第19話

 ずっと他人が欲しかった。

 俺があのベンチに居座るようになったのも、思えばそんな願いからだった。

 誰だってよかった。自分の近くに人がいるという環境に、一秒でも長く身を置いておきたかったのだ。実家以外の、家族とは切り離されたどこか遠くの場所で。色々な意味で家族にはもう心配をかけたくなかったし、身内がずっと近くにいたら負い目に押し潰されて自滅しそうだった。

 だからむしろ、他人であればあるほど好都合だったのだ。もしもの時に全員が全員見て見ぬフリをするわけでもなく、かといって過剰に面倒を見るわけでもない。言ってしまえばその場限りの関係。関係とも言えないような一瞬の接点。さっきの老人との会話は、俺が求めていた人との関わりそのものだった。

 俺はあれを──あの空気感を安心の種にしていた。ずっとそうやって生きてきた。

 ……あの日、あの時までは。

 今はもういなくなってしまったあの悪魔。あいつは、俺にとってこの上なく都合のいい存在だった。

 あの底なしの瞳を見た瞬間、俺は思ったのだ。あの悪魔ならずっと「他人」でいてくれるのではないか、と。

 何にも興味がなく、情も湧かず、しかし契約という繋がりがある以上放置だけはしないような──ドライで必要以上に踏み込まない関係。それが彼とだったら実現できるのではないかと……期待した。

 そんな思惑も、数日のうちに瓦解してしまったわけだが。

 純粋に、楽しかった。命の危機に晒されることもあったけれど、それ以上に喜びが勝っていた。家に帰ってきて誰かがいること、バカな話にも愚痴にも付き合ってくれること、時には心配したり怒ってくれたりすること。……なんて、さっきと矛盾しているだろうか。

 ……あいつだからよかった、なんてことも、もしかしたらあったのかもしれない。

 心配されるのも、迷惑をかけるのも、罪悪感がないわけではなかった。でも、なぜか気は楽だった。憎まれ口を叩いても、叩かれても。文句を言っても、言われても。

 大事に……していたのだ。俺は。俺の考えていた以上に。

 あの男のことを。

「…………」

 あの悪魔について思考を巡らせれば巡らせるほど、なぜか地面を蹴る足が重くなった。途端に疲労が全身を蝕んで、俺は荒い呼吸を繰り返しながら歩みを緩める。

 もし、もしも、純粋な気持ちをもっと表に出していたら、何かが違っていただろうか。

 ただお前のことが好きなのだと、一緒に日々を過ごしてほしいだけなのだと言えていたなら。

 ただ──行かないでくれと。

 恥も外聞もなく縋りついていれば。あの手を離さずにいれば。

「……いや、」

 人気のない近道へと折れ、俺は内省への相槌を声に出す。力なくかぶりを振った。

「それでもやっぱ、困らせただけだよな」


「──そのようなことはありません。貴方、やはり愚かですね。愚の骨頂ですよ」


 声が、した。

「……⁉︎」

 生温かい悪寒が、背筋を舐め上げるるように這った。止まってはいけないと頭では理解しているのに、なぜか歩を進めることを忘れてしまう。それほどに気味が悪く、粘着質な気配だった。

「……っ、な……」

 声がしたのは後方。だが、その気配に気づいたのは、いや──気がつき始めたのは、そいつが俺の真横にいるあたりからだったように思う。いくら考え事をしながら歩いていたとはいえ、前方の人の気配に気がつかないはずはない。が、そう──その男は俺が今しがた通り過ぎた街灯の真下に佇んでいて、俺がそこを通り過ぎようとした瞬間に、俺に声をかけたのだ。

 気配がないのに、向こうから干渉されれば抗いようがない。そんな不気味さが、その男にはあった。

「さあ、こちらを向いてくださいよ。会話するって、対面することから始まると思うんですね、私」

「…………!」

 驚くしかない。男がパチンと指を鳴らしたその瞬間に、身体が言うことを聞かなくなった。

 今すぐ逃げろ、走れと警報を発しても、なぜか俺の足はつま先を後ろに向けようとするし、目線は固まったように男に釘づけになる。俺の頭がどうにかなってしまったのかと焦るが、浅く速く繰り返される呼吸と滝のように流れる汗が、俺の脳の正常を証明していた。

