第30話

 それは、後輩の家を出る少し前のことだ。

「……なあ、カルド、ちょっといいか?」

 俺はリビングを後にしようとする悪魔の肩を、後ろから控えめにつついていた。

「ん? どうしたの響君」

「あの……まあ大したことじゃない……とは思うんだけどさ、一応、みたいな……」

 自分で呼び止めておいてなんだが、これは言うべきでないことなのではないかと、直前まで尻込みした。決戦を前に固まった決意を少しでも揺らがせてしまっては勝てるものも勝てないし、そうでなくとも、俺の抱いているこの違和感が嫌な予感として正しく機能しているのか、いまいち確証が持てなかったのだ。ただの思い込みや考えすぎで、要らぬ心配をかけさせたくはなかった。

 俺の胸の内にずっとわだかまっているのは、リクリスが残したあの言葉だ。

 ──貴方は私の願望の一端を完全に理解していたように見えたのですが。

 ──私の志に共感を示し、共鳴するまでには至らなかった、ということなのでしょう。

 もしもあの言葉の意味が俺の予想と一致していて、カルドがリクリスの思考を完全には理解していなかったとしたら。

 その時は──カルドがリクリスに不意を衝かれるような事態も、あるいは覚悟しておかなければならないかもしれない。

 予測していたにも関わらず、それが原因で取り返しのつかない失敗をするなんて、後悔してもしきれない。だから俺は意を決し、しかし小声で──わざわざ手招きして耳打ちの体勢をとってまで、秘密裏にとある符丁を口にした。

「……俺はお前のこと、純粋に好きだから」

「…………は?」

「いやだからでかい声出すなって態度に書いてんだろバカ」慌てて後ろから白い頭をはたいてしまう。照れが混ざっていたとはいえ、些か反応が過激だった。俺は軽く咳払いをして文脈をうやむやにしてから、話を戻した。「……そうじゃなくて、俺はお前のことは普通に好きだけど、普通の『好き』じゃない感情持ってる奴もいんだよ。お前は特にそういうの呼び寄せやすいだろうって話で」

 言って、俺は無駄な足掻きとわかっていながら、周囲に忙しく視線を走らせてしまう。

 電気に頼らない生活をしている人間が、この国にどれほど存在するだろうか。少なくともここは山奥ではない。仮にリクリスが俺たちの作戦を盗み聞きしようとすれば、いくらでもツールはあるはずだった。だが、例えばその能力が電化製品を通して自分の意識を潜り込ませることだとするなら、声を潜めるだけでも効果はあるかもしれない。問題は「何かを警戒している」というそれ自体を悟られることではない。内容さえ聞かれなければそれでいいし、聞かれたとしても俺の意図が向こうに伝わらなければ儲けもののはずだ。

 ……だから、俺がこの場で言うことは全て、暗号だ。いざという時に役に立つかもしれないお守りであり、祈りであり、呪いだ。カルドが俺にしたように、俺も相手の思考に遅効性の毒を忍ばせていく。

「……いいか? リクリスはお前にとって脅威だし敵でもあるけど、同時に理解者でもある。向こうはお前の考え方も感じ方も、たぶん正確に把握してる。……そりゃあもちろん俺だってお前のことは人並み以上にわかってるつもりではいるよ。でもたぶん理解のベクトルが違う。向こうは俺が見えないような角度からお前のことを見てるし、アプローチだって違ってるはずだ。……でもお前は、数いる理解者の中でも俺の誘いに乗ったんだ。お前は何があっても俺のものだってもう決まってる」

 俺は想いを込めたその指先を、俺の悪魔の胸に強く押し当てる。いざという時に思い出せと、俺の願いを忍ばせる。

「いいか『英雄』。お前は自己評価が低いから絶対に自分を犠牲にする。自分一人の命よりも多数や他人の幸せを優先するから『英雄』なんだ。それはもういい。仕方がない。やめろと言ってもやめないだろうし、時が来れば身体が勝手に動くって相場が決まってるからな。だから俺も黙って見てるよ。お前が誰かのために傷つくところ。……本当は、すげぇ見たくないけどさ」

「…………響君……?」

「……運命ってのはそういうもんだ。抗えないこともある」

 俺は誰に言い聞かせるためか、自然と俯き唇を噛んでいた。もうただの心情の吐露だ。

「でもまあ……俺の前にお前が現れることもそうだって言うんなら、悪くはない。乗ってやるよ、運命でも天命でも」

「……どうしたの響君、どこか具合でも悪い……?」

「それはお前のせいだよ」吹き出すように、笑う。苦笑もいいところだった。「お前が来てからロクに寝てないどころか休んでもない。発作起きたら責任持って介抱しろよ。俺だって結構無理しいなんだから。まあ病弱ってのは日常生活送るだけで無理してるとこあるから、慣れてるっちゃ慣れてるかもだけど」

「わかったよ、わかったからいつもの響君に戻って。変な心配させないで?」

「俺はお前の心配をしてんだっての」

 ……ったく、本当に憎い。笑ってしまうほど憎い。全部が狂った。人生も心も調子も、大から小まで何もかも。

 ダメな人生が狂ったらいい人生になる、なんて都合のいいことは考えない。都合のいいように考えられる思考回路じゃないし、今までそんな生き方はしてこなかった。でも現状、俺はこうして生き延びているし幸せだ。困難は増えたけれど、悪いとは思わない。

「…………よし!」

 深呼吸して切り替える。お望み通りいつもの俺だ。お前にだったらくれてやる。ついでに大声で。これぐらい聞かれたって構うものか。宣戦布告だ、ただの挨拶だ。

「俺がお前の一番だ!」

 そして、今度は拳で胸をノックしたすれ違いざま、決意を込めて最後に囁く。

「──信じてろ。お前ができないことは俺がやる」

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