第31話
胸の内側が、熱い。全身を伝う痺れと胸に迫る異物感に、空気が上手く吸えない。
恐る恐る真下に視線を落とすと、光の柱が横向きに生えていた。リクリスの腕が体内に沈み込んで、直に僕の魂に触れていた。
「拍子抜けですよ。貴方、そんなに弱かったですか? ……ああ違うか、『弱くなった』んですねぇ! 貴方みたいな強者は持つべきではないのですよ! 守るべきものってやつを! そんなものは足手まといだ! 足枷だ! 貴方は孤高であるべきだった!」
視界が昏く狭まっていく。……これが他者の魔力が注ぎ込まれる感覚か。本能に意識を乗っ取られようとする比ではない。根本から壊されていく。踏み荒らされる。「自分」という概念そのものにノイズが入り、掻き消えていく。
死──って、こういう感覚なのか?
全部なくなる。忘れたくないことまで忘れていく。なかったことになる。思考能力が手を伸ばした先から遠ざかって、そのうち意識を手放さんと抵抗している意味すら見出せなくなりそうだった。
……これは、まずいな。
一瞬の動揺を誘われただけでこのざまとは、我ながら笑えてくる。
「やっと……ようやくですよ」
リクリスの恍惚とした笑みが、爛々と歪んで光る青い瞳が──こちらを捕らえて離さない。逃れようとその腕に手をかけてみても、力が入らないどころか、電気にやられて手の輪郭がどんどん崩れていくばかりだった。滴る銀の雫が、わずかに残された視界の中で輝いている。生命そのものが外へ流れ出しているみたいで、見ているだけで膝から崩折れそうになる。
「私は貴方がずっと憎かったんだ……自分が一番の苦境に立っているくせに、恵まれた他人ばかりを気にかける。あろうことか救いの手すら差し伸べようとする。貴方のような悪魔がいると虫唾が走るんですよ、まるで私が不完全みたいじゃないですか。……ああ、別に構いませんよ不完全で。悪魔も人間も皆平等に不完全ですからね。いいじゃないですか平等なんだから。問題はそこではない──貴方がいけないんですよ? 貴方が私を惹きつけるような真似をするから……だから私は貴方を汚したくなる、貶めたくなる! 有象無象を意にも介さず、一人で完全へと昇り詰めようとする貴方の姿が! こんなにも目に焼きついて離れないんですよ!」
全身を穿つような痺れと熱の威力が増し、思わず声が出た。痛みとともに誰かの強い感情が流れ込んでくる。頭の中がぐちゃぐちゃにかき回される。煮詰まった感情がどす黒くて、窒息しそうだ。
溺れて、何も見えなくなる。
「──いい顔だ。今の貴方がこの世で一番美しいです」
恍惚とした心酔の声だけが、ひっそりと耳朶を打った。
「その顔が見たかったんですよ私は! もっと啼いてください? もっと叫んで⁉︎ 私をもっと悦びで満たしてくださいよ! 私はねぇ──貴方の全てが欲しくてたまらないんですよ!」
今になってようやく悟る。この悪魔が何を思って生きてきたのか。どんな感情を胸に、長い時間を自分一人に費やしていたのか。
きっと、それもまた一つの愛情だった。僕の求めた「愛」だった。
それは憧憬であり嫉妬であり憎悪だ。寄り添い支えるものじゃない。けれど確実に、ただ一つの存在に執着する強い感情だった。それが心ある存在に持ち得るもっとも強い意志で、無尽蔵の魔力の源となる。そしておそらく──あらゆる愛を引き寄せる別の「魔力」が、僕にはあった。
それを正しく理解していたのは、あのひとだけだ。
理解して、それでもなお一緒にいてくれると言った。
どんな虫も等しく惑わし引き寄せてしまう、こんな魔力を持つ僕に。
こんな引力の塊相手に自分の持つ感情の特別性なんか証明できるはずもなくて、この先も絶えることなく他人の感情に晒されることになるのは目に見えているというのに。それでも、終わりまでこの人生を共に歩んでくれると言った。一緒に笑おうと。必ず助けると。水底に沈んでいるのなら引き上げると。だから笑顔で帰ってこいと。
……ああ、だから僕は何に代えても守りたいと思ってしまうんだ。
「──このまま共に堕ちましょう? 混沌蔓延る地獄の底へ」
霞む意識にインクが落ちる。上書きされた空白に、純色の闇が広がっていく。
本能が求めるままに、手を伸ばした。迸る光の向こう側に、だれかいる。黒いシルエット。何もかもが踏み荒らされ呑み込まれ無に帰そうとも、魂がそれを求めている。
憧れへと伸ばした指の先から、形が崩れて溶けてゆく。それでも伸ばす。求めている。
もうすぐ繋がる。形のない手で鎖を探す。
僕の心を埋めてくれたひと。僕の最愛。
僕の全てはあなたのもの。
かちゃりと鍵が閉ざされる音がして、死んだように身体が軽くなった。
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