第13話

 藤沢と話をしてから数日が経過した。

 最初は藤沢との話の影響でカルドのことをいつもより注意深く観察していた俺だが、「退魔の陣」とやらが効いたらしい。ここ数日は夢見がよく、コンディションのいい生活を送っていた。それにしたがって不安や心配といったマイナスの発作を起こしにくくなっていたのだ。

 ……そう、これは言い訳だ。というか、もはや懺悔に近い。

 俺はあの日から大事に抱えるべきだった一抹の不安というやつを、軽率に手放していた。……いや、それだってきっと言い訳なのだ。俺の心から不安が消え去る日なんて、死ぬまで訪れない。だからこれは、不安に目を瞑っていた言い訳だ。……幸せだけを選り好んで噛み締めていた言い訳だ。

 俺とカルドの共同生活はなんだかんだで安定していた。これといった衝突もなく、時々お互いの傷やタブーの存在を予知して、地雷を踏まないように生きていた。それが優しさだと信じていた。……だからこそ、俺は目の前の不安に目を瞑って、真綿のような安寧に胡座をかいていたのだ。

 だから最後まで見つめることができなかった。……関係が軋みに耐えられず崩壊するまで。

 本当に、一生のうちで最大の後悔だと思う。

 俺はあいつを──カルドのことを、終わりの瞬間まで助けることができなかった。

「助けさせてくれ」と、そう願ったのは他でもない俺だったはずなのに。


 


 俺たちの閉じた関係の崩壊は、外界からの使者によってもたらされた。

「おっすおっす〜、響、死んでるぅ〜? それともまだ生きて……え? 誰?」

 開口一番に俺の死亡寄りの安否確認を取ろうとした、この失礼千万ルックスだけ美人は、俺の二つ歳上の姉だ。名前は真渕杏澄あすみ。俺とは違って頭の出来が非常に良いため、現在は外資系企業でバリバリのキャリアウーマンとして働いている。顔よし、頭脳よし、性格は(良く言えば)活発という俺にはないもの総取りのこの姉は、休暇が比較的自由に取れるという一点だけを決め手にして今の会社に就職し、数日の休暇を取っては予告なく俺の家をホテル代わりに使う人間の中の悪魔である。

 そんな姉は、いつものように変なタイミングで休暇を取得、いつものように俺の家を冷やかしに来た。訪れたのは俺が普段就寝している昼間だが、この日の俺は店の事情で昼勤に出ていた。……とはいえ、いつものことだがアポはない。ついでに姉は合鍵を持っていて、俺がいようがいまいが、寝ていようが起きていようが部屋には入れるという心積もりがある。……さて、ここで姉がインターホンを鳴らしたらどうなるか。

 姉は当然、俺のことを一人暮らしの一般男性だと思っているが、最近になって事情が変わった。……ということを、当然ながら俺はいちいち姉に報告などしていない。向こうが予告ありで来るというなら話は別だが、それに関しては向こうが非常識なのだ。

 ここまで前提条件が明示されていれば、この後起きるハプニングがどんなものであるかを想像することは、そこまで難しくないのではないだろうか。

 つまり、そうなる。

 これは藤沢から聞いた話だが、人間は悪魔や魔物を一度なんらかの方法で認識しない限り、基本的には彼らの真の姿を見ることができないという。だから、幸いにも玄関から出てきたのが白タキシードの超絶美形だったいう事態には至らなかったようだ。……が。

「はいはいはいはい今度は何? 鍵持ってるんだから響君が開けれ……ば……」

 姉はいつもインターホンだけでは飽き足らず、俺の家に関してだけ言えばめちゃくちゃにドアをノックする。というか、叩く。端から見たら痴話喧嘩にも取られかねないので本当にやめてほしいのだが、今回も同様、おおよそ他人にはやらないようなドアの叩き方をしたせいで、宅配便などの訪問とは思われなかったらしい。カルド的には俺がめちゃくちゃ慌ててるとかそんな感じだと思ったのだろうが、残念、姉なのだ。……姉は姉で鍵を持っているなら使えよという話なのだが、弟を困らせるのが姉の趣味みたいなところがあるので、これもまた仕方がない。強いて言うなら舐められている俺が悪い。

