、我々にお教え願いましょうか!」
役人ーーーーーー千葉一伸氏そっくりな声をしていたーーーーーーは、嘲笑した。
その嘲笑には怒りと殺意が明らかに含まれている。
「簡単だ。あの餓鬼がホビットの分際で俺に無礼をはたらいたからだ! 俺は朝廷の役人様だぞ!?。朝廷の役人様である俺の目の前を横切るとはあさましく厚かましい餓鬼だ。大方、大人の貴様らが教育を怠ったからだろうがな。」
哀れな大人のホビット達の全身が恐怖に支配され
た。
「貴様らの監督責任だ。今しがた俺に生意気な口を利いたことも含めて万死に値する。死ね」
役人は、屈刀を取り出した。
「さぁ、真っ先に斬り殺されたいのは、誰かな?」
ホビット達は顔を見合わせた。
(虐げられたかわいい坊やの復讐さえ果たせないあたしに女としてホビットとして生きている資格なんてないわ。せめてあの子の苦しみを貴方に分からせてやらなきゃ)
(消えかかってる男の子を見殺しにしたら私はこの先女として弟にもお父様やお母様にも顔向けできないわ)
(私達ホビットは貴方達に今まで何をされても笑って許してあげてきたけど、坊やをいじめるのを赦すなんて女がすたるわ! どうせ死ぬならこの男の人に仕返しをして死のうかしら?)
(ボクは穏やかなホビットだけど、子供をいじめるあなたを許せない)
(僕は死んでもあの子の復讐をするんだ! 僕たちホビットは、酒や食い物をぶっかけられようが、
つばを吐きかけられようが、大抵のことは笑って許してあげよう。たっぷりの食事と温かい暖炉を奪われても、僕は笑って許してあげよう。だが、子供をいじめた貴方のことは許せない!)
(元々住んでいた洞窟があった土地を奪われて、したことのない農奴にされたまではまだいい! 許せないのは子供の目玉が彼にえぐり出されたことだ! ただ目の前を横切っただけで子供がこんなに酷い仕打ちを受けるなんて間違っているよ!
ぼく達ホビットに死ねというのか!)
心のなかでそう思いながらも、皆、身体はもがくように生を求める。
男への憎しみを募らせながらも、肉体を恐怖に支配されている以上、誰一人男に立ち向かえやしないのだ。
ホビットは人間族よりも圧倒的に身長が低い。
身長が低いので、言うまでもなく非力なのだ
戦闘経験のない人間族の子供にだってホビットでは勝てない。ましてや戦争に駆り出されることも多く、戦闘に慣れた百戦錬磨の朝廷の役人には、たとえ奇跡が起きても勝てないだろう
「もしもホビットを殺すなら僕を殺せ! 仲間には手を出すな!」
役人に『あんたら人間族は外道か! 近いうちに女神の怒りを受けろ』と啖呵を切ったあのホビットが勇敢に言い放った。
「だめだ。愚かな仲間や子供を護ろうと俺に喧嘩を売る猪突猛進さを称え、命だけは見逃してやろう。せめて体を大事にしろ。貴様には未来がある。惨めな農奴としての未来がな」
役人は、歯をガタガタさせている一人のホビットに目をやった。
「可哀想に。怯えているのか? 」
役人は子供に言い聞かせるような優しい声を発した。
「だが、これ以上恐れる必要はない」
「安心しろ。今から死ぬのは貴様だ。死んでしまえば死の恐怖に怯える必要など無いではないか!」
刃が、ホビットの肩口から、鎖骨を絶ち、肺臓を抉り、肝の臓に土足で潜り込んだ。斬られたホビットは声も出せなかった。周囲のホビットは仲間の復讐を果たさんと役人の隙を伺ったが、そんな隙など無い。斬られたホビットは「ぐええええっ!」と、叫んだつもりであったが、口から生暖かいものが、ほとばしり、それがざぶりと自身の顔にかかった。
それは偏執狂的な殺戮であった。
仲間の死に戦慄するあまり、ホビット達のココロは半分壊れかかっていた。
漢王朝の役人の暴虐はますます、醜悪を極めた。
