第10話

「店の復旧作業が終わったそうよ」

 ふいに見えない何かに呼ばれるように席を立ったルーラは、戻ってくるなりそう口にした。反射的に時間を確認するが、おそらく、店が壊れてから二時間と経っていない。本来だったらまだ働いている時間だ。

「うげ……まさか今から戻れとか言わないよな……?」

「つまり、あなたの希望としては、今日この後のぶんの給料はいらないから帰らせてほしい、ということね? キョウ」

「すんごい正直な希望を申し上げるなら、今日この後のぶんの給料もせしめた上で今帰らせてほしいですね……」

「だそうよ、カルド」ルーラは俺の要求をシームレスに俺の悪魔に丸投げした。「あなたの契約者なんだから、あなたが叶えてあげなさい」

「えー……何そのしょうもない願いごと……」

 いかにも面倒くさそうに息をつきながらも、カルドは流れる所作で懐に手を伸ばす。

「響君時給いくら〜? 何時まで〜?」

「え、いやいや何それちょっと待って怖い」俺は慌てて両手を突き出し首を振った。当たり前のように金出てくんのマジで怖いんですけど。「いいよ! いいって! なんで俺がお前から金貰う図式になってんだよ! 店からどうにかなって金出てくるんじゃないの⁉︎ 悪魔の力原始的すぎんだろ!」

「キョウ、お金はその辺から湧いて出てはこないのよ」

「わかってるよそんなことは俺だって!」それを魔力なりなんなりで湧かせるのが悪魔の仕事なんじゃないのかと言っている。「取り消すから今の言葉! 時給はいいんで帰ります! だからカルド、お前はまずその財布をしまえ! それが金の湧き出るマジックアイテムじゃないんだとしたらマジで怖ぇんだよ!」

「ああ、そう? じゃあ……」別にいいのに、みたいな感じで一度出した財布をしまうのがなおさら、俺の恐怖心を増長させた。あのカルドが文句も言わず従順になるなんてどうかしている。「……で、今すぐ帰るっていうのは実現可能なわけだよね? ルーラ」

「それは問題ないわ。目撃者の記憶は全員操作し終わっているし、店の方は設備のトラブルで一時的に閉めていたことになっているから。開店のタイミングは従業員にこちらからいくらでも刷り込むことができるから、キョウやイコマが今すぐ戻る必要はないわね。……まあ、時給労働者のお財布事情によっては復旧が完了次第すぐに営業再開──ということも考えていたのだけれど、それも必要なさそうだし」

 ルーラが最後の部分だけ俺を見ながら言うので、「色々配慮して頂いてたようでどうも」と返しておいた。「すみませんね」

「礼には及ばないわよ。こちらとしても、イコマには事前に話しておくべきことがたくさんあったし、思わぬところで思わぬ悪魔の近況も知れたことだしね」

 テーブルに手をついて寄りかかったルーラが、白い悪魔を上から見下ろす。その目つきは猛禽類のように鋭く、蛇のように慎重に、相手の腹を探っていた。

「公私の混同は公務員としてよろしくないんじゃないの? 近況の聞き取りなんて、悪魔狩りの仕事じゃないでしょ。キミたちは殺すべきを殺すだけ──今こうやって僕と話している時間だって、悪魔狩りの立場からしたらなんの価値もないはずじゃない?」

「あなたと私にとってはそうかもしれないわね。でも──」

 ルーラは俺たちの座るテーブル全体に向けて、小さく首を巡らせた。怜悧な眼光が、俺の頬をひと撫でして去っていく。

「悪魔狩りは奪うことを目的として創られた組織じゃない。私たちは正常な悪魔と人間を守るために在る。そのためには、私たち悪魔について何も知らない人間に、知識を授けることだって時には必要よ。そういう意味では、今日のこの時間は、彼らにとっては無意味なんかじゃなかったはずだわ。イコマだけじゃない。……あなたみたいな危険な悪魔の契約者には、特に」

