第14話
「おい弟、あの浅見くんとはどこで知り合ったっていうんだよ⁉︎」
揺り起こされて目が覚める。一瞬また倒れたのかと思って悪夢がフラッシュバックするが、普通に仮眠を取ろうと寝転がったのを思い出して正気のラインに踏みとどまった。
「んん? アサミぃ?」
「寝ぼけてんじゃねぇぞこの愚弟がぁ」
まだアルコールが抜けていないらしく、姉の口調はどこか絡み酒っぽい。
「浅見夏生くんだろーがぁ。お前一緒に住んでんだろぉ?」
「ああ……」腹の底の方から、冷静さが込み上げてくる。「あいつな……」
どういう理屈かはわからないが、カルド・レーベンの人間としての名前は「浅見夏生」というらしかった。そういえば以前店の客に対して「ナツキ」と名乗っていた。そのせいで「ナツキ」が苗字だと思い込んでいたが、その辺の使用感はアバウトらしい。
「『ああ……あいつな……』って、お前冷めすぎだろ」
「真似しないでください。微妙に似てんのも腹立つんだよなぁ……。ってか、男同士なんてこんなもんだろ? あんまベタベタしてんのもどうなんだよ」
俺はよろよろと起き上がると、携帯の画面で時刻をチェックした。正確な寝た時間がわからないからどうとも言えないが、いつも夜に活動している身としては充分すぎる休息を取った気分だった。
「一緒に住んでるくせにぃ」
「だからこそだよ」尻に敷かれていたつまみの袋をひとまずテーブルに上げ、ついでに周りに散乱していたゴミを拾ってはテーブルの上にまとめていく。片付けもしないうちから寝るなんて、俺にしては珍しいような気がした。「家族の距離感ってのもあるだろ。全部知ってる相手の方がドライなことだってあんの。同居人の距離感だって同じようなもんだよ。全部晒さなきゃやってられないんだから」
言っているそばから後ろめたく感じるのは、俺の言い分の全てと実際の生活が矛盾していたからだろう。
全部晒すなんて、そんなことが最初からできていたらあんなことにはならなかった。そのくせ、距離感は測り間違えるほどに近かったのだ。そもそも始まりの時点で魂を捧げていたのだから、狂っていると言っても過言ではない。……異常だ。いや、だった。
「──響、あんた今嘘言った」
ドキリとした。酔っているはずなのに、そこだけ発音が明瞭だった。
まじまじと姉の顔色を窺う。ぱっちりとした二重の目は何も知らない子供のようにも見えるが、実際の姉は驚くほど鋭い。だから、なんでも見通しているかのような子供の目と、知識や経験を兼ね備えた大人の知性の光が重なって、本物の嘘発見器と対峙しているような感覚に襲われる。
「…………なんで、そう思うんだよ」
「だってあんた、浅見くんに言ってなかったでしょ。病気のこと。だからそれは嘘」
「……」
ああ、そうだ。このひとはちゃんとしてるんだった。
大事なことは大事なことでちゃんと線が引けて、ちゃんと家族の心配をして、人のためにも自分のためにも、ちゃんと努力ができるひとなのだった。
酔いなんか、覚めているに決まっていた。
たぶん、そう、それこそあいつが俺の病気のことを詳しく把握していなかった事実が浮かび上がった瞬間から、姉は真面目に話したはずだ。あいつがある程度俺の隠し事を把握していて、飲みの最中にあいつから話題を振ったのだとしても、きっとその瞬間からは歴とした大人で、「真渕響の姉」だったのだ。
──ごめんね、響君。
──僕はキミの傍にはいられないかもしれない。
今思えば、あの言葉は俺の病状を明確に知ったからこそ出た懴悔だったのかもしれない。
俺が何を恐れていたか、理解したから──
「……あいつ、どこまで勘づいてた……?」
「お前そっからかよ……」
姉は大仰なため息を吐く。そういうところも姉らしさだった。面倒だけど、頼もしい。
それから姉は「仕方ねぇなあ。このお姉様が教えてやるんだから感謝して聞け」とふんぞり返ってから、静かに話し始めた。
「まあ、そういう話題に転がるきっかけ与えたのはあたしだと思うけど。あんたがちゃんと健康的な生活してるかとか、ちゃんと寝てるかとか訊いた時に、ぽろっとね。弟は病気持ってて、主治医からも睡眠だけはちゃんと取れって言われてる……みたいなことを話して。で、その流れで一緒に言ったんだ。どういう病気なのかとか、もしもの時はどうするのが正解なのかとか。……それで浅見くんは、薬飲んでることは気になってたけど、なんの薬か確かめることまではしなかったって言った。裏切るようなことはしたくなかったんだって。あんたがちゃんと話してくれる時が、心を開いてくれた時なんだろうと思ってたって言ってたよ。……まあ、結局あたしが全部バラしちゃったからアレなんだけど。……で、随分寛大なんだなあって思ってたら、自分も同じだからって先回りされた。自分も同じように隠し事があるから、踏み込んでほしくない気持ちも痛いほどわかるって」
姉の声は淡々としていて、私情が薄いぶん事実だけが胸に抵抗なく沁み入ってくる。そして、姉とあいつが話していた時の光景を頭で構築する瞬間に、痛みが走る。そこで初めて私情が入る。俺の負い目や罪悪感、あいつの共感、苦笑いにも似た哀しい吐息、伏せる瞳。姉の客観する強さと、家族としての思いやり。全部が俺の想像で、だからこそ過剰で、そうやって突きつけられた現実は針の塊だった。内側からチクチクと、時には深々と、肺を刺す。
「……ねぇ、最初の話に戻るけど、あんたたちってどこでどう知り合ったの? 正直……いや、悪い意味で言うんじゃないんだけど、あんまり普通じゃないっていうか……なかなかいないよ。そういう相手ってか、関係っていうの? ……上手く言えなくてアレなんだけど」