漢王朝の役人が、ホビットの女の頭部を、頭頂から首まで刀で両断する。次の一閃で、すでに両目を奪われた子供の首を跳ねる。首を跳ねる直後、「可哀想だが、貴様は両目を失った後、直ぐに命までも失うのだ。恨むなら、貴様への教育を怠った親を恨め」という言葉の暴力までも浴びせた
「殺すなら僕を殺してくれ」
「わたしを殺してちょうだい」
「僕を殺すんだ」
「あたしを殺して」
「僕を斬ってくれ」
ホビットたちはほとんど意味をなさない叫び声をあげている。貴様らホビットはグズでノロマでどうしようもない同族がそんなに大事なのか……半分心が壊れかかっていても、尚、仲間を庇うホビットの本能を漢王朝の役人は冷笑した。
さて、張角は薪を背負っていた。
ちょうど、薪を取った帰りであった。
穏やかな笑顔を絶やさない線の細い美青年が、怒りと衝撃で彼としては極めて珍しく眉間にしわを寄せた。
「ホビットくん!?」
というのも山を降りる途中に立ち寄った森で、偶然にもホビットに起きた惨劇を目にしてしまったのだ。
張角は今、多少離れてはいるが、頑張れば徒歩でもホビットに到着できる距離にいる。
「貴方は……何をしている!? ホビットくんの命を……なんだと思っている!?」
張角は、重い薪を背負っているとは思えないスピードで、一気に役人に駆け寄った。
張角は怒りのあまり、顔が青ざめていた
「うん? 何だお前は? 何を騒いでいるのやら?」
役人は首を傾げた。人間族がホビットの擁護に現れるなど本来荒唐無稽なことなのだ。
「張角様、私達ホビットを見捨てて今すぐにお逃げください!」
ホビットの生き残りが小さいながらよく通る声で張角に忠告した。
「そんな……僕には……君達ホビットを見捨てるなんてとてもできないよ!」
張角の声は哀しみで震えていた。
役人は至近距離に居るのにホビットと張角の感動的な会話が聞こえていないらしい。
聞こえていないと言うよりは聞こうとする意思がないのだろう。
「ちょうどいい! 人間同士お前も俺と一緒に楽しもうじゃないか! デミ・ヒューマンの分際で人間様に減らず口をたたく
役人は声を高くした。
「ふざけるなぁああああああああ!」
張角は激情に駆られた。
若さ故に冷静な判断が失われていたのだ。
張角は騎士物語の英雄のように凛々しく剣を携え、疾風迅雷の如く斬りかかった。
「ほう、他愛なしだな。」
運命は無情であった。
張角の剣は届かなかったのだ。
「そなたも人間ならば解るはずだ。強き者が世界を手に入れる……当然の理であろう。我々人間は強き者だ。この世界を統べるのは我々人間なのだ。」
役人は悪辣な笑みを浮かべた。
「これはあくまでも、弱者でありながら、分をわきまえずに我々人間に逆らったホビット共の落ち度ではないか?」
……その言葉とともに、無慈悲な刃が閃光を走らせ、張角に襲いかかってきた……。
「張角さん!?」
「」
「」
ホビット達は口々に強い言葉で役人を非難した。
自分達ホビット族は亜人種だ。
人間族に虐められるのは仕方がない。
ホビット族は人間族とは別種族だからだ。
然し、役人と同じ人間族でありホビット族の恩人であり竹馬の友でもある張角が、ホビット族の恩人というだけで、役人に危害を加えられれば、黙っていることも、赦すことも出来ないのであった。
ホビットは穏やかな気質であり、力も弱い種族だ。然し、大切な友達を傷つけられて下手に出るほどホビットは弱くなかった。
漢王朝の役人に痛恨の敗北を喫した張角は、満身創痍の肉体を癒やすために、ホビットの事件の発生した森から少し離れた場所で休んでいた。
ホビットに善い休息の場所を教えてもらったのである。
「ホビットくん達はエルフ族の人達以上に優しくて素直な気質だ。だから……ドワーフやエルフ族よりも酷い迫害を受けているんだね。恐らくは、牧歌的な生活を好む陽気で素朴な人柄を……人間族につけ込まれてしまったんだね……」
