第28話
ルーラに連れられて部屋を出、長い廊下を通り、玄関に辿り着く。丁寧に靴が揃えられている土間の中には、もちろん俺が履いていたものもあった。どこまでも上流階級っぽい家だったなと思いながら外に出ると、今度はよく手入れされた外廊下が眼前に広がる。立派なマンションだ。それも割と高層階の部屋。まあ窓の外を覗いた時から、現在地の高さには気づいていたのだが。
藤沢には前々から育ちの良さを感じていたので、予想通りと言えば予想通りだった。だが一方で、深夜のコンビニバイトをする学生の像と上手く結びつかない部分もある。おそらくは、生活のためというよりも人生経験のための労働なのだろう。よくできた人柄である。こういうところが魂の質にも関わってくるんだろうな……とぼんやり考えた。それに比べて俺は……
おおよそ決戦前に考えるべきじゃない日常の悩みを心中で増幅させていると、カルドが暢気に「いいよねえ広い部屋とか」などと言い出す。
「もう僕が出ていく心配もないんだしさあ、大きい家買おうよ。庭付きの一軒家とか」
「お前はバカなの……?」唖然としすぎて顎が外れそうだった。脈拍が一瞬遅れる。「自分で言うのもアレだけど俺の職業わかってる? ねえ。そんな恐ろしいこと言わないで頼むから」
「僕が出すよ? 何も心配はいらない」人差し指と親指で輪を作って、小首を傾げる。「今度僕の通帳見せようか? 煙草ぐらいしか買ってないから結構貯まってるんだ」
「よかったじゃない。立派なヒモに昇格したわね。一生遊んで暮らせるわよ、キョウ」
「やめてくれ……」
シャレにならなくてか細い悲鳴をあげる。悪魔の囁きかよ。ちょっと「え、ホントに?」とか言いかけた。
「……俺はお前とは対等でいたいんだよ。頼らないって言ってるわけじゃなくて。ただなんか……俺の人生はあくまで俺が歩むべきものだから……俺はお前が、っつーか俺の周りにいる人が誇れるような人間になりたいから……そうなるまで少し待っててくれ。ちゃんとするから」
「ははっ、頼りになるねぇ」
カルドが茶化したような笑いを零すので、俺は抗議の目を向ける。本気は本気だが、俺だって恥ずかしいのだ。決意を言葉にすることも、それとはかけ離れた今の自分も。
だが、視界に入ったカルドの目は冗談を口にしたそれではなく、蠱惑的な鈍い光を孕んでいた。
「じゃあ、僕のことも『ちゃんと』守ってよ?」
「……ああ」結局そこに持っていくのかよ。「わかってる」
言葉を噛みしめるようにゆっくりと瞼を閉じかけたその時、再び雷が落ちた。光と轟音がほぼ同時に視覚と聴覚を刺激する。……かなりの至近距離だ。自分の真横に光の柱が出現したかと錯覚するほどに。視界一面が光に染まって、夜の闇が再び視界に影をかけた後も、未だに光の残像が鎮座している。
「…………びっくりした……」
無意識に白いジャケットの裾をつかんでいて、相手に気取られないようにそっと手を離した。たぶんだが、無駄な抵抗ではあると思う。
「響君ビビりすぎでしょ」
「いやこんなに近かったら感電するかと思うわ。普通に音でかいし。……ん?」
明暗の差分でできた残像が視界の邪魔をするが、それ以前に異様に暗い。
「停電か……」
近場はもちろん、外を見渡す限りまともな明かりは見当たらない。空は曇っているらしく、星も見えなかった。
しかしすぐに、人工の光が消え去った一帯には「自然の光」が駆け抜ける。
「これは……」
地面が電気に覆われ、黄金色に光り輝きはじめていた。……まるで麦畑だ。
「焦らしすぎて迎えに来られちゃったみたいだね」
「悠長に言ってる場合じゃないだろこれ!」慌てて指先に意識を集中させる。鎖を出す実験は先にやっておいたので使い方に問題はないが、なにぶん練習時間が短すぎた。緊張で手元が狂いそうになる。「先手取られてるって絶対!」