「……危険、ときたか」

 カルドは微笑みとともに一度脱力して、自嘲的なため息を吐いた。そして、テーブルの上に肘をついて指を組み、その手の甲に唇と鼻を埋める。伏せた瞼の隙間からはちろりと鮮烈な赤が覗き、俺の胸の内側を揶揄うようにくすぐった。

「響君はどう思ってるの? 僕のこと。怖いと思ってる? 嘘ばっかりで気なんか少しも許せない悪魔だって。……危険だって、そう思ってる?」

 目が合った瞬間から、眩惑に引き込まれた。一連の動作は、作為的とわかっていてもいちだんと艶めかしく、甘い。そして何よりも憐れで、……どうしようもなく惹かれる。危険だ、と本能と理性が同時に声をあげた。

 気づけば向こうの手のひらの上、なんてことも普通にあり得た。そんな風に──ねだるように上目遣いで見られたら、思考なんか放棄して否定の言葉を口にすることなど息をするより容易い。

 だが、本当に恐ろしいのはその後だ。こいつは、俺が短絡的に否定の言葉を口にする可能性を、さして信用していない。俺が「そんなことない」を言わない未来を、カルド・レーベンは最初から見越している。

 たぶんカルドは、俺に「危険だ」と言わせたいのだ。理由など知らない。考えたくもない。だが、俺がその誘惑の意図に気づいて、天邪鬼に「そんなことない」の反対を──ルーラの主張をこそ肯定し、実際にそのように振る舞うことを、彼はおそらく望んでいる。

 仕組みに気づいた途端に、怖気が走った。一体こいつは何を考えているのだろう。

 俺が死んだら狂ってしまうと言ったくせに。一生をかけて全てを捧げさせてと言ったくせに。


 ──なんでお前は突き放されることを望んでいる?


「……確かに、有意義な時間ではあった」

 静かに息を吸い、俺は言った。途端に虚しくなってくる。ルーラの意見に同調して俺がカルドを突き放そうとも、この囲い込むような魅了に──抗いがたい外面に屈して俺がこいつを必死に庇おうとも、結局はただの隷属だ。俺は俺の悪魔の思惑通りに主張をして、どちらにせよ彼は満足する。……そしておそらく、同時に失望する。どちらにせよ俺はカルドの言いなりだからだ。百パーセントの拒絶か、百パーセントの受容か。こいつが俺に求めるものは、その二択しかない。

 お前は一体どうなりたいんだ、と思う。お前自身の望みは。

「お前とルーラの会話を聞いてよくわかった。お前の底が知れた──いや違うな、お前がどれだけ『底が知れないか』を知った気分だよ、カルド」

「……」

 煽情的な態度を正面から見据えてそう口にする俺を、カルドは姿勢を戻して無表情に睨めつけていた。わずかに目を眇め、値踏みでもするように、じっと見ている。宿す光は不快感でも敵意でもない。むしろ、焦りや恐怖に近い感情なのではないか。俺にもこいつに隠し事があるのは事実だ。誰かにそれを掴みかけていることを仄めかされたら、きっと俺も同じような感情を抱くだろう。

「……なるほどね。このバカがあなたを買った理由が少しわかったわ」

 ルーラは顎でカルドを示しながら俺のことをそう評すると、ばさりとフードを被り直した。素早くテーブルの伝票を抜き取り、代わりに一枚の紙片を差し出す。

「イコマにはこれを渡しておくわ。私の携帯番号。家の怪現象の原因がなんであろうと、あなたに魔術を教えるというこちら側の意向は変わらない。もし嫌じゃなければ、いつでも連絡して頂戴。私たちがいつでもあなたの味方になるから」

「あ、ありがとうございます……!」

 藤沢がその簡素なメモ用紙を受け取ったことを確認すると、ルーラは颯爽と去る──前に、少し歩いたところで足を止め、振り返った。

「最後にひとつ教えてもらえるかしら」

 その問いは、間違いなく腐れ縁の同種に向けられていた。

「質問によるかな」

「あなたは……一体今までどうやって生きていたの? どこで何を?」

「……あのさあ、キミ、『ひとつ』って言葉の意味わかって使ってる?」

 カルドは不機嫌を隠そうともせず悪態をつく。しかし、不承不承ながらも言葉は続いた。

「人も悪魔も足を踏み入れない山奥での隠遁生活にも飽きがきてね。人里に下りたはいいけど目的がない。どうにも面白みがないから、探すことにしたんだ。──僕だけの死の鍵を」