ホビット族はたっぷりの食事と温かな暖炉のある我が家を何よりも愛し、くつろぎの時間を大切にする文化を持つのだが、人間族には、その文化を劣ったものと見なされているのだ。
「僕は……人間が……赦せない」
張角には己の無力感に打ちひしがれながら、ただ "人間" を呪うことしかできない。
(僕に力さえあればーーーーーー)
張角は両手のこぶしを強く握った。
ホビット族が、人間族の目の前を横切れば、反逆罪となり、男子供問わず、目玉をえぐり出されたり、鼻や耳を削がれたり、最悪目玉や鼻や耳を奪われた上で首をはねられ、一族も皆殺しにされてしまう。 張角は、人間族ながらホビット族の"保護" と " 救助" を積極的に行ってきたが、今の朝廷が権威をほしいままにしている以上、彼の努力が結ばれることはありえない。
「この世界が憎いですか? 愛しきは我が主、張角様」
すると、張角は不意に、未だかつて聞いたことのない耳が潤う低音ボイスを聞いた。
「あ、あなたは……」
「わたくしはこちらにおりますよ」
張角がふと見ると、そばの石の上に、いつの間にか、一冊の魔導書が置いてあった。
「真逆、あなたは……全然命を持つという伝説の魔導書、大奥義書ですか!?」
「流石は張角様。貴方様の仰る通りでございます。わたくしこそは生ける魔導書、『大奥義書』と申します。張角様に相応しい世界を救済する
張角は本物の魔導書を見つけたことがいまだに信じられず、目を丸くしている。
「それでは、早速貴方様に
「ぼ、ぼ、僕に、悪魔なんかと契約しろって言うことですか!?」
「いいえ、悪魔ではございません。張角様にはそこらへんの低級悪魔ではなく、大悪魔ルキフグス殿と血の契約を交わしていただきます」
「そ、それで血の契約を交わせば……僕は……本当に魔力が貰えるんですか?」
「本当ですとも。ルキフグス殿に代償を払わねばいけませんがね」
「だ、代償ってどんなのですか!?」
「それは召喚してからのお楽しみでございます」
魔導書は、小声で『張角様、ルキフグス殿への代償とは、貴方様御自身の名誉にございます。ルキフグス殿はアスモデウス殿が魔界に反旗を翻したことで、魔界を追放されて以来、アスモデウス殿の後釜として色欲を司っておられる御方です』と告げた。
「今、何か言いましたか?」
「いいえ、気のせいでございましょう
それでは本題に入ります。お覚悟はよろしいかな?」
「はい!」
「まず、ルキフグス殿は穢れなき童貞がお好きです。張角殿はなかなかの色男故に四六時中女性が寄ってくるでしょうが、一週間だけ無視なさってください。悪魔をお呼びする直前の一週間は身を清めなければなりません。」
張角の顔色は死人のように青ざめた。
「そ、そんな……僕に声をかけてくださる女性を無視するなんて……そんな酷いことはできません。僕に興味を持ってくださる方に応えないなんて、それは、僕にとっては最大の艱難辛苦です。死んでも嫌です」
「ほう、それではホビットをお見捨てになられると?」
「そ、それは……」
「よろしいですか? 女性との関係を断ったら、次は食事を一日に二回とするのです。食事の前には悔しいですが女神への祈りを捧げねばなりませんぞ?」
「ど、どうして女神様にお祈りするのが悔しいんですか?」
「いえ、なんでもありませんよ」
「変なの」
「さて、召喚を行う場所は廃墟や古城、今、こうして我々が出逢った山奥等、人の寄り付かない寂しい場所がよろしいでしょう。次に召喚に必要なアイテムをお教えします」
「お願いします」
「召喚には、宝石の血玉髄と処女が作った二本の新しい蝋燭、新品の火桶、ブランデー、樟脳、石炭が不可欠にございます。」