「……悪魔、か……? あんた……」

 やっとの思いでそう口にする。身体が思うように動かないどころか、指示された動作以外を受けつけない身体になっていた。舌すらまともに回らない。

「正解です。名はリクリスと。リクリス・ウィートと申します。……しかしこのぐらいはわかって当然、序の口ですよね? ……そうでしょう? 銀の悪魔に魅入られた愚かな人間。……ふむ。口に出しただけで嫌悪感を覚えますね。人間風情が大きな顔をしないで頂きたい」

「…………何? お前。……あいつの何」

 思っていたよりも凄みのある低い声が出て、自分でも驚く。でもアレだ、カルドのことを「銀の悪魔」という蔑称で呼ぶような悪魔など、たかが知れている。それに、俺だって現に金縛りという被害を受けているのだ。敵意の一つや二つ持ったって罰は当たらないだろう。

「おやおや。ご自分の立場、わかってます? 貴方を殺すぐらい造作もないのですよ。ああも弱りきった銀の悪魔でさえ、貴方程度の人間はいつでも殺せました」

「……だからって、敵意向けちゃいけないなんて決まりはないだろ」

 硬直したまま好戦的な態度を取る俺をまじまじと見て、リクリスと名乗った悪魔はしゃくり上げるような笑い声をあげた。ひょろ長い体躯を包み隠すように羽織った黒いコートと、これでもかというほどの猫背な姿勢とが相まって、不審の権化に見える。人を見た目で判断するつもりはないが、少なくともあいつの友達ではないだろう。たぶん、もっとおぞましい、一方的な関係。あるいは、全くの他人。背筋が粟立ったまま落ち着かないのはそのせいだ。

「面白いことを仰いますね。……いいでしょう。私、拷問は専門外ですが、嫌いではありませんので」

 リクリスは滔々と一方的に喋りながら、覚束ない足取りでゆらゆらと歩み寄ってくる。俺は後ずさることもできないまま、正常からは遠く離れた自分の呼吸音を聞くことしかできない。どれだけ威勢よく振る舞っても、劣勢の事実は覆らない。

 程なくして、リクリスの右手が暗闇の中で光った。バチバチと電気が爆ぜる音が辺りに響く。……まるでスタンガンだ。

「どうせ貴方には死んでもらうので言いますけど、私の力はご覧の通り、電気です。金属にも魔力を通せる非常に都合のいい能力でして。相手が銀使いでも、水銀に変質させれば怖くはありませんよね」

「! てめ……っ、あいつに何するつもりだよ!」

「何って……ただの実験ですよ」ひひ、とまた笑う。不精に伸びたクセのあるブロンドの髪が、電灯の光を受けて不規則に輝いた。「実験と言っても、結果は目に見えていますがね」

「勿体ぶってねぇで答えろ……! 何するつもりだって訊いてんだよ!」

 電気と聞いて、嫌な予感がした。……藤沢の家で最近起きるようになった怪現象。あの話が出た時の、妙に怯えたカルドの表情。

 ……まるで、あいつが最初からリクリスの存在を知っていたみたいじゃないか。

「よく吠える番犬だ」

 途端、首を素手で掴まれた。まとまりかけた思考がどこかへと霧散する。

「……ま、矮小で無力な子犬ですがね」

 直後、衝撃と熱が全身に巡った。視界の下の方で光が迸ると同時に、肌を無数の針で刺すような痛みと、体内から焼かれるような渇きが襲いかかる。筋肉のひとつひとつが自分の意思に反して動いていた。呻き声すら、俺の許可なしに勝手に体外へとまろび出る。

 光が消えると、途端に痛みが和らぎ呼吸が楽になった。が、身体に力が入らない。投げ捨てられるように首から手を離され、支えを失った肢体が地べたに転がる。

「……弱い。この程度の威力でこのざまですか。本当にただの人間なのですね、貴方」

 当たり前だ。朦朧とし始める意識の中でそう思う。俺は特別な人間なんかじゃない。むしろ普通の人間の中でも落ちこぼれで、身体は弱いし精神だって強くない。魂の質も並以下だ。自覚して生きてきたのだ。今更傷つきも否定もしない。……なのに、今になって悔しさがこみ上げてくるのはなぜだ。

「今にも死に絶えそうじゃあありませんか。可哀想なことですね」

 アスファルトの冷たい地面ばかりが視界に入る中、間近にリクリスのものであろう革のブーツが割り込んでくる。芝居よりも芝居がかった、鼻につく喋り方で言葉が降り注いだ。

「貴方、死についてどうお考えですか? 恐ろしいもの? 痛く苦しく、怖いものですか? それとも生の苦しみから解放する安らかなもの? 貴方は死にたいですか? それとも生きたい? 死ぬなら今か、未来か。それは何年後? いつなら死んでもいい、あるいは死にたい? 何年生きたら人間は人生に未練を残さないのでしょう? ……どう思います?」

