第20話
頭を金属バットで殴られたような感覚だった。よく響く冷たい衝撃が、俺の平衡感覚をごっそりと奪い去る。
「…………は……?」
心臓が凍えている。冴えた血液が全身を廻って、それでもなぜか、酒に酔ったような浮遊感と火照りが思考能力をかき乱していた。
「………………うそだろ」
嘘に決まってる。動揺させたいだけだ。真に受ける必要なんてない。
……そう、思うべき場面だった。無理にでも思い込ませるべきだった。
だが、わかる。これは事実だと、俺の冷静な部分が言っている。
腑に落ちる──妙なぐらいにしっくりくるのだ。ああそうかと、嘆息するほどに。
──カルドさんって悪魔の中でも相当強い力をお持ちなんですよね?
俺に一抹の不安を植え付けた、後輩の言葉。
忘れるはずもない。忘れようと努力していた。だが、自分の中に巣食う事実はそう簡単に消せはしない。どう足掻いても布石になってしまう。機能すべき時が来たら掘り起こされる運命にある。
そうだよ。疑問なんて最初から持っていたじゃないか。
カルドの持つ力は特異で、強力だ。それは本人の口から聞かされているから間違いようがない。自身も恐れ、扱わないようにしてきたほどの「手に余る」力。
だからおそらく、加減もできない。相手を殺さないような攻撃とか、触れる時は毒性を抜こうとか、そういう融通が利かない、ただただ強い力なのだ。自在に加減ができたら、彼は天涯孤独の運命から既に抜け出せている。
だからこそ、疑問が生じることになる。
──じゃあどうして、俺を襲った俺自身の魔物を、カルドは一撃で倒せなかったのか。
答えは簡単だ。最初にあいつ自身が言った通り、「魔力切れ」だったから。魔物を一撃で殺すほどの力も、もう残っていなかったのかもしれない。だからあの時のカルドは、本当に魔力を求めるために俺に契約を持ちかけたのかもしれないし、俺が死の鍵である可能性を見込んで、少なくとも失わないように俺を助けたのかもしれない。真実は本人の中にしかないが、あの時のカルドは俺が持つ魔力や魂を必要としていて、多少の無理を押してでも俺を助け出さなければならなかった。それだけは確かなのではないか。
だが、リクリスの言葉を信じるなら、俺とカルドの間に契約を結んだという事実は存在しない。あの日の契約は嘘で、儀式じみたあの行為もポーズだった。
……つまりあいつは今も魔力切れで、日々を生きるためのわずかな魔力供給すらも受けられていない──だから藤沢の退魔の陣すら作動した。もはや悪魔とも呼べないような、わずかばかりの力しか残っていなかったから。悪魔として生きていることが奇跡と呼べるまでに。
「…………じゃあ……じゃああいつは今……」
見えるはずもないのに──いるはずもないのに、自然と視線が家の方向に滑った。
今になって理解する。カルドと過ごした時間の全て。そこに散りばめられた、ヒントのような違和感の数々。その正体。……藤沢のいるファミレスで見せた、あの異様な艶めきと攻撃性だってそうだ。
あれが極限の飢餓が見せた本能だったとするなら。誰もが認める美食の前で、箍が外れて晒した欲望そのものの姿だというのなら。
……あいつが唐突に自分の身の上を打ち明けて、別れを告げたのは。
リクリス・ウィートという追っ手の存在を感知していたことだけが理由じゃない。
「限界だったに決まっているじゃあありませんか」
暢気にすら聞こえる間延びした声が、動悸を催す心臓を抉る。
「意識の混濁には、貴方と出会う前から悩まされていたようでしたしねぇ。だから私は前々から忠告していたのです。どうせ悪魔のまま死ぬ道など見つかるはずがないのだから、早く楽になるべきだと。──人間と契約すら結べない悪魔に生き永らえる道などない。早く私にその魂を捧げるのが賢明だと、ね?」
「……契約すら、結べない……?」
「ああ、もちろん理論上は可能です。あの性格では致命的だというだけの話で、むしろ人間の魂を集め力を蓄えるにはこの上なく適していますよ。……持つ者が違えば相当に違っていたでしょうね、あの力は。我々が住む世界を一人で滅ぼすことも可能だったかもしれません」
「……どういう、ことだよ」
「貴方はあの者の血を飲むことができますか? 真渕響」
「…………!」
血。そうか。
悪魔はその身体の全てが魔力でできている。その血肉すらも。
悪魔と人間が契約を交わすのに血が必要だという事実に変わりはないだろう。だが、あいつがその「契約の条件」にこそ嘘を忍ばせていたとしたら。
悪魔が人間の血を飲むことだけが契約の条件じゃない。その逆──人間が悪魔の血を飲み、互いの一部を取り入れて初めて契約が成立するのなら。あいつの血は人間にとって毒だ。だからあいつは嘘をついた。不完全な儀式でもって、契約を交わしたフリをした。……弱くて脆い人間の身体を、自らの血で壊さないために。
なんで気づいてやれなかったんだろうと、今になって後悔が津波のように押し寄せてくる。今まで与えられてきた心の温度も築き上げられた遺産も全部奪って、片っ端から更地に変えてゆく。
……疑問も違和感も、あれだけたくさんあったのに。
なのに、俺は素通りした。見つけていたのに立ち止まらなかった。深く考えようとしなかった。……決して踏み込もうとはしなかった。
あいつは「気づいてくれた」なんて言ったけど、俺はあいつの何にも気づいてなんかいなかったのだ。
あんなに大事なひとだったはずなのに。
「……まあ、貴方のことだ。飲めるのでしょうね。冗談でも大口でもなく。純然たる自己犠牲の精神で」
「…………」
無言のうちの肯定でもあった。だが、疑問と警戒の証でもある。
「……まるで見てきたような言い草だな」
「ええ、見てきましたとも」当然のように言い、指先で火花を弾けさせる。「電気というものが解明される前は神の怒り、あるいは恵みとして。そして電気に依存するようになった今の人間社会でもまた、私の力は神そのものだ。私の意識はどこにでも存在しうる」
「……とんだストーカー野郎だな」
「否定はしませんが、別に貴方を見ていたわけではありません。追いかけるべきものを追いかけていたら、偶然貴方がカメラに映り込むようになっただけのこと。貴方は私にとって邪魔な存在以外の何者でもない」
「その割に、殺しに来るのが遅かったじゃねぇか。台本なしの即興ドラマの続きがそんなに気になったのかよ」
「実際、楽しく拝見させてもらいましたよ。興味深くもあった。貴方がいることで、最恐とすら謳われた銀の悪魔の苦悩が増える。殺すべき相手に情が移り、下手に救われることで自我を保つ精神すら衰弱していく──貴方と出会ったのが運の尽きと言っても過言ではない。憐れな末路でしたよ。……ですが、おかげさまで確信を持つことができました。貴方は私にとっての障害でしたが、確実にあの悪魔にとっての『鍵』だった。貴方は危険な存在です。心変わりされる前に消しておかねば、私の計画を頓挫させかねない」
右腕の電流が、激しく勢いづいた。周囲を照らし出すほどの光量に、思わず目を細める。
──のが、最悪手だった。
「死んでください」
鋭利な閃光を纏った手刀が、既に喉元まで迫っていた。
死ぬ──そう直感して、思い浮かんだ言葉はやっぱり、謝罪だった。
──ごめんな、カルド。
俺はお前が最後に残してくれた願いすら、叶えられそうにない。
俺なんかがお前の「鍵」だったばっかりに、お前はどこまでも不幸で。
本当に、ごめん。
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