第29話

「──というわけで……なんだけど」

 左手の手袋を外しながら、ゆっくりと歩み出る。水銀の拘束を抜け出してきたリクリスは、意外にも一対一の対決を望んでいるかのように、距離を保った状態で待っていた。こういう時は白手袋を投げつけて決闘の形式で──なんて応じ方も面白いのだけど、「全部預けて」と言われた直後だ。投げつけるよりも見せつけてやる方が面白い。そう思って、外した手袋をノールックで後ろに放った。受け取り損ねるなんて野暮な真似はしないよね?

「残念ながら僕ももう人のものなんだよねえ。穏便に済ませるのが一番だし……諦めてくれるとこちらとしては嬉しいんだけど」

「関係ありませんよ」リクリスは嘲笑するような、捨て鉢になったような発声で言葉を吐き出した。「貴方の意志を重んじたことが過去に何度ありましたか? それこそ最初の数回程度だったと記憶しておりますがね。悪魔と悪魔の契約関係など人間同士のそれと同じ。書面だとか口約束だとか、所詮無意味でしょう。……第一、私は私自身が満たされればそれでよいのです。貴方が満足しようが悲鳴をあげようが、私には関係のないことだ」

 ほんの一瞬。光に目が反応して視界が揺らめいただけの、わずかな隙だった。

 瞬きすらも許されないのが、この悪魔と対峙する上で最も厄介なところだ。

「──もっとも、それは私の感受性を廃した条件下での話、ですが」

 コンマ数秒の間隙を縫って、懐に入られていた。魔力を纏った最悪の相性の右手が、襟元を掴んで離さない。

 後ろで僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。問題ないよと何も掴んでいない左手を振る。事実、想定内だった。反応はできている。右手には銀の拳銃を生成して、接近したリクリスの額に銃口を突きつけている。

 にも関わらず、リクリスは壊れたように笑っていた。頭のネジが何本も飛んだその笑い方には、覚えがある。その意思が相手にないとわかった上で、それでもなお最愛の人に拒絶されたと本能が悟ってしまった瞬間の、自分だ。いくら弱っているからと言っても、まさか退魔の陣程度に負けるとは思ってもいなかった。それに何より、相手も時機も最悪だったのだ。

 ほんのわずかの気の迷いで、大事な人に触れようとしたそのタイミング。あんまりだと思った。神は──世界はこんなにも自分のことを嫌うのかと。全部壊してやりたいと心の底から願ったのは、きっと正気を失いかけていただけが理由ではないのだと思う。

 ──今のリクリスは、過去の自分と少し似ている。

「愚かだ……愚かですねカルド・レーベン!」

 青い瞳が屈折した眼光を放つ。服を握りしめる手から血が滲みそうだった。その気もないだろうに、力んで震える手に視界を揺さぶられる。

「なぜそうまでして銃にこだわる? 脅しのつもりにしても甘い考えではないのですか⁉︎ その引き金を引けると⁉︎ この私を相手にそのような時間の猶予があるとでも⁉︎ ……貴方は結局囚われたままなんですよ、貴方自身にかかった『銀の悪魔』という呪いに……! 平穏無事にその生涯を閉じたいだなんて綺麗事だ! 復讐したいでしょうこの世界に! 皆平等に苦しめばいい……人間は永遠に終わらない時間の流れに、悪魔は自分が自分でなくなる恐怖と焦りに! 貴方だって呪ったことがあるはずだ! 違いますか!」

「……」

 何も違わない。何年生きてきたと思ってる。何度この運命に鞭打たれたと思ってる。

 なぜ自分ばかりが悲劇の舞台に上がるのか。なぜ悪魔ばかりが永遠に囚われるのか。

 呪ったことなどいくらでもある。羨んだ数は知れない。

 それでも──絶望的な苦境の中でも自分を救ってくれる「誰か」がいると信じ続けるのは、愚かなことなのだろうか。散々自分の人生を嫌悪してきて、だからこそ他人に自分のようにはなってほしくないと願うことは、甘い考えなのだろうか。

「……だんまりですか。まあ期待はしていませんでしたが」

 リクリスの手が離れた。興味を失うと同時に力も抜けたかのような、あまりにも感情に直結しすぎた不安定な仕草だった。

「貴方ならば私と志を同じくできる──そう信じて貴方の気が変わるのを待っていましたが、もうやめです。ここまで焼きが回っていては対話も意味を成さない。──認めましょう。それが覆しようのない事実だと」

 そう呟いて顔を上げたリクリスの瞳は、有無を言わせぬ闘志と憎悪に満ちていた。

「──!」

 怖気が走った。諦念とか失望とか──そういう次元の話ではないのだと悟る。

 こいつは以前の僕と似ていても、同じではない。拒絶や無反応を受けた時、この悪魔は「自分から離れていく」という選択は絶対に取らない。その証拠は全て、目の奥に宿っていた。

「貴方は私を撃てない。ですが、私は貴方を殺せるし困らせることだって可能ですよ」

 銃口を避けようともしなかった。僕が撃たない──否、撃てないことを知った上で、この悪魔は後出しで銃を構え、悠然と引き金を引く。そこには微塵の迷いもない。

 害意──それが目の前の悪魔の原動力だ。

 だからリクリスは僕を殺す前に、僕の「弱み」を先に潰す。攻撃を加えても死なない場所から痛みを与えて、その延長線上の果てに至って初めて、僕の息の根を止める。

「私が何のためにこの地上に魔力を張り巡らせたか──もしかしてお分かりになりませんでした? 私が貴方と対等に対峙するため──夜の闇を排し万全の状況下で決着をつけるためだと──そんな甘い考えをお持ちだったとは言わせませんよ」

 パチ、とリクリスが指を鳴らす。

 途端、魔力が動き出す。池のように地面に留まり凪いでいたリクリスの魔力が、なだれ込むようにある一点へと集中する。──その魔力の奔流を、足の裏を通して知覚している。

 悪魔にとっては確かめるまでもない、明らかな変化だった。地に足をつけて生活している生き物が、もれなく大きな地震を体感できるように。でも、この魔力の移動を感じ取ることができるのは──

「魔導士として専門の訓練を受けた藤沢生狛なら、あるいは。ですが、言葉足らずの荒療治のみで魔術を身につけた貴方の契約者には、まだ少し早かったかもしれませんね」

「…………ッ!」

 今、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。殺意にも似た激情で血が沸き立っているのに、寒気を覚えるほどに身体が芯からが凍えている。何か、怨みがましい憎悪の言葉を口にしていたかもしれない。……いや、そんなことはないだろうか。だって、自分の感情を──この怒りと憎しみを相手にぶつけるよりも先に、やらなければいけないことが僕にはあったのだから。

「響君今すぐそこから──」

 逃げて、と。一番伝えなければいけない最後の言葉が、上手く出ていかなかった。

 声帯を震わせるために身体の中央を流れた空気が、一瞬のうちに堰き止められる。

 そして、濁った音が出る。空気の塊が一気に吐き出され、肺の中身が枯れた。

「──貴方……本当に愚かですね」

 嘆くような、悦ぶような薄い吐息が耳を冒した。

 身を翻そうと傾いた身体に、串刺しにされたような痺れが走っていた。

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