 ルーラはただ静かに、理想を口にする同胞のことを睥睨していた。その覚悟の真偽を探るような、警官の目つきだった。

「それって、じゃあ、お前の目的っていうのは…………」

「そうだよ。『完全』」

 淡々と、でもどこか自慢げにも感じられるその語り口は、将来の夢を周囲の大人に尋ねられ、嫌々ながらという体で目標を口にする子供のそれにも似ていた。だが、人間の子供にはどうしたって出せない秋の憂いや冬の闇夜がちらついて、ああこいつは幸福というものを知らないのだなと、心の表面で直感してしまう。

 俺にはそれが、ひどく苦しい。

 ガラスの破片が心臓に突き刺さるように、喉の奥から血が噴き出すように──その仕草は俺の痛みを的確に捉えてきた。それでも悔しいかな、そういう時のカルドの表情は、ずっとこの目に映していたいと勘違いしてしまうほどに、美しい。

 美しさというものの根源が、底の見えない深い深い闇だということを知ってしまいそうで、俺はその予感がするたびに目を逸らす。苦しくなって、息をすること自体をやめてしまう。

 今の俺もまさにそうだった。だから、言葉を返す役目は再び俺以外にスイッチする。

「…………あなたは、諦めていないのね」

「そこまで泥臭く生きようなんて思ってはいないよ。境遇がそうさせてくれないだけで」

「……一体……どうやって、」

「生きてきたのか、かい? キミはそればっかりだな。早く帰ってほしいんだけど」

 苛立ちを顔に出すのも飽きたようで、カルドは苦笑いを浮かべていた。

 そして、徐々にその表情に悪意が宿る。言葉で嬲ると言わんばかりに。あまりにも悪趣味な、頬の歪み。滲む眼光。その攻撃性の矛先は、果たして誰に向かっていただろうか。

「キミだってさっき言っていたじゃないか。想う力があれば、大抵のことはどうにかなる」

「…………あなた、」炎の悪魔が、ゆっくりと凍りついた。「正気なの……?」

「僕のことが魔物堕ちにでも見えるなら、この場で殺してくれても構わないけど」

 泰然と構える純白の悪魔に、修道女は震えていた。腰より下で拳を握りしめ、砕けんばかりに奥歯を噛み締める。しかしそれもわずかな時間だけで、ルーラは自らの意思で烈火のごとき感情を鎮めた。やがて、燃えかすのような吐息が零れる。

「……残念だけど、まだ許可が下りそうにないわね。もう少し弱ってから自首することをお勧めするわ」

 言って、ルーラは奥の席に座る俺に視線を滑らせた。もう質問も追及も何も来ないと思っていたので、突如として合わせられた照準にギョッとする。種類は違えど、悪魔の目力は総じて強い。

「キョウ、あなたはきっと幸せにはなれないわよ。今のまま、この男に付き合っていたら」

「……」

 俺のことを壊してしまうとか、このままだったら幸せになれないとか。……そんな言葉、一日のうちに何回も言われるなんて思ってもみない。こんなものは俺みたいな人間の一生に組み込まれるべきイベントではない。

 というか、人のことを悪い男に引っかかった哀れな被害者みたいに言うのはやめてもらえないだろうか。これでも俺が契約者で、この悪魔の主人なのだ。主導権は俺にある……はずじゃないか。

