第22話
ずるり、と。
首筋に冷たいものが這った。それはスライムのような中途半端な生命の粘性と、人質に充てがわれるナイフの凶暴性を混ぜ合わせ、過度な愛情で固めたような感触がした。
「……ょう、……く……」
ゴボゴボと、マグマの泡立つ音がする。それはすぐ後ろにまで迫り、泡が弾けて解放された空気に混じって、焦がれた声が耳の奥を深く冒した。
まごうことなき異形の気配に、背筋が凍る。だが、俺はそいつの名前を知っていた。
「カルド…………俺は…………」
それでも俺は、今までに出会ってきたどの人外よりもおぞましい感情で──敵意なき害意でもって俺の身体を後ろから抱きとめる彼の手を、どう取っていいかわからない。カルド・レーベンという自我を侵食し、彼を異形たらしめるだけの欲望がどんな形をしているのか、想像しきれる自信が今の俺にはなかった。何度掴み損ねたかわからないその手に、もう一度自分の手を重ね合わせるだけの勇気がなかった。激しく苦悩する傍らで、動物としての本能が警鐘を鳴らしている。身体が背後の脅威から逃げたがっている。上手く噛み合わない歯が触れ合って、カチカチと音を鳴らした。
「……にしないで」
だが、その願いを聞いたが最後、俺はこの場から逃げ去るための全ての言い訳を失う。
「ひとりにしないで」
俺は息の根が止まる寸前の、最期の空気を吸い込むみたいに喉を鳴らして、ただただ喘いだ。自分の体からこんなにも悲痛な音が鳴るのかと、自分の耳を疑った。
「お前────お前なんでこんなことするんだよ、なんでここまで…………」
自分の行動を抑制する理性を全て手放して、輪郭なく絡みつく彼の腕を掴む。力を込める先から指が沈み、乱暴にすり抜けていく。
「もう充分だよ……俺一人のぶんじゃ全然贖いきれないけどさ……それでも全部やるからさぁ、…………だから、もう……」
楽になってくれとか、苦しまないでくれとか。
そういう祈りの言葉を口にするのが、鋭利な凶器を彼の内側に突き入れるのと同じことだというのはわかっていた。何せこいつは、他でもない俺を助けるために自分の全てを犠牲にしたのだ。苦しむなと彼に願うことは、彼が俺に捧げてきた誠意と行動を残らず否定することに等しい。
それでも俺は、叫ばずにはいられなかった。
「もうやめてくれよ…………」
これ以上見てはいられないと。命も魂も惜しくはないのだと。
とても腹の底から出しているとは思えない擦り切れた声で、崩れ落ちるように叫ぶしかない。
かくして、正気のすっかり抜け落ちた悪魔は、俺の願いを聞き入れる。
「……じゃあ、さ、響君」
至極真っ当な──明瞭にして明晰な声が耳を刺激するのと同時に、俺の身体を抱きとめ支える異形の液体が、元の輪郭を取り戻していた。ついさっき俺を組み敷いたその腕で大事そうに俺の肩を包み、そして身体ごと向き直らせ、ついさっき嬲るように俺の耳元で破滅の呪言を囁いたその口で、脳を甘く痺れさせる魅惑の声を紡ぎ出す。
「僕を殺して」
そう口にした彼の目は、白くあるべき部分が黒く染め上げられていた。以前目にした、正気を失い破壊の限りを尽くす魔物堕ちと全く同じだった。
「…………な……にを……、言っ──」
「だって全部くれるんでしょ? だったら僕はキミの愛情が欲しい。キミの行動が──ねぇ、僕のお願いを聞いて? これで最後だから。僕を終わらせて。僕を殺して。僕はキミの手で終わりたいんだよ響君。……僕を壊して。もうやめにしよう、ね?」
ごつ、と重い音を立てて額が触れ合う。自身の影に浮き上がる赤い瞳だけが、俺の視界の中でぼんやりと光っている。もう意識らしい意識もないだろうに、滔々と切れ目なく、ある意味でさっきよりもまともな言葉を発し続ける彼の姿が本当に狂気じみていて、今になって自分の脈拍が耳障りに感じはじめる。
