第15話

 幼馴染とか、相棒と呼べるような間柄だったらいざ知らず。

 喧嘩別れした後に「ここにいると思った」などと言って再会できるような思い出の場所なんて、見当もつかなかった。そもそも俺たちの間には、思い出などという愛おしむべき過去の記憶は存在しない。異常な即席の感情から成る主従関係において、俺は相手の煙草の好みしか知らない。

 だから、結構走り回った。次の出勤時間までのタイムリミットつきで、更に言えば出勤時間ギリギリに見つけたのでは何も話せない。だから、急いだ。

 結局、すぐに思いつくような場所にいた。俺にとっては馴染みの場所であり、そして最近はめっきり留まらなくなった場所でもあった。俺が家から飛び出したなら話は別だが、まさかこいつがこんなところにいるとは。近所の神社とか、公園とか──無駄足に終わった場所の数々を思い返し、本当に無駄だったと小さくため息を吐く。

 ──火樹駅の駅舎の入り口付近、自販機の横。そこにある二人がけの木製のベンチに座って、帰宅前に缶コーヒーを飲む。

 随分懐かしいフレーズのように感じてしまうのが恐ろしい。

 最近めっきり座らなくなった特等席には、煙草をふかす悪魔の姿があった。

「──そこ、禁煙だぞ」

 後ろから声をかけると、彼は待ってましたとでも言わんばかりに勿体をつけて振り返った。先刻のような動揺した気配はなく、いつも通りの微笑がそこには浮かんでいる。

「僕も悪魔の端くれだからね。悪いことだってするさ」

「だったらもっと堂々と吸ってりゃいいだろ。見咎められた途端に灰皿を出すんじゃねぇ」

「これは身体の弱いご主人様への配慮だよ。聞いたところによると、キミは例の薬の病気以外に肺も弱いらしいじゃない? 埃にも煙にも、それから季節の変わり目や気温湿度の変化にも弱い。子供の頃には息苦しさに寝付けなくてお姉さんの部屋に突撃して泣きついたことがあるとかないとか」

「……」思わず舌打ちをする。あの酔いどれ愚姉め、情報の等価交換がまるでなっていない。「……そこまで知ってりゃわかるだろ。大事なご主人様の弱点を知っててフォローしない従者がどこにいる。……今度はお前が姉貴の椅子に座れよ」

 他人に自分の弱さを曝け出すことが、こんなにも痛みを伴う作業なのだということを初めて知った。身体をくの字に折り曲げ心臓を掻き乱したくなる衝動を腹の奥底に押し留め、ただ声を絞り出すことでのみ、痛みを吐き出そうと試みる。

「…………お前が、俺の傍にいろよ」

 俺にとってはキャパシティの限界をとうに超えた甘言だった。反吐が出るほどに甘い。反動でこちらが死にそうになる。だが、彼にとってはもう、瞳の輪郭をはっきり見せてやるだけの価値もない、ありふれた誘い文句であるらしかった。……救いの言葉ではないらしかった。

 厭世の悪魔はゆっくりと瞼を閉じ、透明な息をふうと吐き出す。

「……すまないね、響君」

 多くを語らない拒絶が、余計に神経を逆なでした。

「なんでだ……?」真っ当な社会から多くを拒絶されてきた俺のような人間が、さも自分が拒絶される意味がわからないという風に、嘆く。傲慢にも、怒りを覚えた。「お前、言ってたじゃねぇか。……お前が言ったんだよ、全部。悪魔は人間の願いを一生涯叶え続けるんだろ。お前には俺の魂が要るんだろ。全部……お前から始めたことだ、何もかも」

 この関係を持ちかけた張本人が、中途半端に俺を捨てるのかと。……逃げるのかと。

「これは立派な契約違反だ」

 こんな言葉を使う俺は、おそらく最低だった。それでもたぶん、いつも人を喰ったような態度を取るこの悪魔に勝つためには、俺の持つ形ばかりの優位を振りかざすほかなかった。

 だが、俺の優秀なる従者はいとも簡単に、「それでもいい」と言ってのける。自らの顔に泥を塗りたくってまで、俺のことを遠ざけようとする。

「構わないさ。何を言ってくれても僕は構わない。……それでキミが僕のことを嫌いになってくれるなら。満足してくれるなら──僕はどんな仕打ちも喜んで受け入れる」

「っ、お前……!」

「待って」カルドが思わずといった風に手をかざした。半身を捻り、背もたれに片手をついて──身を乗り出してはじめて全貌が見えた彼の表情は、なぜか困惑と動揺に満ちていた。「違う。……今のは違う。僕が間違ってた」

 それから肩でひとつ呼吸をし、カルドは疲弊の色を無理やりに薄めた。空中で静止させた手をベンチの空白部分に置いて、こう口にする。

「座って」

「え?」

「いいから。こっちに来て。──お願い」

「……」

 全てを諦めきったような虚ろな瞳と力強い声音がちぐはぐで、有無を言わせなかった。でも、そうでなくとも、俺には端から拒絶だの疑念だのの感情を募らせる可能性は全くなくて、たとえ隣に腰を下ろした瞬間に頭から喰われようが心臓をその手で刺し貫かれようが──そういう想像は多少胸の内で膨らんだにせよ──俺は何も訊かずに言われた通りにしたのだろうと思う。

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