 ともかくとして、二者を隔てる家のドアが開かれた瞬間、二人は揃って沈黙した。お互いがお互い、予想とは違う人物の顔を見てしまうことになるのだから無理もない。

 そして、ややあって沈黙はぬるりと破られる。その妙な空気が作り出す壁を壊した言葉は、お互いの共通項であるらしい俺の名前を足掛けにして生成された。

「…………あのー、今、『響君』って……仰いました?」

「…………ええ、まあ。……ですが私の聞き間違いでなければ、そちらからも何か聞き覚えのある方の名前が出たような気がするのですが」

「……はあ、まあ」

「……」

「……」

「「…………響(さん)とはどういったご関係で?」」


 そこからの進展は早かった。

「いやー、まさかウチの弟がお友達と同居だなんて〜!」

「驚きました。お姉さんがいらっしゃるとは聞かされていなかったので」

 とりあえず話してみたら和解も和解よぉ! と漁師のようなイントネーションでのちに俺に語った姉。それまでの膠着状態の間にお互いがお互いのことをどう考えていたのかはあまり想像したくはないが、真っ先に浮かんだのは無言のうちの修羅場だった。

 俺が仕事から帰ってくるまでの間、姉と悪魔は酒を酌み交わしていたという。酒グセが悪いにも関わらずアルコールが大好物な姉は、俺が飲めないことを知りながらも毎回大量のアルコール類を家に持ち込んでくる。そして散々暴れた後に勝手に潰れるというのが通例で、それは相手が身内だろうがその場で出会った赤の他人だろうが関係ない。なので、大抵姉の相手をした人間は酒にやられなくても姉にやられる。弟の俺から見てもそこそこ美人だと思う姉に恋人ができない理由は、これが大半だろう。長続きしないどころか一度飲みに行っただけで逃げられるというのだから素晴らしい才能だ。

 ……というわけで、これで普段から余裕の表情を崩さない悪魔が潰れているだとか、姉の被害に遭ったとかであれば、日頃の上から目線や弄りに対して報復することもできたのだが、そうは問屋が卸さない。人間がそうであるように、神もまた美しいものを愛しているのだ。

「ただいま──ってなんか酒臭くないか──あぁぁあ姉貴がいるうぅぅ!」

 俺を出迎えたのは大量の酒瓶に空き缶、そしてつまみの袋が散乱している俺の部屋と、酔い潰れ死体同然の状態でそこに転がっている姉の姿。そして何より悪魔の笑みをたたえた本物の悪魔だった。

「おかえり響君。お姉さんがいるなんて聞いてないんだけど」

「あああぁぁ最悪の組み合わせ……絶対俺の暴露大会じゃんこれ……」

 その場で崩れ落ちた俺を愉快そうに眺めていたカルドは、やがて俺の傍らに移動してしゃがみ込み、耳元で甘く囁いた。

「大丈夫。響君のことは僕が一晩中慰めてあげるから……ね?」

「やめろやこそばゆいなあ!」

 美形の魔の手が本格的に俺の固定観念を破壊してしまう前に立ち上がり、俺は来た道を遡るように後退した。自分で開けたばかりのドアが背中に当たる。

「絶対おちょくってんだろテメェ! 慰めという名の拷問でしかねぇんだよ! つーかもう俺は疲れてんの! 今すぐ寝る!」

「安定の体力のなさは置いておくにしても……寝れるの? こんな状態で」

 何事もなかったかのように横を通り過ぎようとした俺を横目で追いながら、カルドが言った。ひとつの汚れもない白手袋の指が示した床の上はゴミだらけで、おまけに粗大ゴミの如き姉も転がっている。まず布団は敷けそうにない。……というか、相手がこいつだったからよかったものの、どうなんだ。面識のない男性を前にして余裕で潰れるというのは。