「なんで……死んだらみんな独りなんだぞ! 独りにしないでって言ったのはお前だろ!」
半ば無意識に、俺は悪魔の形をして言い寄ってくる魔物の肩を突き飛ばしている。
「僕は独りなんかじゃないよ」心の底から悦ぶように言う。「キミが僕を殺してくれるなら、僕は独りじゃない。キミが僕を愛してくれるなら、僕はキミの愛情の中で溺れていられる。だから殺してよ、キミの魔力で」
「魔力……?」
こいつの言葉に少しでも耳を貸したことが間違っていた。疑問を持つべきじゃなかった。咄嗟に突き飛ばしたことすらも──もしかしたら術中だったかもしれない。
今のこいつは確かに悪魔ではなく魔物に近い「魔物堕ち」だったが、その欲望の源も、思考回路すらも、間違いなくカルド・レーベンという悪魔のそれだった。
俺はカルドと知り合ってから今に至るまで、一度たりとも口論や知恵比べで勝ったことがない。俺はカルド・レーベンという悪魔に、外見や仕草の魅力だけでなく、知性や人生経験を基盤にした高潔さや頼り甲斐なんかにも密かに憧れを抱いていて──何事においても俺より何枚も上手な彼に振り回されることが、なんだかんだで嫌いじゃなかったのだ。
そんなだから俺は、気づかないうちにまた唆されている。
「──いい、イいよ、響君……もっと…………っ」
気がつくと、カルドの首には鎖が巻きついていた。幾重にも巻かれ彼の細い首を絞め上げているそれは、さっき俺をリクリスの雷撃から守ったものと同じ光を放っていた。
まるで獣を服従させる首輪のごとく絡まったそれを、俺は呆然と、目で辿る。
鎖のもう片方の先端が繋いでいたのは──俺の右手だった。
「…………なに、なんだよこれ……! 違う、違う違うちがう! 俺はこんなこと望んでない……ッ!」
半狂乱の言葉を喚き散らす傍らで、俺は既にその仕掛けに気づいている。違うことが違うのだ。全ては俺の意志がやったことだった。
カルドはこの鎖を最初に出現させた時、「その力は今からキミのものだ」と言った。そして俺に自分のことを殺せと言った。直前に彼は自分を殺すことを「愛情」とも「行動」とも表現し、それを欲しがった。そして最後に「キミの魔力で」と。……それで繋がった。
俺の力は俺の魔力によって生み出されるし、魔力の源は強い想いだ。俺がカルドに向ける感情なんて、愛情以外の何物でもない。だから、会話の中で「愛情」=「カルド・レーベンを殺すこと」だと動揺する俺の無意識下に刷り込みさえすれば、魔力の源たる俺の愛情は勝手に殺意に書き換えられる。あとは魔術の発動方法を教えるだけ。
……なんて傲慢なトリックだろう。こいつは自分が俺にどれだけ愛されているかを知っていて、非情にもそれを自分を殺す凶器に変えた。……自分たちを繋いで離さない、想いの鎖に。
「なんで……なんでこんな……」
俺はいよいよ力なくへたり込む。身体の力がどれだけ抜けても、カルドを縊ろうとする鎖の力はいっこうに弱まろうとしなかった。
「なんで……? きまってるよ、そんなこと」
鈴のように美しい笑い声を生み出せたはずの喉は、強く圧迫されて壊れかけていた。
それでも魔物は口元を満足そうに吊り上げて、俺に笑いかける。
「僕のぜんぶ、キミに受け取ってほしかったから……」
「…………意味、わかんねぇよ……」
「わかってるくせに」
手玉に取ったような笑い方をする。最後の最後、崖っぷちになって、彼は悪魔のように俺を魅了し、踊らせ、一直線に破滅に導く。
「僕のぜんぶを絞り尽くしたら、キミには未来への道が拓けるよ」