 ……まあ、主導権なんてあったところで大口も叩けないし、流されるままにずるずると……というのは事実かもしれないが。

「……そう言われても、俺はこいつと知り合ってまだ間もないんだよ。人となりも大して知らないうちから断定されても、……誰の言葉を信じていいかなんてわかんねぇだろ」

「あれ? 底が知れたんじゃなかったの?」

 なぜかカルドがルーラの援護射撃に入ってくる。お前はどっちの味方なんだ。

「……お前がいなかったら俺は死んでた。助けてもらった恩ぐらい、最低限返す。じゃないと罰が当たりそうだ」

「ふぅん? 利子が嵩んで高くつく前に、全部なかったことにするのが賢明な判断だと思うけれどね。僕は」

「だから……」お前はどっちに転んでほしいんだよ。「……なあカルド、」

「何かな響君」

 俺は深呼吸するように息をたっぷりと吸って、やがて短く吐き出した。

「俺なのか?」我ながら自意識過剰だとは思う。笑われる準備もできている。「お前が求めてる人間の魂。お前が言うところの、死の鍵ってやつは」

 カルドは表情を変えなかった。偽りの感情でミスリードさせることすらしない、完璧なポーカーフェイスだ。余裕だけが俺の目の前に堂々と居座っている。

 ただ、その代わり、彼は笑いもしなかった。自意識過剰だと言って馬鹿にはしなかった。

「お前は道楽だと言ったけどな、それでもお前、結構余裕なかっただろ。少なくとも魔物相手に攻撃手段を持たない時間があったぐらいには。全部俺を契約に導くための芝居だったのかもしれないし、そうだとしたら俺に見破れる自信は皆無だよ。……でも普通に考えたらおかしいだろ。同じ店には魔力の塊みたいな藤沢がいて、その上で『そうじゃない』ほうを選ぶなんて。……確かに、道楽なりの縛りプレイみたいなのがあるのかもしれないし、簡単なルートはつまらないと言うかもしれない。お前みたいな何考えてるかわかんない奴なら特に。否定の材料ならいくらでもあるし、俺はそれを否定しようとは思わない。……けど、」

 俺は俺自身をこれでもかと言うほど信用していなくて、少しの評価だってしていない。

 だからこそ、俺が選ばれる理由がわからないのだ。手前勝手につけた価値を──契約を結ぶだけの意味を他人に押し付けてもらわない限り、俺は自分が誰かに選んでもらえる理由を呑み込むことができない。

 だからこれは全部理屈だし、推測だ。こいつが俺を欲しがる理由。俺が目の前で死なれて困る理由。……全部が全部、個人の願望を抜きにして語ることのできるロジックだ。

「──けど、お前がもっともな理由で俺のことを必要としてくれてるってんなら、俺は喜んでお前の言うことを信じるよ」

「…………随分と盲目的じゃないか。熱烈だね。……この前からずっとそうだ」

 深い息を吐いて、カルドは雨晒しの小動物に向けるような目で俺のことを見た。既に席を立って少し離れた場所にいたルーラは、この場を囲む空気に一瞥をくれて去っていく。彼女の心情は、今の俺には察せない。いつか俺にも、この選択が間違いだったと気づく瞬間が訪れるのかもしれない。でも、少なくとも今だけは、自分に出せる最善の答えを提示できたと確信していた。

 それに応える悪魔の声は、感嘆の吐息から始まった。

「……全く、参るね。キミのそういうところには舌を巻くよ。誠実さっていうのは劇薬だ。救われる人もいれば、その効力に人生を潰される人もいる。……キミもそう思わない? 藤沢君」

「えッ、あ……すみません邪魔ですよね⁉︎」

 急に話を振られた藤沢が、慌てた様子で腰を浮かせる。ガタガタと音を立てて帰り支度を始めるが、そこまで急ぐ必要はないような気がした。

「そう逃げなくても、別に俺たちは気にしてないから大丈夫だぞ。……あ、いや、俺『たち』かはわかんないけど。少なくとも俺は」

「いや、おれが気にしますから!」

「ん? そうか?」

「普通は気にするんですよ! カルドさんだってそうですよね? こんな込み入った話、おれみたいな部外者に聞かれたくなんかないんじゃないですか」

 普段から自分を主張しない藤沢が一生懸命に訴えてくるのに驚き、俺は目を白黒させながら二人の間で視線を彷徨わせていた。それを目ざとく見つけたカルドが、愉快そうに喉をくつくつと鳴らす。