「僕には余り、お金なんて無いからそんな高価な物は買えないよ?」
「ご安心を。わたくしが全てご用意いたしました。ご覧ください」
「え!?」
張角は目玉が飛び出そうになった。
大奥義書の言葉の直後、虚空からいきなり次のような物質が出現したばかりか、空中に浮き始めたからである。
宝石の血玉髄
二本の新しそうな蝋燭
ブランデー
樟脳
石炭がふわふわと漂っている。
「続いては子山羊の皮で細くて長い紐をお作りください。小山羊の皮は、ございますか?」
「うん。子山羊の皮なら僕が持っているはずだよ」
「よろしい。最後は命を散らしたホビットの坊やが眠る棺から4本の釘を拝借しましょう」
大奥義書は、 あの時、無情な運命に翻弄されて死んだ罪無きホビットの死体を収めた棺から4本の釘を超自然的な能力で抜き取った。
「それでは、一週間ほど食事は一日2回までとし、女性との関係をお絶ちください。さすれば道は開かれるでしょう。それでは、一週間の経過をお待ちください」
それは、一週間が過ぎる前日の午後14:00のことであった。
大奥義書は、「張角様、未だかつて果実の実らぬ野生のハシバミの木の枝で魔法の杖をお作りしました。よろしければ、召喚の際はこちらをお使いください」と言って、一本の杖を張角に与えた。
張角は早速手にとってみた。
確かに、少しでもこの杖を触れば神秘的な力に呑み込まれてしまいそうだ。
それは、紛うことなき正真正銘の"魔法の杖"であった。
「これが……本物の……"魔法の杖"なんだね」
張角は思わず感慨深い口調になった。
「ええ、本物でございますとも。本来ならば魔法の杖を作るのは早朝なのですが、現在お作りしても問題はありません」
大奥義書がうやうやしく説明した。
一寸光陰の積み重ねの末、 一日があっという間に過ぎた。
久しく待ちにした悪魔を召喚する日が遂に訪れたのだ。
大奥義書は、張角に魔法円の作り方を説明したが、小難しいので、飛ばしよみをおすすめする。
「貴方が良い子ならば、どうか飛ばさないでいただきたい。魔法円の作り方など中学ニ年生さえも知りませぬ素晴らしく魅力的な知識ですぞ!」
大奥義書が講義した。
それでは、魔法円の作り方講座をご覧ください。
「①子山羊の皮をひもみたいにしたもので大きな丸を作り、四つの場所を釘で留めます。
②次に血玉髄を取り出して、丸の中に三角形を描き、三角形の右隣と左隣に二本の蝋燭を立てます。三角形は上の点から描き始めるとよろしいでしょう。
③魔法円の外側に、上から左回りに大きなAと小さなE、A、Jのアルファベットを記します。ついでに三角形の下には、miyu(大天使ミユを意味する)の聖なる文字を書き、両端に十字架を描くとベストでございます。何故なら、魔法円っぽくて格好いいからです」
「偉大さにおいては、傲岸不遜さえも当然の身振りとなる地獄の女帝よ、全ての存在を糧とする蝿の女王ベルセブブよ、武勇の誉れ高き地獄の大公アスタロトよ、我は女神ソフィアの御名において汝らに命ずる。悪魔大臣ルキフグスを派遣せよ」
雷が轟き、稲妻が走り、大きな黒い雲が現れ、空を覆う。
あまりに厳かな気配に包まれて、張角は息を呑んだ。
「やれやれ、何を驚いていらっしゃるのですか? 張角様とてもうすぐこの程度の天変地異ならば自由自在に操れるようになりますのにねぇ~」
大奥義書が独り言のように呟いた。
いや、実際に独り言なのだろう。
大地がカリブ海の荒波の様に揺れた。
激しい揺れであった。
張角は平衡感覚を失った。
「わぁ!?」
張角は悲鳴を上げて尻餅をついた。
揺れる大地が轟音を鳴らした。
張角は反射的に耳を塞ぐ。
「な、なんですか!? この、男の人をたっぷり性的に食べて、お肉も山盛り食らって、満足して居眠りする雌オーガの鼾みたいな音は!?」