「生き残るだけが未来だと思うな……!」
死んでやる、と掠れた声で叫ぶと、嬉しいなと返ってくる。こいつは誰よりも、呪縛の恐ろしさを知っていた。俺が死ねないことを知っていた。
「できるものならやってみなよ」
「…………」
もうやめよう、と俺はうわ言のように繰り返す。支離滅裂で、プライドの欠片もない。
そうしているとなぜか、疲弊しきった心が炎に包まれ始めた。処理しきれない感情の波が、あらゆる色の爆発を引き起こしては代わる代わる表出していく。
「頼むから……なぁ、冗談だって言えよ! 俺の力じゃないんだろ……⁉︎ 俺は……俺はお前となんの繋がりもないんだろ⁉︎ 俺がこんな力扱えるはずがないんだよ! なあ! そうだろ⁉︎ 全部嘘なんだろ⁉︎」
そういう時に限って、彼は見下したようには笑わない。理不尽な怒りすらも受け容れたような顔をして静かになるから──それが本物の「カルド・レーベン」と重なって見えるから、俺の心は余計に逆撫でされる。切り離すべきでない悪魔の彼と魔物の彼を比べて、「偽物のくせに」と罵倒すらしたくなる。それでも喉のあたりで押し留められる理性がこんなにも憎い。
「なんとか言えよ! 答えろ! 答えろよカルド!」
歯止めの利かない感情ばかりが身体を支配して、胸ぐらでも掴むみたいに鎖を掴んで揺さぶった。頭の中の冴えた部分が致命的なミスを指摘してくる。絞めたくないはずの首を自分から絞めるような真似をして、その力をまるで自分のものであるかのように扱う。決定的な矛盾。
……こんなもの、負けを認めているようなものじゃないか。俺は屈服させられているんだ。今、この瞬間に。
相手の幸せの代償として自己を差し出すという、暴力的な愛情表現しか、俺たちにはできないから。それをお互いに知っていて、相手を屈服させようと躍起になっていて。……そして俺が反撃の余地もなく負けるから、こんな結末しか用意されなくて。
「──キミがどれだけ失望しようが、僕のことを嫌いになろうが、僕の気持ちは一生変わらない。僕はキミのことが一番好きだよ、響君」
空白の時間が一瞬を支配した。
それは怒りで我を忘れた刹那の間にも似ていたし、首斬り役人に頭と胴を切り離されてから、絶命するまでの長い長い時間にも感じられた。
ふと気がつくと、鎖が指の間をすり抜けていた。そして、今になって鎖が少しだけ言うことを聞く。その首に巻きつく強さだけはどうにもならないのに、まるで俺の求めに応じでもするかのように、純白の肢体を俺の膝の上に落とした。脱力した首は自然な流れで傾いて、乱れた前髪が異常に染まった目の色を隠す。
「…………なんでそういうこと言うんだよ………………」
殴り合いに銃なんか持ち出して、そんなの、負けるわけがないだろ。
駆け引きも何もあったものじゃないんだ。誰もが持っている必勝の手札を切っただけ。
そんなの使ったら誰でも勝てるんだから。結果なんか火を見るよりも明らかだから、反則になるんだ。
「お前は悪魔だよ」
相手の欲しがるものを熟知してて、そのくせチラつかせるばっかりで与えるのは後回し。ようやく出したと思ったら最悪のタイミング。もう転がり落ちるしか選択肢のない、崖から足を離した直後みたいな瞬間に素直になりやがる。
……何が理性を失って本能に呑まれた魔物だ。
こんな用意されたような言葉。
お前の本能だって「愛」なんだろ? それを求めて歩いてきたんだろ?
自分の弱みも、醜い本性も曝け出して、それでも懲りずに一緒にいてくれる「誰か」が必要だったんだろ?
だったらなんで──
「なんでそんなに綺麗なんだよ…………」
理性がなくて愛が囁けるか?
本能に呑まれて自分を捧げられるか?