「だったら確実に迎え撃てばいいだけの話」
手袋の指先を噛んで乱暴に外す姿は画にこそなるが、余裕のない俺にとっては切羽詰まった状況の象徴にしか見えない。
だが、万全になったカルドの実力は、俺の知っている悪魔全員が認めるだけのものがあった。
視界に影が落ちたと思った瞬間には、既に守られている。
気付いた時にはまだ手袋をはめたままの左手で抱き寄せられていて、反対の手からは銀製の盾が展開されていた。分厚く光を透過しない金属の塊の輪郭を炙り出すように、黄金色の光が端から洩れ出ている。リクリスの手刀であることは察せられるが、これまでの比ではない威力だ。カタパルトから射出されたかのような速さが質量を伴って破壊力と化し、光の砲弾となって盾を割ろうとする。
だが、盾はその威力を以って砕かれる前に、溶けた。
盾の中心から伝導した魔力が銀を変質させ、光に覆われた手がずぶずぶと割り入り、迫る。
「──さ、行こう」
「え?」
そのタイミングを待っていたとばかりにカルドが平然とこちらを向き、疑問を呈する間もなく──身体が宙に浮いた。柔らかく受け止められた後の状態は「お姫様抱っこ」と表現するに相応しく、「え」としか鳴き声を発さない俺の混乱を置き去りにして、カルドは盾の横をすり抜け高層階から飛び降りた。内臓がふわりと浮き上がる感覚に戦慄する。
「他の人の安全はキミに任せるよ、ルーラ」
上昇と落下の狭間にそう言い残したカルドは、俺を抱えたまま重力に従って加速する。
「ええぇぇぇぇえええ⁉︎」
この中で唯一状況を理解できていなかった俺の叫び声だけが、壮絶な力のぶつかり合いの最中、間抜けにも響き渡っていた。
「殺す……後で絶対殺す……!」
着地は非常に穏やかだった。暴走時に見せた伸縮自在の銀の帯を器用に使い、衝撃を和らげて着地してもらったにはもらったが、それでも俺の溜飲は下がらない。
「まあまあ落ち着いて。最悪僕がいなかったとしても、これぐらいの高さじゃ今のキミは死なないようにできてるから」
「それはそれで怖えよ! 人間辞めてるじゃねぇか!」
「辞めてるでしょ?」
ガラスのように透き通った声でそう言い放った後、カルドは追撃に備えて俺に背中を見せた。
「僕に付き合うっていうのはそういうこと。後悔してももう遅いけど」
「……わかってるよ」
悪かった、と言おうとして、やめた。代わりに肩を並べて、その背中を強く叩いた。
「俺がお前を助ける。絶対に見捨てないし、置いていかない。安心しろ」
「……信じるよ?」
「当たり前だ」
強い意志を、背中に添える手に込めた。魔力として直に伝わらなくとも、切り火にも劣らない祈りの体温がこいつの支えになればと思った。
「お前がどこに行こうと地の果てまで追いかけるし、お前が海の底に沈んでんなら引き上げる。もう手放すつもりはない。……だから、重いものは全部俺に預けて行ってこい。そんで笑顔で帰ってこい」
「……うん、」
思っていたよりも歯切れの悪い返事に、何かおかしかっただろうかと不安になって覗き込む。
……でもまあ、それも杞憂だったというかなんというか。
胸に手を当て瞑目した悪魔の姿は、どこまでも清廉だった。
俺の言葉の一つひとつを噛みしめてくれているのだろうか、その仕草は慈愛と穏やかさで溢れていて──何よりもその横顔が、その表情が、満ち足りた微笑で彩られているものだから、俺の魂は電気が走ったように震えてしまうのだ。
「──僕が本当は怖がってること全部見抜いて言い当てちゃってさ、」
彼はゆっくりとこちらを見返して、笑った。
それが泣いてしまいそうなほど綺麗で、それでも蕾が花開く瞬間のように生への希望に溢れているから、たまらなくなる。
「やっぱりキミでよかったよ、響君」
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