「それはそれとして……まあ、なんだ……その、ありがとな」俺はさんざ喚いても全く目を覚ます気配のない姉を示して、言った。その背中には、家主がどこにしまっていたかも忘れた毛布が掛かっている。「大変だったろ、色々」

「大変……か」

 カルドは俺に言われて初めて気づいたような、言われてもなおピンときていないような、中途半端な表情を浮かべていた。若干疲れているように見えるのは、何が原因なのだろうか。アルコールか、姉か、はたまた長い時間の蓄積か。

「もうわかんなくなっちゃったな、そういうの」

 空元気の笑みでもなく、ただ目を伏せて申し訳なさそうにするものだから、余計にタチが悪かった。そんなのまるで、諦めきって痛みも何も感じなくなってしまったみたいじゃないか。

「……なあ、カルド」

「ん?」

 言うべきかどうか、直前まで迷った。相互不可侵の協定を──確かにそれは口頭でも書面でも交わされたことのない約束だけれど、確実に裏切る行為だった。

「…………いいんだからな。頑張らなくて。今は……少なくとも独りじゃないんだから」

「……」

 無言の間、どこに目を遣っていいのかわからなかった。逃げるように投げた視線の先に、姉がいた。お前なんかが何言ってんだと嘲笑が聞こえてくるようだった。姉なら絶対に言わないし思いもしないであろうその声は、自分の意識が生み出した幻聴に過ぎない。

 ……好き好んで独りを選んだ奴が、くだらない。

「………………悪い、忘れてく──ッ⁉︎」

 自責の念に耐えられず、悪い癖で自然と持ち上がる口角を隠すように声を発した、瞬間だった。

 視界の端で緑色の光が迸り、耳元でバチバチと火花が散った。静電気が強く生じたような攻撃的で不快な音は、明確な拒絶の意思を孕んでいる。

 何事かと咄嗟に視線を戻すと、目を大きく見開いたカルドの顔があった。いつの間にか視線の高さが俺に合わせられていた。

「………………退魔……」

 感情もなく、うわ言のように零された言葉に、ハッとする。恐る恐る左に視線を滑らせると、俺の頰の輪郭に沿わせるように、カルドの手のひらがあった。耳に指先がかかるかというその直前で、白手袋の手が静止している。汚れひとつなかったはずの純白が所々焦げて、場所によっては破れているのだろうか、肌の色よりも暗い色の何かが露出しているように見えなくもなかった。

「ふ……はは……ッ、」

 感情というネジが飛んだ、乾いた笑いが鼓膜を揺さぶる。一拍遅れにその表情を見て、色鮮やかな現実が初めて認識されたような気がした。

 人が泣く姿は時に美しい。泣き笑いならなおさらに。人の心は良くも悪くも、アンバランスなものに揺り動かされる。なぜって、人の心は複雑だから。矛盾しているから。

 嬉しいはずなのに泣いている、苦しいはずなのに笑っている──そういう不安定で、矛盾していて、複雑怪奇で意味のわからない感情は、表現するのが難しいから。再現することが不可能に近いとわかっているから、脳が本物だと信じて疑わない。

 人は本物が好きだから。それが究極の形だと信じているから。

 ──だからこんなにも、鮮烈だ。

 彼はその「鮮烈」を表現するのが、どうしようもなく上手かった。悲しいことに。

 そして俺はいつものように圧倒される。でも今に限ってはその密度が段違いで、絶対に離れるべきじゃないとわかっていながら、俺は、一歩、二歩と幽霊でも見たみたいに、確実に後退していた。

 ぅぁ、と、声にもならないような声が出た。

「──違っ、カルド、これは……っ」

「わかってる。わかってるさ。大丈夫、……キミは僕を拒絶したりなんかしないよね」

 自分から身を引いたくせに、後付けのように手が伸びた。だが、縋るように伸ばした手は、何も掴まない。まるで触らせないとでも言うように、今度は彼が、踊るように身を引いていた。流麗なステップ。