「いや、わかるよ。……わかる」
姉が形容したかったものは、俺にもなんとなく理解できた。たぶん、例えるならこの部屋みたいな。楽しいもので溢れているわけでもなく、どちらかといえば殺風景で、暗くて。それでも温度は確実に二人ぶん存在しているような。必要最低限以上のものはあるのに、決定的に何かが足りない。
「──痛々しい、だろ?」
息を呑む音が聞こえた。たぶん幻聴だけど。本物ならこんなに大きくは聞こえない。
「あいつは──夏生は、命の恩人なんだよ」
偽名で呼ぶのはしっくりこないかと思ったけれど、自分でも驚くほどに馴染んでいた。
「びっくりさせるかもしれないんだけど、俺、死んでたかもしれなくて。自殺半分、他殺半分──違うな、自殺でも他殺でも、事故……でもあったかもしれない。ああでも、事件性はないから。血も大して流れないような……説明するのが難しいんだけど、そういう出来事があって。そこで助けてくれたのが……」
「浅見くん、ってわけ」
俺は無言で頷いた。どこまで話すべきか、何を話すべきかがわからなくて頭を必死に回転させていたが、会話を引き継いだのは姉だった。ふぅん、と、覚悟していたよりずっと小さな感動詞を吐いて、続ける。
「浅見くんがあんたのことなんて言ってたか、わかる?」
「……」その口ぶりでは、答えがあるということなのだろう。できることなら聞きたくない。答え合わせをしたら最後、二度と顔を合わせられそうにないからだ。だが、そんな安い逃げの手を打つことは、もはや不可能だった。「……いや」
「あんたの言葉にも行動にも、何度も救われてきたってさ。感謝してるって」
「………………は……?」
予想外の答えが姉の口から飛び出して、俺の思考は無に帰る。……俺が一体何を言ったって? 何をしたって?
「…………嘘だよ」
それが精一杯の返答だった。素直に嬉しかった。身体の芯が震えるほどの報いがあることを、この瞬間に初めて知った。……だが、それも結局はぬか喜びなんだろうと思う。
あの瞳を見た者なら、誰もが理解する。あれはただの人間が埋められるような隙間じゃない。数百……下手したら千を超える年数、それだけの時間、自我を保って生きていかねばならない存在の孤独を、たかだか百年しか生きられない人間が埋めてやることなど──何か与えてやることなど、できはしないのだ。……まして俺みたいな出来損ないが。
「それは姉貴がいたからだよ。同居人の姉の前で、弟の不出来なんか話せるわけないだろ。……俺は何もしてない。何も……してやれてないから」
それどころか、俺はまた間違えたのだ。何もしていないと言いながら、何もできることなんかないと思いながら──俺はまた踏み込んでしまった。人との接し方を間違えた。自分にならあいつの中にある何かを変えられるんじゃないかと思い上がって、独りじゃないなどと無責任なことを言った。何も理解などしていないくせに。
「それはお前が決めていいことじゃないよ」
姉が言った。ぴしゃりと有無を言わせない迫力に気圧される。が、それが俺に向けた否定でないことは、家族だからか観察せずともわかった。
「あんたが何を言って何をしたのかは知らないけど、それで救われたっていうなら、その感情は全部浅見くんのもんだ。お前がそうやって簡単に否定していいことじゃない。……それともお前は、浅見くんの感情をなかったことにしてでも、そこまでして自分のことを否定したいわけ」
「……」
そう言われてしまうと、返す言葉がなかった。誰かを否定してまで自分を否定したいわけじゃない。誰かを否定できるほど自分が偉いとも思っていない。
俺はただ、人より苦労しなきゃいけないと肝に銘じて生きていたいだけなのだ。温室じゃないと生きていくことすらままならない俺が、こんな出来損ないの俺が──温室で生きていてもいい言い訳を立てられるように、自分で自分に鞭打とうとしているだけなのだ。
それでようやく釣り合いが取れるから。それでようやく、俺の「生」が保証されるから。
「あんたはもう少し、自分を過大評価したほうがいいよ。つらくても、たぶんそれがお前の等身大だと思うからさ」
「……そんなこと言われても、困る」俺はみんなほど立派じゃない。誇れるものなど何ひとつない。
「そー言うだろうと思った! クソ生意気な弟だな! 姉の忠告ひとつ受け入れん!」
姉はやおら立ち上がり、項垂れる俺の頭を上から掴んだ。そのままわしわしと乱雑に撫で回される。ハゲるからやめろと俺が抗議する直前に姉は手を離し、そして──得意げにこう言った。
「でも残念でしたー! 今のは気に入らない姉のオリジナルではありませーん! お前の大好きな浅見くんの言葉でしたー! はい撤収!」
「……は、」
「先シャワー借りるからなー。あたしライブの遠征のために休み取ったんだよ」
そう言って勝手に洗面所に侵入した姉は、最後に俺を振り返って、「浅見くんいい人だよな。あたし惚れちゃったわ」などと宣う。
たぶんそれは真実に限りなく近い嘘で、姉は自分のお下がりの赤本を弟に与えた時と同じような表情をしていた。志望校違うの知ってたくせに。俺は姉貴より出来が悪いんだから。
「だからあたしがゲットするまで、絶対に家から追い出すなよ。浅見くんがお前の家から離れるんだったらお前が追いかければいいし、それもダメなら新しい住所ぐらいは教えてもらえ。とにかく手放したらあたしがお前をぶん殴る」
殴られたくなきゃ今踏ん張れ。そう脅しつける姉は実に生き生きとしていて、暴力にも恋にも飢えてはいないようだった。
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