まるで、村々を襲撃し、魅力的な雄や肉を満ちるまで喰らい尽くした末、満足して鱶ほど寝入る雌オーガのごう、ごうという大きな鼾のようにとてつもなく五月蠅い音であった。
「これは!?」
「やれやれ、新しい魔法円が出て来ちゃったら、私による魔法円の作り方講座あんまり意味ないじゃないですか?」
予想外の展開に不貞腐れる大奥義書をよそに張角は、ハッとなった。子山羊の皮で出来たひもで作った魔法円の下に、妖霊な光を放ちながら、子山羊の皮で出来たひもで創られた第一の魔法円よりも巨大で神秘的な第二のそれが、新たに出現した。等身大のコンパスで描かれていくように、ゆっくりと地面に浮かび上がっていく。
虚無より現れし第二の魔法円が光を放ったのだった。
漆黒の闇がわだかまり始めた。
まるで黒い霧が固まるように
何か、と見るうちに、それは色気のある美女の姿になった。
美女はチョコレートのようなやや 黒 みを帯びた濃い 茶色の肌をしていた。
美女はとても豊かな乳房を見せびらかすように胸元を出している。
張角は思わず、美女の胸をちらちらと見つめ、赤面した。
それはそれは、情欲をそそる美女であった。
美女の背中には、翼が生えていた。
尖った爪の付いたコウモリのような翼であった
「わたくしを召喚したのは、そなたね? わたくしを呼んだということはわかってるでしょうね?
わたくしに……大きな対価を払い、願いを叶える覚悟はよろしくて?」
「はい、もちろんでございます。張角様はそのためにわたくしのページをおひらきになりました」
「わたくしは……ルキフグス。女神フレイヤをも凌ぐ我が美貌によって……天地を誑し……悪徳を蔓延らせる大悪魔ですわ……」
「わたくしのおっぱいをもみもみしてくれないかしら?」
「い、今……な、な、なんと……おっしゃいましたか?」
「理不尽な暴力に苦しみ、木の葉のように震えるホビットくんを救えるだけの
「フフフフ……やはり、そなたも
ルキフグスはあっさりと契約の成立を告げた。
「無論、望みを叶える直前にそなたが供物を捧げればのお話ですけど」
「くッ……供物!? は……恥ずかしいのを……我慢して……貴女の胸を……頑張って揉んだ……僕の努力に免じて……代償は……この際免除でも……」
「それはそれ。これはこれですわ。おっぱいをもみもみしてもらうだけじゃ、わたくしは満足しません」
言葉や態度とは裏腹に張角とて既に覚悟はできていた。
ルキフグスから魔力を手に入れるならば、己からもルキフグスに代償を払わねばならないことを。
悪魔と契約を結ぶというのはその状況自体が己にとって諸刃の剣となる。
いかなる恐ろしい代償だろうと張角は払わねばならないのだ。
その代償とは、魂かもしれない。
寿命かもしれない。
あるいはその両方だろうか。
何れにせよ、不本意な原状を変えることができるのは、何かを捨てることができるものだけだ。
「わたくしの唇にそなたの唇を重ねるのよ!」
ルキフグスは扇情的な笑みを浮かべた。
ルキフグスの妖艶な声に相応しい、張角のような石部金吉な男をただの雄に変貌させるには十分すぎる微笑であった
「く……唇を……重ねるですって!?」
(駄目だ。僕にはルキフグスと口づけを交わすなんて……どうしてもできない、ルキフグス様は、たしかに物凄く美人だ。クレオパトラや褒姒みたいな人間の美人だって、ルキフグス様にはかなわないかもしれない。でも、ルキフグス様と口づけを交わすなんて……やっぱり、僕にはどうしてもできないんだ。今はまだ、一方通行の恋ではあるけど、僕には既に関羽さんという愛する女の人がいるんだ……)
ルキフグスは淫乱な夢を見ているかのような気持ちよさそうな声を発した。