「僕が傲慢だったんだ。触れようなんて……もう思わないから」

 許してくれるかい、と彼は問うた。意味がわからなかった。

「ごめんね、響君」

 なんでお前が謝るんだ。最初に踏み込んだのは俺のほうだろ。

「僕はキミの傍にはいられないかもしれない」

「──ッ!」

 心臓を踏みつけられたかのような衝撃が、その重みが、全身に伝播する。

 復讐……なのではないかとすら思った。地雷を踏んだ復讐。

 俺たちはあまりにも相手の弱点を知りすぎている。得体が知れなくたって、自分と同じ弱点なら、願望なら──その痛みを狙うことは容易だった。

 とどのつまり、俺たちは似た者同士以上に同じで、他人以上に正反対なのだ。パズルのピースなんて冗談じゃない。あまりにも鋭い凸と凸では、近づいただけで身を滅ぼし合うだけだ。

「……気づい、てたよな……そりゃそうか……」

 力なく笑って、俺はキッチンの戸棚に目を遣った。冷蔵庫に一番近いその空間には、薬が入っている。一日二回。朝食後と就寝前には必ずそこに立ち寄った。俺が二日の眠りから目覚めて仕事に出るまでの間に、悟られないようにいつもの場所から食料の下に移動させてはいたが。

 ……俺が置き場所を忘れた毛布だって取れたんだ、きっとこの優秀な悪魔は、俺のいない時に俺の部屋の全てを頭に叩き込んでいたに違いない。これから長い時間を共にするはずの、俺の人生をサポートするために。

 別に直接命に関わるような病気ではなかった。痛みだって伴わないし、そう考えると俺よりもっと大変な人はたくさんいる。ただ、一生付き合わなければならないというだけで。

 ……ただそれだけで、それだけの不安と孤独で、誰かを欲するなんて贅沢だったかもしれない。それこそ傲慢だった。今更だけど。

「響く──、…………」

 カルドは何か言いたげに口を開くが、すぐに黙る。その動作だけで何を言おうとしていたのか手に取るようにわかるものだから、本当に困ってしまう。

「……ごめんね、本当に。……少し頭冷やしてくるから」

 そう言って脇を素通りして玄関に向かっていくカルドの姿に、俺はなおも焦りと不安を抱いてしまう。……こんなになってもまだ、縋っていたいらしかった。

「おい──」

「大丈夫だよ」振り返ったカルドの表情は、眉尻を下げながらも笑っていた。「このままいなくなったりなんて、しないから。流石の僕でもそこまで卑怯なことはしない」

 それに、と今度は姉の方を見遣って言う。

「響君が働いてる間に僕が家にいたなら、夜は僕が働いてることにしないと説明がつかない。流石の僕でも顔だけのヒモにはなりたくないからね」

「…………そうか」

「うん」

「……」いつもの会話のテンポが思い出せなかった。いつもこれと同じような間があって、今だからこそ居心地悪く感じてしまうだけなのか。それとも、いつもは打てば響くテンポのいい会話を自然と繰り広げていたのか。焦って言葉を探して、声もなく口が動いている。

「──カルド、」

 結局何も見つからないまま、名前だけを口にした。

「うん」

「……あー、えーと」きっとこいつならいつまでも待ってくれるのだろうけど、その間に向こうが何を考えているのかを想像したくなくて、必死に間を埋める。「……俺も、悪かった。それから…………行ってらっしゃい」

 ふ、と温かい息が洩れ聞こえてきた。安堵したようにも聞こえるその吐息に、誰よりも俺が安心感を覚えている。

「うん。行ってきます」

 ドアが軋み、重い音を立てて閉まる。すっと室温が下がったような気もするし、空気が温かく弛緩したようにも感じた。

 それからほどなくして、もぞもぞと毛布の擦れる音が聞こえてきた。

 起きるかと思ったけれど、姉はやはり寝息を立てたままだった。


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