命のひとつ、魂のひとつぐらい奪ってみろよ。自分のためだけに他人を傷つけてみろよ。
この身も心も精神も魂も……いっそズタズタに引き裂いて血が枯れるまで抉り出して捨ててくれればいいんだ。もっと酷く──貪り尽くしてくれたらどれだけよかったか。
お前の全てになれればどれだけまともな人生だったか。
「お前は俺が欲しくないのかよ……!」
なんて自分を過信した言葉なんだろう。謙虚さどうこう以前に身の丈にだって合いもしない。
でも仕方がないんだ。理性が飛んでるのは俺だって一緒なのだから。
目の前の現実に靴跡がつくまで踏み潰されて絶望を見て、悪夢と表現するにも生ぬるい地獄に身を置いて。そりゃあ夢なんか見ずにはいられないじゃないか。
──俺ならこいつの「誰か」になれるって。そう思わずにはいられないじゃないか。
かは、と咳にもならない空気の破裂音が、自己の深淵から現実の闇へと意識を引きずり上げた。中途半端に残った気道の隙間から、不完全な笛のような高音が奏でられている。……こいつはまだ死ねない。まだ生きている。そんな事実が、とっくに壊れていたはずの俺の心をひどく動揺させた。
「あぁ…………、」考えもなしに手が伸びる。自分でも何がしたいのかわからなかった。「俺が……俺がなんとかしてやるから…………、なんとか……」
なんとかできるはずがない……こともなかったのだと思う。俺は確かにこの場において無力だったけれど、「力」があった。「力」だけは俺のものだった。俺が今こいつに対して無関心になれれば、鎖は消える。それはわかっている。わかっているのに。
「失くしたくないんだ……俺が助けるから……」
その首に巻きついた鎖に、指を滑り込ませようと苦心してしまう。結局俺は自分の意志で自分の想いを断ち切ることができなくて、でもただの人間の悪足掻きが超自然の魔術を超えることも絶対にない。鎖は引き離されるのを拒むかのように、力を加える度にその強度を増した。
「クソっ……!」
一度苛立ちに支配されたら終わりだった。岸に上がろうともがけばもがくほど溺れていくように、下手な抵抗が可能性を極端に狭めていく。
──だから、ここで邪魔が入ったことは、後から思えば奇跡以外の何物でもなかった。
しかもそれがただの幸運ではなく、他者の意志による行動の結果だったというのだから、感謝してもし足りない。天の采配なんかじゃなく、その人自身に。
その「邪魔者」の存在にいち早く気がついたのは、俺ではなくカルドの方だった。
まともに動かせるはずのない右手を震わせながらも持ち上げて、コントロールの利かなくなった水銀をぼたぼたと滴らせながら、帯状の凶器を飛ばしたのである。弱りきっているとは思えない精度と速度で迫るそれを、それでも彼女は易々と溶かし尽くした。
闇夜を煌々と照らす炎の中、押し殺した悲しみの声がぽつりと零れ落ちる。
「──弱くなったものね」
陽炎が揺らめいたと思った次の瞬間、俺の首に何かが触れた。決して強くはない衝撃が、何本もネジが飛んだ脳を的確に揺さぶった。
え? と思っても、声が出ない。発作に似ている。勝手に頭の中で「思う」までは簡単なのに、その意識を喉に持っていくまでの道のりが恐ろしく長い。……その間に理解したのは、首の後ろを叩かれ、その直後に身体を後ろに放り投げられたということだけだった。
ただその代わり、突然の異変に覚醒したまともな意識が、目と耳に尋常ならざる集中力を与える。瞼が閉じる最後の瞬間まで、意識が途切れるまでの長い一瞬を、レコーダーのように精密に記録しようとしていた。
怒り狂ったように勢いを増して出現した銀製のしなやかな刃物の中を、ルーラは恐れもせずに正面から突破した。煉獄を纏った彼女の周囲は容赦なく銀を溶かし、そして拳を振りかざす。
「私はこの瞬間のために強くなったのよ」
炎に包まれた拳の中に、俺は火とは別種の輝きを見つける。炎よりも鋭く冷たく──刃物のようにも見えたが、違う。その輝きは宝石のように色を発し、決して溶けることがなかった。
「──一発殴ってやりたいって私、前に言ったわよね?」
拳が振り下ろされ、火柱が巻き上がる。
いよいよ意識がなくなろうという最後の瞬間、鈴の音とともに鎖が砕け散った。
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