第18話

「……あの、大丈夫ですか?」

 ふと気がつくと、ベンチの上で寝こけていた。……いや違う。俺のことを心配そうに覗き込む喪服姿の老人の顔を見て、瞬時に悟った。それでも寝ぼけていたのだろうか──何を血迷ったのか、その黒を基調とした正装を視界に捉えた刹那、期待に心臓が跳ねた。

「あー……すみません。ちょっと、その、気絶……してました」

 反射的に曖昧な笑みを浮かべてから、別に本当のことを言わなくてもよかったなと後悔し始める。寝落ちしていたとでも言って誤魔化せばよかった。

 案の定、老人はわずかに眉を寄せ、逡巡するような間を見せた。気絶、というこれまた曖昧な言葉の意味を測りかねているのだろう。健康体でただ寝ていても気絶だし、病気で意識を失っていても気絶だ。……俺の場合は後者なわけだが。

 老人はややあってから自分の鞄を漁り始める。「救急車などは……」というところまで聞いて、俺は斜めになっていた身体を慌てて起こした。手すりにもたれかかるように脱力していたらしい。手すりと胴体に挟まれた腕が、冷たく痺れている。

「あっ、全然、大丈夫です、ほんとに」

 勢い余って大きな声が出た。老人がわずかに身を硬くする。俺自身ですらびっくりしたのだから当たり前だ。こんな夜の時間帯に、見ず知らずの若い男が大声を出したらそりゃあそうなる。いたたまれなくなって、思わず目を逸らした。

「……申し訳ない。差し出がましい真似をしました。……実は先日、友人を病気で亡くしまして」自分の服装を示すように、老人はゆっくりと自分の胸に手を当てた。「自宅のソファーに座った状態で発見されたと聞いて、どうにも重ねてしまったようで」

 お若いのだからそんなこと滅多にありませんよね──そう気まずげに言われて、息が詰まった。なんとなくだが、俺との会話をきっかけに、この老人が見知らぬ誰かに話しかけることをやめてしまうような気がした。俺は咄嗟に前のめりになり、もう一度呼吸をはじめる。

「滅多にはないかもしれませんけど、あります。だから……ありがとうございます。声をかけて頂いて。俺はその……若いけど病気持ってるので。あ、救急車は大丈夫なんですけど……俺の場合は。でも、だから……俺と同じような人がいたら、また声、かけてあげてほしいなというか……俺みたいな若いのが何言ってんだって話ですけど……」

 上手く表現しきれなくて、耳のあたりがカッと熱くなるのを感じる。恥だ。なんで俺は自分の気持ちすら満足に伝えられないんだろう。

 ──俺に背中を向けて去っていった、あの悪魔の姿が脳裏をチラつく。

 また俯きかけたところで、尻ポケットの携帯が震えた。メッセージを開くより先に、表示された時刻に血の気が失せる。……とうに出勤している時間じゃないか。

「……すっ、すみません、ちょっと時間なくて……」

 言い終わらないうちから立ち上がる。逃げるように老人に背を向け──立ち止まって、もう一度振り返った。

「……本当に、ありがとうございました。嬉しかったです、すごく。救われました」

 なんでこんな重いかなあ、と、言いながら思った。でも、感謝を示す言葉を軽くする理由もさして見つからないので、これでいいのだと自分に言い聞かせる。

 進むべき方向につま先を向けて走り出した背中に、「こちらこそ、ありがとう」と控えめな声がかかって、思わず唇を噛んだ。

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