「だから言ったじゃないか。キミの性格は結構な劇薬だってね。異常者の類だよもはや」

「いじょ……」

 俺だって自分のことを正常とは思っていないが、他人から堂々と言われるとそれなりに心に来るものがある。しばし言葉を失う一方で、またやってしまったかと内心で爪を噛む。

 そんな風に苦々しく歯ぎしりをする俺を横目で見てから、カルドは藤沢に視線を移した。

「まあ、普通だったら愛の囁きは二人きりの時に聞きたいし、むやみやたらに他人の耳に入れないようにはしたいものだけど、今回ばかりはキミにいてもらえると助かるよ。この場の証人になってもらいたくてね」

「証人……ですか」

 若干の困惑を顔に残しつつも、藤沢はゆっくりと腰を下ろす。

「そう。響君がこれから先、全部なかったことにして逃げちゃったりしないように」

「誰が逃げるかよ」

 人生と魂を託しているのはこちらなのだ。仮に逃げたくなったところで、俺にはもう逃げようがない。

「さあ、どうかな。キミの見立て通りなら、僕はまだキミに見せていない側面がいくらでもあるってことになるからね。底が知れないっていうのはそういうことだよ。もしかしたら今後、僕はキミに対して凄惨な暴力を振るったりするかもしれない。……そうなった時も、キミは僕の前から逃げないって確約できるのかな?」

「……お前なあ、」

 ざらりとした不快感が、俺の心を柔らかく撫でつけた。……それで脅しのつもりか?

 少なくとも、血を見たぐらいで顔面を蒼白にし、うわ言のように謝罪の言葉を零すような錯乱状態に陥っていた奴の台詞ではない。……いや違う。まさしく「台詞」なのだ、今の言葉は。

 今のは、カルド・レーベンという完璧に美しい悪魔が取っていい言動ではなかった。……あのカルドが、俺を引き留めるためだけに言葉で脅す? それも暴力などというチープな小道具を持ち出して。……そんなことあっていいはずがない。

 むしろ、こいつは俺に対してだけは、何があっても泰然と構えているべきだった。物理的な距離だけで言えば、現時点でカルドに一番近いところにいるのは俺だ。近い場所にいる相手には、どうしてもボロが出やすい。見られたくない部分の片鱗を見せやすい。

 もしも本当に俺を自分の元に留めておきたいと思っているのなら、カルドは永遠に「底の見えない悪魔」でいるべきだった。底知れなさという引力で人間の心を絡め取るなど、あいつにとっては造作もないことだろう。ポーカーフェイスはお前の十八番じゃないのかよ。

 なのに、こいつは今、間違いなく俺に対して「必死に」なった。らしくない言動を取って俺に浅い底を幻視させた。それが本物であろうが偽物であろうが、深さの終わりが見えた時点で人は興味を失うものだ。完全にあいつのミスだった。

 ……でも、本当に今のはミスだったのだろうか。

 あのカルドが──底知れない引力を持ったあの悪魔が、こんな簡単なミスを犯すものだろうか? 一人の人間ごときに必死になるだろうか? ……そんな引っかかりが、今のカルドの言動に「台詞」っぽさを与えていた。

 俺が本当にあいつにとっての「死の鍵」だと言うのなら、言葉を尽くす前に殺せばよかったのだ。食べてしまえばよかった。……なのにそれをしない。一番手っ取り早い手段を使わずに己の安っぽさを晒してしまう愚行が、一番カルドらしくない。

 まるで誰かに言わされているみたいだった。あるいは、自分自身にこそ、その必死さを強いているような。

 ……なんだか悲鳴じみている。

 そう感じた瞬間だった。

「──もし今後そういうことが本当にあったとしたら、この場にいた第三者としておれが真渕先輩をあなたの元から逃がしますよ」

 藤沢が言った。あまりに真剣な声色だったので、自然と視線が吸い寄せられた。それはカルドも同じだったらしく、少し驚いた様子で、藤沢を見る。……じっと。ともすれば高名な画家の絵や、高価な宝石を注意深く観察し、同時に魅入られているかのような妙な時間の流れを感じた。端から見れば空白としか思えないような。