「……知るかよ」まともに答えてやる義理もない。

「おや、よろしいのですか?」今度は心から心配しているような口ぶりだった。「貴方にも大いに関係のある問題なのですよ、これは。私の悲願たる不老不死の完成、そして水銀とは密接な関係があります。……それらを結びつける錬金術と悪魔の役割も、あるいは」

「……不老……不死、」

 嫌な響きだった。悪魔を苦痛に縛りつける生の呪い。それを持つのは悪魔であるリクリスも同じはずだった。だが、この悪魔はそれを実現させることが悲願だと宣う。……つまり、不老不死を与えようとしている相手は人間、ということになるのか。

 考えるべきことは山ほどある。しかし、真っ先に追及すべきことはひとつしかなかった。

「あいつと……カルドとその不老不死になんの関係がある」

 俺が話に乗ってきたのがそんなに嬉しかったのか、リクリスはその場に屈んで楽しそうに俺の顔を覗き込んだ。いっそ笑い返してでもやれればよかったが、それをしてやるだけの精神的余裕が俺にはない。

「水銀とは即ち永遠の象徴です。……辰砂しんしゃという鉱物をご存知ですか? 水銀の原料で、あの悪魔の瞳のように赤い。これを加熱することで、人々は水銀を取り出し生活に利用してきました。ですが、水銀は水銀のままで完結するものではありません。さらに熱を加えることで、水銀は再び赤い固体へと変化を遂げるのです。それを加熱することでまた水銀が──といった具合ですよ。姿を変えながら循環するその様子に、太古の人間たちは永遠を見出したのです。……現代では医療が発達し人間の寿命は延びる一方ですが、スピリチュアルを信じていた時代の人間もまた、同じように長寿を求めていたわけですね」

「答えになってねぇんだよ……あいつは関係ねぇだろ……!」

「ありますよ? 関係」まだわからないのかと言うように、小首を傾げる。「貴方だってご存知でしょう。あの悪魔が使役する力を。理由は私にも理解できかねますが、貴方は銀の悪魔に気に入られた唯一と言っていい人間なのですからねぇ」

「唯、一……」それは違う。確かにあいつは俺のことを気にかけて、理解して、幸せまで願ってくれた。だが、俺はその厚意に何も応えられなかった。もっと対等に、荷物を分け合って肩を並べられる人間が、世界のどこかにはいるはずだった。俺なんかよりもずっと強くて、あいつをちゃんと支えてやれる人間が。「……そんな大層なもんじゃない」

 俺がそう吐き捨てると、なぜかリクリスが黙った。長く伸びたブロンドの前髪の下から、熱を殺した冷たい光が覗く。

「……まあよろしい。とにかく、私にはあの器が──魂が必要なのです。あの器は人間の魂などで満たされ、完成されるべきではない。この魔力で満たし尽くし、不老不死の秘薬として完成させる。悪魔の魂はその悪魔が持つ魔力の根源ですから、私にとって最上級の実験材料というわけです。カルド・レーベン──何せあの男はその血で人間を殺し、その力で悪魔を殺す。悪魔でありながらその魔力には聖性を宿す異端者ですから。命あるものは必ず死ぬという世の摂理すらも覆してくれそうではありませんか?」

「………………」

 俺は黙って歯を食いしばっていた。抵抗すらできない苦々しさの中に、黒い疑念が渦を巻いている。

 この悪魔の話を聞けば聞くほど、さっきの俺の思いつきが、真実として明確な輪郭を得ていくような気がしてならなかった。

 やっぱりカルドは、リクリスの存在をずっと前から知っていたのではないか。

 だから無理やりにでも俺から離れた。今俺の目の前にいる、この悪意ある悪魔から俺を引き離すために。……そう考えると妙に辻褄が合うのだ。水銀という、彼が持つ負のギフトだけを別れる理由にするなら、最初に俺に近づいたことからして間違っているのだから。