「わたくしはそなたのような可憐で清楚でいじらしくて可愛い声で鳴きそうな人間の男が大好きなのよ。そなたのようなくりくりした瞳、真っ赤な唇、高くて柔らかい声、わたくし好みの美少年の条件よ」
それ故にーーーーーーー
「そんな美少年は一匹残らずわたくしの下僕にしてあげるのよ! 蚩尤なんかには渡さないわ!」
「し……下僕!?」
「ええ。そうよ」
「わたくしは女神ソフィアさえ醜悪とみまごうそれはそれは美しき大悪魔ルキフグス様ですわ! ……女の玩具になるより他に何の価値もないそなた達人間の男にとって、沈魚落雁、閉月羞花の大悪魔ルキフグス様であるわたくしの下僕として口づけを交わすという名誉を得られることは、そなた達人間の男にとってこの上なく幸福なことでしょう?」
「一度わたくしとそなたの唇と唇を近づければ、それだけでそなたは……」
" 人なる者"ヲ超越シ"人ならざる者"へと霊的進化ヲ遂ゲルでしょう……
「おやおや、情けないですねぇ~。張角様ほどの擲果満車なお坊っちゃんが、美女悪魔とキスの一つもおできにならないとは……」
二.
「ハァーッ! ハァーッ!」
荒い息の音が黒い森に響く。闇の中に浮かんだ影はまるで、溺れるように喘ぎ、もがくように走っていた。昼間であるにも拘らず、森の中の闇は深く暗い。特にこの森には針葉樹が生い茂っているので、上空から見れば黒く映る。
森とは人間界の中にある異界だ。
魔女。
狼。
レーシー。
エント。
ドリュアス。
世にも悍ましい魔物が潜み、人間の血肉を求めている。
闇に浮かんだ影は、迫りくる死の気配を遠ざけようと懸命に藻掻いていた。
闇に浮かんだ影の命を虎視眈々と狙っている" 何者か" と比ればまだ、森の魔物はまだ大人しい部類に入るだろう。
森の魔物達は、闇に浮かんだ影が、これから死ぬと本能的に察知していたので、闇に浮かんだ影を襲っていないのだ。
森の魔物達は、わざわざ獲物を襲う手間など無くとも獲物にありつけることを察知していた。そこで、じっとあの旨そうな人間の肉にありつける刻を待ち焦がれている。
闇に浮かんだ影とは、 がたがたがた、ホビットを、がたがたがた、虐殺し・・・・・・がたがたがた・・・・・・同胞である張角にさえも・・・・・・がたがたがた・・・・・・襲いかかった・・・・・・がたがたがた・・・・・・あの男であった・・・・・・がたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがた・・・・・・男は・・・・・・がたがた・・・・・・あの・・・・・・がたがた・・・・・・傍若無人な漢王朝の役人とは程遠く・・・・・・・がたがた・・・・・・哀れな程に・・・・・・がたがた震えていた・・・・・・がたがた・・・・・・男の顔は、がたがたがたがた・・・・・・紙のように白くなっており、がたがたがたがた紙くずのように、がたがたがたがた・・・・・・ぐちゃぐちゃになっていた。男の脳裏に・・・・・・がたがたがたがた・・・・・・『絶望』の二文字が思い浮かぶ・・・・・・がたがたがたがたがたがた・・・・・・。
"何者か"の目が、不気味な赤い光を放った。
"何者か"はたった一匹でも、其処に存在するだけで男の全身を冷や汗で濡らすには十分過ぎる。
その"何者か"は、数えるだけでも、
一匹。
二匹。
三匹。
四匹。
五匹。
六匹。
七匹。
八匹。
九匹。
十匹もいる。
いずれも、目から不気味な赤い光を放っていた。
いずれも、深紅よりもなお、血液のような色合いであった。
既に奄奄としているこの男を、"苛烈な殺意" と "瞋恚"に満ちた"視線"が取り囲んだのだった。
男は、板挟みに陥ったのだ。
男を取り囲んでいるこの状況は、大いに世間を
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