 そんな行程を終えて、カルドはふっと笑んだ。柔らかい微笑。だが、かつて俺に向けたものとは少し異質だ。柔らかいが、その実、内包された感情はいつもより過激なような。──上から威圧し丸呑みにしてしまいそうな、プレッシャーを感じる。赤い瞳が満月のように大きい。

「……キミはいつでも正しいんだろうね、藤沢君。神様から愛されているだろう。──ほら、今もキミの魂はパチパチと音を立てて──まるで、」

「やめろ」

 思わずだった。気づいた時には真横に手が伸びていて、後輩を庇う姿勢をとっている。

 悪魔がゆったりとこちらを向き、目を細めた。恍惚と──まるで心で俺の行動を味わうかのように。歓喜にうち震えるように──口角を上げる。首を、目を──身体のどこかを動かすたびに、絹の髪が揺れる。なんてことのない蛍光灯の光が反射して、俺を緩やかに失明させようとする。……眩しい。この光を俺だけのものにできたなら──

「……先輩、」

「…………大丈夫だ」悪魔から目を逸らさず、答える。今しがた我に返ったのは内緒だ。「こいつがものの例えで暴力を持ち出すなら、絶対に暴力は振るわない。……それだけは信用していい」

 本当はもっと、カルドが思ったよりも複雑じゃない奴なんだということを説明したかった。寒気がするほど綺麗で腹の中は読めないけれど、むやみに他人を傷つける奴じゃない。むしろ俺のことを守ってくれた恩人なのだと。感情表現が豊かでよく笑うし、そういうところは素直でかわいらしいとすら思う。血を見てビビるとまでは軽々しく口にはしないけれど、人の痛みがちゃんとわかるいい奴なのだと──言いたかった。

 ……なのに、なんだ、こいつ。

「カルド。お前…………なんか変だぞ」

 未知の生物と相対しているみたいだった。そりゃあ悪魔なんだから未知で当たり前かもしれない。だが、何かが──纏う空気が、雰囲気が、圧倒的に違う。

 それこそ暴力的だった。さっきのミスが嘘のように、自分の魅力を理解した行動を的確に取ってくる。一挙手一投足が、いや、それ以上の微細で何気ない仕草や瞬きまでもが、過剰なまでに琴線を刺激する。爪を立てて無理にでも引きちぎろうとしてくる。……これがこの悪魔の持つ魔力だとでも? 違う。俺の知ってるこいつは──カルドは、こんなに攻撃的じゃない。煽情的に振る舞って相手を一方的にねじ伏せようとする奴じゃない。

 これじゃあまるで何かに取り憑かれでもしたみたいだ。……獣のようだ。魔物のようだ。

 無意識に噛み合わせていた歯が、ギリと鳴った。

 ……何に負けてんだよ、お前。

「──どうしたの響君。ああ……ゴメンね。嫉妬しちゃったかな。僕が別の人間の魂ばかり見ていたから……でも僕だって悪食じゃないんだ、目の前に高級ステーキが差し出されたら誰だって──」

「お前のご馳走は俺だろ」

 ガシャン、とテーブルが鳴った。大して食器の載っていないテーブルだったが、どうやら身を乗り出した拍子にソーサーの上のカップが音を立てたらしい。陶器やガラスの音は何かと心臓に悪いから、申し訳ないなあと店の中の人たちに対して思う。が、幸運なことに周りに俺たち以外の客は見当たらなかった。心の中で謝罪する対象も、店のスタッフさん数名で事足りる。

 肝心の俺はといえば、立ち上がってカルドの胸ぐらを掴み上げていた。と言っても、文字通りに持ち上げられるほどの腕力がないので、自分の側に引き寄せた、と表現したほうが正しい。

 そんな事態に陥っても未だ、悪魔はうっすらと笑っていた。……この時点でおかしいじゃないか。俺が勝手に触れてんだよ。お前に。もっと怯えた様を見せろ。本当のお前はどこにいる。

「……この際嫉妬でもいい。いや違う。嫉妬だよそうだよ。だってお前が言ったんだろ。なあ。俺に全部くれるって。だったら今寄越せよ。俺を欲しがってるお前だよ。俺しか眼中にないカルド・レーベンを俺に寄越せ。今すぐだ」