 それにあいつは、俺が取るに足らない人間の一人だったら俺を殺していたと言った。……自分自身に死という終わりをもたらすために。自分の魂を完成へと導くために。

 ……でも、俺があいつにとっての「死の鍵」なら、早急に俺を殺す必要はなかった。悪魔が自ら手を下すまでもなく、人間は死ぬのだ。……時間さえあれば。

 カルドには時間がなかった。リクリスの存在を知っていたから。リクリスはカルドの力を──その根源たる魂を狙っている。だからリクリスに魂を奪われる前に、俺を殺して死ぬ必要があった。……でも、あいつは最後までそれを実行することができなかった。

 俺を特別だと認識してしまったから。

 全ての狂いはその瞬間に生じた。


 ──響君、

 ──もしも……永遠の命なんてものがあったら、キミは安心して生きていけるのかな。


「……!」

 不老不死。即ち、永遠の命。

 もしあの時、俺があいつの冗談めいた提案を肯定していたなら。

 あいつは、自分の魂をこの悪魔に捧げていたのだろうか。

 ……そんな光景、想像するだけで虫唾が走る。

 あいつは勝手に有効活用していいような「モノ」じゃないし、他人の幸せのための自己犠牲なんて余計なお世話だ。もし「僕はずっと死にたかったんだから」なんて言われても、俺は絶対受け入れない。甘受するわけがない。

 幸せにならないといけないのはお前の方だ。

 お前はその権利を、一体何度放棄してきた。

「──リクリス、」

 俺は力の入らない腕を震わせながら、上体を起こす。いつ目の前のブーツが顎を蹴り上げてくるかわからなくて、怯えている自分がどこかにいた。だが、慢性的に体調不良な俺は空元気や虚勢を張るのに一切の躊躇いがない。何事も慣れだ。

「お前……なんで俺の方に来た? なんでそんな話を聞かせに来た?」

 カルドは今、おそらく一人だろう。どこで何をしているかなど、俺にもわからない。

 それこそチャンスというものではないのか。邪魔する者が誰もいない、襲うにも交渉するにも適した状況。相手がそれを知らないはずもないだろう。

「人を怒らせてそんなに楽しいか……?」

「楽しいですよ。しかし、貴方の怒りを買うためだけにこれだけの時間を割く義理はありません。時は金なり、タイムイズマネーです。それ以上の価値が──いえ、価値はありませんが、貴方を消すことには重大な意味がある。私はそのために貴方の前に現れた」

 悪魔の右腕に、バチバチと電流が迸る。どう考えても次はない。何せ俺は、手加減をされても一発でダウンするような脆い人間だ。相手が「消す」と言っているのだから、消される以外の選択肢なんて選び取れる理由がない。

 だが、今の俺に立ち上がる以外の選択肢を選び取らせる理由もまた、ない。

「だから……人を怒らせて楽しいかって訊いてる」

「……なんですか? 意味不明です。……もしかして貴方、先ほどのショックで脳に障害でも残りました?」

 そうかもしれない。こんなに無鉄砲になる瞬間なんて、何かの間違いでも起こらなければ俺の人生に存在するはずがない。

 でもな、言葉の意味ならちゃんと理解しているから安心しろ。

「違ぇよ……いいか? 俺が死んだらあいつは間違いなく怒る。でもお前はそれを見越した上で俺を殺しに来たはずだ。俺が死んだら俺の魂はあいつのものになる──それなのに俺から先に殺そうとするなんて普通じゃ考えられない。敵に塩送るために動いてるようなもんだからな。……結局、お前のしたいことは不老不死の実現なんて高尚なもんじゃない。不老不死は大義名分で、本当の目的はもっと私的で利己的な、感情由来の動機のはずだ。違うか?」

「……なるほど。……クク、なるほど?」

 最初こそ神妙な顔で言葉の意味を咀嚼していた様子のリクリスだが、やがてその表情は水を得たように生き生きと──歪んでいった。

「半分は否定しませんが、やはり貴方、愚かですね。自分の立ち位置というものを全くと言っていいほど理解していない。あまりに無知。……いやはや、無知というのも存外、当人にとっては幸せなことなのかもしれません。それをたった今思い知らされました」

「……どういう意味だ」

「最初に私、言いましたよね? 貴方は普通の人間だと。それは貴方に特別な能力が備わっているとかいないとか、そういった個性の話をしていたのではありません。純然たる事実ですよ。客観視して誰もが認めるほかない、今の貴方の『状況』の話をしたのです」

 リクリスはたっぷりと勿体をつけて、嬲るように続けた。

「──貴方はカルド・レーベンの契約者ではない。悪魔との契約関係すら持たない、ただの人間だと言ったのです」

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