「……──っぐ、う」

 途端、カルドが低く呻いた。その声を聞いた瞬間に俺は確信する。……戻った。

「カルド? おいカルド……!」

 大丈夫か? とネクタイを掴んだまま言う。その状況におかしさを覚えたのかなんなのか、カルドは肩を震わせてくくと笑った。困ったように眉根を寄せ、「すごいな、キミは」と呟く。その笑顔が泣きそうなほど健気だったから、なんだか胸が苦しくなる。

「……ごめんね。そうだよ。僕のご馳走はキミだけだ、響君。…………僕はそう信じてる」

「……信じてる、ってのは」

 俺はゆっくりと腕に込めた力を緩め、やがて離した。俺は半ばへたり込むように席に座り、カルドはその間に、ネクタイを締め直して襟を正していた。どこか疲弊していながらもその動作は洗練されていて、さっきまでの雑味は露ほども残っていない。……改めて、別人だったと思い知る。

「ルーラの言った通りだよ。キミが僕の求める魂の持ち主かどうかは、現時点では断定できないってこと。食べてみるまでわからない。完全を得るまで、キミの魂が僕にとっての当たりかはずれかすらわからないんだ。僕たち悪魔に、自分の運命を見る審美眼は備わっていない」

「だったら……」

「だったら契約した直後に殺せばよかったのに──そう言いたいのかい?」

「っ……」

 何も言い返さなかったのは、完全に俺のミスだった。無言とはすなわち肯定だ。あんなに俺のことを──俺自身がその可能性を信じていなかったとはいえ、悪魔の暴力からも守ろうとしてくれた後輩の前で、露わにしていい動揺ではなかった。隣の席から注がれる視線が、気遣わしげで余計に怖い。もう二度とまともに顔を見れないのではないか、とすら真剣に思った。

「いいかい響君、僕は死にたいんだ。僕は死ぬために今まで生きてきた。毎日が消化試合みたいなものなんだよ。──いい加減、疲れたんだ」

 投げ棄てるような脱力した声が、腹の底まで一直線に落ちた。場所が場所なら恐ろしいほど画になっていただろう。でも、それが強い風吹き荒れる断崖や陽の沈む海辺でなくとも、俺の呼吸はすっと止まった。

「でもね、僕はキミのことを自分の死の鍵として見ているわけじゃないんだ。もちろんそうだったらこれほどの幸運はないし、僕もそれを期待してはいる。そして実際、キミの魂を喰らったら僕の生は終わると思っているよ。でも──いや、だからこそ……かな。僕はキミに死を求めてはいない。……ねぇ、わかるかい? 僕がキミを選んだ理由。もっともな理由だったら、僕はキミに最初から話しているんだよ」

「…………『面白そうだったから』……、か」

 ため息のように、口から言葉が零れた。熟考せずとも結びつく記憶が、俺の頭の中には確かにあった。

 カルド・レーベンという悪魔が俺に固執する理由。それは俺の魂が、彼にとって二つとない特別なものだからだ。だが、彼は俺と生活することすら道楽だと宣う。契約を取りつけた今でさえ、こいつは俺を殺さない。……道楽だから。面白そうだから。

 カルドにとって、俺の魂を得ることが確定してしまったここ数日から、俺が死ぬまでの数十年間は、余生なのだ。自分の使命を全うし、明確な終わりが保証された燃え殻の時間。俺が土に還るまで、彼は無に等しい時間を過ごすことになる。

 ……だが、同時に、彼はようやく人生を始める。

「お前は生きたいんだな。俺が死んで、お前が死ぬまでの百年足らずの時間を」

 彼は楽しみたいのだ。ようやく手にした限りある生を。……誰かの隣で。

「ねぇ、逃げないでよ? 響君。僕の人生は全部、キミに預けてるんだからさ」

 そう言って、カルドはまた困ったように俺に笑いかける。

 なんでそんなに苦しそうなのか、俺には問い質す勇気がなかった。

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